「青スポ」復活~あるサッカー好き女子の奮闘記
2016年12月24日。青山学院大のスポーツ新聞「青山スポーツ」(通称「青スポ」、発行元・青山スポーツ新聞編集局)は、ブログで休刊宣言をした。深刻な人員不足が原因だった。
その年の9月にはすでに「青スポが休刊する」という噂が立っていた。駅伝というキラーコンテンツがあっても、学生記者のなり手がどんどん減っていた。青スポ休刊の噂に、ほかの大学のスポーツ新聞部にも衝撃が走った。そんな状況のなか、当時愛好会だった青スポにひとりの1年生女子が入会した。現編集長の長尾凜(3年、理工学部)だ。
軽音部で「これがやりたいことなのかな?」
入学したばかりのころ、長尾は青スポを眺めるだけだった。理工学部のある相模原キャンパスでは新歓イベントが開催されなかったこともあり、そのときは青スポに心が動かなかった。当時選んだのは軽音部。中学から弾いていたアコースティックギターをエレキギターに持ち替え、バンドを組んだ。ただ、少しの違和感が長尾の心にあった。「これが私の本当にやりたいことなのかな?」
彼女は無類のサッカー好き。小学生のときに兄の練習についていくうち、自分もやるようになった。中学では地元のクラブチームでプレーした。父親もサッカー好きで、家族でいちばん盛り上がるのはサッカーの話。長尾はFC東京の熱心なサポーターで、高2のときにはホームゲームすべての応援に行った。このサッカー愛が長尾を動かした。「心から夢中になれるもの」を模索した末、軽音部には夏で区切りをつけ、サッカーに関われる青スポに入会した。16年9月のことだった。
長尾は初取材のことをよく覚えている。もちろんサッカーだ。「青学と中大の試合でした。後半45分に2-2の同点に追いついてアディショナルタイムに逆転っていう、激アツの展開だったんです」。心底楽しそうに振り返る。そして彼女は初めて記事を書いたときに感じた。「自分の中にあるサッカーの知識は、ここでこそ生かせるものなんだ」と。それまではサッカーの話をしたくても、彼女ほど興味も知識もある友だちはいなかった。一抹の寂しさを感じていた。だけど、出あえた。自分がこれまで蓄えてきたサッカーの知識、深めてきたサッカーへの愛を思いっきりぶつけられるフィールドに。それが青山スポーツだった。
だが前述の通り、このときの青スポはすでに深刻な人員不足。先輩は3年生のふたりだけで、同期はいない。先輩は翌年の1月には引退する。1月以降は実質的に長尾ひとりだ。存続はほぼ不可能な状況に追い込まれていた。「年明けの箱根駅伝号が終わったら廃部になるよ」。入会したときに先輩から伝えられてはいた。それでも長尾は「夢中になれることはこれだ 」という思いが強く、そんな状況でも入会した。刻一刻と休刊に向かい、時間は過ぎていく。そして12月24日。第63号が発行された3日後、青スポはブログで休刊宣言をした。
いろんな人が助けてくれた
17年1月3日。一色恭志(現GMOアスリーツ)や下田裕太(同)を擁した青学大は箱根駅伝で3連覇を達成した。しかし青スポには優勝記念号外を発行する余力がなかった。大手町でゴールを見届けたのち、先の見えぬ今後について語り合った。そこで青スポのOBが提案した。「体育会学生本部の本部長と会ってみたら? 」
長尾の奮闘が始まった。そのOBとともに本部長に会いにいった。次期本部長にも会いに行った。体育会を束ねる会長にも手紙を送り、会いに行った。どうすれば青スポを存続できるか考え、走り回った。
青スポの未来が大きく動いたのは、次期本部長とともに学生生活部スポーツ支援課を訪れたときだ。スポーツ支援課は16年10月に青学大の学生生活部にできたばかりの部署で、文字通り体育会の活動の支援をしている。海野大輔課長は、当時のことを覚えている。「正直にいうと、長尾さんには悲壮感がありました。こちらも、なんとかしてあげたいという気持ちでいっぱいになりました」
