明大・古賀友太は失格からまた、歩き始める
第102回日本選手権 男子20km競歩
2月17日@兵庫・六甲アイランド甲南大学周辺コース
失格 古賀友太(明治大1年)
「今日はもう、悪いところしかなくて。もう、反省だらけです。一から見直さないといけない。痛めた足をごまかすというか、そのまま出場してしまって……。本来の自分の動きがまったくできなくて、それで警告を出されてしまいました。反省点を整理しないと……」。レース後、明治大の古賀友太(1年、大牟田)はポツポツと言葉を続けた。高3夏のインターハイは男子5000m競歩で優勝。昨秋のインカレ10000m競歩は3位。そして臨んだ日本選手権はゴール手前での失格……。トントン拍子で飛躍してきた古賀の落胆は、想像してあまりあるものだった。
ひざをかばって崩れたフォーム
古賀は昨年12月の足のけがで、今年の1月中旬まで練習ができなかった。しかも1月末には左ひざに痛みが出始めた。日本選手権の出場も危ぶまれたが、なんとか間に合わせた。「いけるところまでいこう」と食らいつき、最初の5kmは先頭集団で勝負。しかし10km手前で2枚目の警告を出されてしまった。
日本選手権20km競歩では今回、初めてピットレーンが設置された。3度の警告で即失格ではなかったが、古賀は2枚目の警告カードを受けてからはゴールするための歩きに変え、ペースを落とした。
痛めた左ひざをかばいながらの歩きは、自分が思い描いていたフォームと合わず、古賀の中で焦る気持ちが増した。歩型を正すためにペースを落としたにもかかわらず、3度目の警告を受けてピットレーンへ。2分間の待ちぼうけを余儀なくされた。気持ちを切り替えてゴールを目指したが、ゴールライン目前で4枚目の警告カードが出された。ゴールシーンを撮影しようと待ち構えていた私は、何が起きたのか分からなかった。それほど、残りわずかだった。
打倒東洋への思い
古賀は中学から陸上を始めたが、駅伝で県大会にも進めない学校だった。それでも福岡の名門・大牟田高校から勧誘を受けて進学し、駅伝に照準を合わせて走っていた。競歩を始めたのは、けががきっかけだった。赤池健監督から、リハビリの一環として競歩を勧められた。次第に競歩の記録が伸び、大会にも出場。2年のインターハイでは予選5位のタイムで決勝に進出したが、決勝で失格となった。最後のインターハイでは20分27秒05で優勝し、前年のリベンジを果たした。
競歩では東洋大勢の活躍が目覚ましい。昨年5月に中国で開催された世界競歩チーム選手権で、池田向希(2年、浜松日体)が20kmで優勝。10000mの日本記録保持者である松永大介(富士通)も東洋大OBだ。古賀が明大進学を決めたのは、先に明大から声をかけてもらえたからというのもあったが、もともと「東洋を倒したい」との思いで東洋大以外の道を探していたという。また、明大OBで50kmの日本記録保持者でもある野田明宏(自衛隊体育学校)が世界で活躍する姿を見て、明大へのあこがれを募らせていた。
高校のときには1人や2人で練習することが多かった古賀にとって、切磋琢磨できる仲間がいるのは心強かった。週に何回か全員でのポイント練習があるが、それ以外の練習は基本的に各自に任せられている。「自分で考えて取り組む練習が多くて、主体的に考えて動くという力がついてると思います」と古賀。1年での自身の成長を実感し、改めて競歩の魅力を感じられるようになった。
能美でリベンジ期す
昨年5月の関東インカレでは、東洋大勢のペースアップに最初からついていけず、2度の警告を受けた。結果はワンツーフィニッシュした東洋大の池田と川野将虎(まさとら、2年、御殿場南)に大きく離されての4位。リベンジをかけた秋のインカレ10000mでは記録よりも勝負に徹した。東洋大の二人には敗れたものの、3位で表彰台に上った。今年7月にイタリア・ナポリで開かれるユニバーシアードを見すえる古賀にとって、励みとなるレースだった。
それだけに、今回のレースは振り返りたくもないものだろう。敗因ははっきりしている。「まずはけがを治すこと。心肺機能よりも、動きが自分の課題です。どんなときでもきれいに歩かないと、競歩じゃないですから」。古賀はユニバーシアードの選考も兼ねる、3月17日の全日本競歩能美(のみ)大会(20km)にすべてをかける。
このレース、東洋大の池田は5連覇がかかっていた高橋英輝(えいき、富士通)に食らいつき、1秒差の2位となった。「東洋に勝ちたいという思いはありますけど、自分はまだまだ池田さんをライバルとか言えるレベルじゃないです。3月の能美には川野さんも出ると思うので、そこでは二人と勝負できるようにしないと」。古賀は自分に言い聞かせるように語った。
「神戸での悔しさがあったから」。古賀がこんなふうに前向きに語れる日が来ると信じたい。