金銭面でもかなり苦戦しているという話を聞いた海野課長は提案した。「体育会学生本部の広報担当として青スポを発行しませんか? 」。すなわち、愛好会であった青山スポーツ新聞編集局を部にする、ということ。部になると、予算がつく。それまでの取材経費は自腹だった。だから記者のなり手が減った。記者が減ると一人ひとりの負担はさらに増え、またやめていっていた。青スポにとって最高の生き残り策が示され、長尾はこれに飛びついた。
一方、学外でも支援の輪が広がっていた。その中心にいたのは当時中大の4年生で、中大スポーツ新聞部のOBだった曽根田智明。曽根田は青スポとスポーツ東洋出身の4年生2人とともに、3人で「存続プロジェクト」を立ち上げた。中大スポーツや帝京スポーツの面々も巻き込み、10人ほどのチームをつくった。大学スポーツ新聞の世界には「困ったときはお互いさま」の精神がある。とくに曽根田には「大学スポーツ新聞全体の衰退に歯止めをかけて、プラスに転じたい」という強い思いがあった。
とはいえ青スポは長尾ひとりだけ。彼女にはまだ、新聞制作のノウハウがなかった。それでも4月に入学してくる新入生に向けて最新号を発行しなければ、部員を増やしようがない。そこで就職間際の曽根田は、長尾に付きっきりで新聞制作のイロハを教えた。
現在飲料メーカーに勤務する曽根田は当時をこう振り返る。「彼女にはほかの多くの学生記者と決定的に違う、熱量の高さを感じました。新聞制作への熱意です。ふつう1年生の記者は取材、原稿、組版にしても基礎を学ぶので手一杯なんです。だから青スポを救うためには、初歩的なところと、どうすればラクにできるかといったことを教えるのが先決と考えてました」
これに長尾は納得しなかった。クオリティーの高い新聞を作るためにどうしたらいいのか、4年近く新聞制作に携わっていた曽根田さえ答えに悩むような質問をどんどん投げかけ、紙面を丁寧に作っていった。
長尾編集長が大泣きした日
17年4月。一時は絶望的に思えた「青山スポーツ第64号」が発行された。1面には駅伝の写真に加えて「新入生の皆さんご入学おめでとうございます」の文字。4面には青スポの紹介記事。そして2面には、長尾が取材を続けるうちに大好きになったレスリングの記事も載っていた。長尾は最新号を手に、キャンパスで配った。そこからひとり、ふたりと部員が集まり、11人にまで増えた。スポーツ支援課の海野課長の頭には、部員が集まってうれしそうな長尾の姿がいまも焼き付いている。海野課長は「学業の合間に取材の現場にいき、さまざまな競技をフォローする。感心しますね」と言って、ほほえんだ。
長尾は10人の部員をたばねる編集長となった。部員が入ってくると長尾が代わりに取材申請をし、取材に同行し、青スポの先輩や曽根田から教わった知識を丁寧に教える。部員が増え、長尾ならではの喜びがあった。「私が取材をしているときに、ほかの競技を取材してる部員がツイッターで速報をあげてくれる。ひとりのときにはなかったことだから、うれしかったです」
もっとうれしいことがあった。17年12月、大学新聞コンテストのスポーツ新聞部門で「記事賞」を受けたのだ。長尾は大泣きした。前年のコンテストではエントリーすらできず、受賞した大学の人たちが喜んでいる姿を「いいなぁ」と縁遠く感じていた。寂しかった。だからこそ記事賞を受けたとき、この1年の思いが涙になってあふれた。1年前は青スポの未来を思い描けなかった。でもいまは、目の前に新聞をつくる仲間がいる。そして自分を支えてくれた多くの人の顔が浮かんだ。
来年1月、長尾は青スポを引退する。箱根駅伝で青学が勝てば号外を出すつもりだ。17年は出せなかった号外を発行できるまでに、青スポは大きく育った。長尾は青学の箱根駅伝5連覇を信じている。そのとき編集長として最後の取材が、最高の大仕事になる。
大学スポーツ新聞は学生アスリートのいちばん近くにいちばん長くいて、彼ら彼女らの頑張りを伝えるメディアだ。カレッジスポーツを支えるメディアと言っても過言ではない。そして学生記者の紡ぐ記事の裏側には、学生記者自身の物語が山ほどある。青スポ復活物語は、そんなストーリーのひとつなのだ。