東海大・郡司陽大、ラストイヤーの始まりに待っていた試練
日本学生陸上競技個人選手権第2日
6月8日@Shonan BMWスタジアム平塚
男子5000mタイムレース決勝 24位
郡司陽大(東海大4年、那須拓陽) 14分32秒54
個人選手権で、久々に彼の走る姿を見た。東海大学4年生の郡司陽大(あきひろ)。髪形が変わった以外にも違和感を持った。体が、絞れていなかった。
春先のけがで1カ月半走れず
序盤は第2集団にいたが、早い段階から苦しそうだった。徐々に後退し、タイムレース決勝で62人中24位の14分32秒台だった。
「陸上を始めてから3日以上続けて走らないってことがなかったのに、初めてけがで1カ月半も走れなくて。まだまだですね。でも、ここからですから」。郡司は明るく言った。骨挫傷に見舞われ、走れるようになって1カ月。復帰3レース目だった。
今年1月3日、郡司の雄姿は長々と正月のお茶の間に映し出された。
東海大のアンカー。トップで襷(たすき)を受けたとき、2位の東洋大とは3分35秒差あった。余裕を持って10区の23.0kmを駆け抜けた。最後は両腕を広げ、満面の笑みで東海大として初の総合優勝を決めるゴールテープを切った。
黄金世代と呼ばれる郡司たちの代が4年生となり、東海大は学生駅伝3冠を新チームの目標に掲げた。
あの栄光の日から2カ月後の3月3日、東海大の箱根駅伝総合優勝祝勝会があった。
その日初めて、私は郡司としっかり話した。ずっとけがをしないでやってきたのに、少し前にけがをしてしまったこと。それでもユニバーシアードのハーフマラソン代表を狙っていることなどを話してくれた。
しかし、そのハーフマラソン代表が決まる日本学生ハーフ選手権(3月10日)に、郡司の姿はなかった。ジャージ姿で裏方としての仕事をしていた。けがが癒えていなかった。
ようやく4月中旬に練習に復帰。二つのレースを経て、個人選手権に臨んでいた。聞けば自分が主役の一人になるはずだった関東インカレの間も、大学で一人で走っていたという。「練習に復帰してすぐ九州で合宿があったんですけど、心臓も足もついていかなかったです。走りがバラバラで、怒鳴られて怒鳴られて。けが明けって、こんなにもキツいのかと思いました。走ることが楽しくてしかたないタイプだから、1カ月半も走れない間は心がしんどかったですし」。大学ラストイヤーの始まりに、これでもかと試練を味わっていた。
苦しむ郡司がいま、心に決めていることがある。
同期の鬼塚翔太(大牟田)や關颯人(佐久長聖)たちは、けが明けでもすんなり復調していく。「僕は鬼塚や關みたいにはできないけど、一つひとつやっていったら、また強くなれるんだというのを、後輩たちに見せたいです」。郡司自身が1年生のとき、そうやってはい上がっていく4年生の姿を見て、勇気づけられたそうだ。
「次に見せるのは、自分じゃないのかなと思うんです」
全日本大学駅伝での号泣
その言葉を聞いて、思い出した。
3月3日の祝勝会のとき、彼にずっと聞きたかったことをぶつけた。昨年11月の全日本大学駅伝で2位に終わったあと、彼が号泣していた理由についてだ。
「ほんとに自分が情けなかったんです。僕がもっとしっかり走って後ろとの差を広げてれば……。湊谷さんに申し訳ないことをしました」
あの日、6区(12.8km)の郡司がトップで襷を受けたとき、2位の青山学院大に24秒の差があった。郡司が7区のキャプテン湊谷春紀(現・横浜DeNAランニングクラブ)につないだとき、青学の吉田圭太に11秒差まで詰められていた。そして湊谷は青学のキャプテン森田歩希(ほまれ、現・GMOアスリーツ)に逆転され、東海大は優勝を逃した。
湊谷が郡司たちにキャプテンとして、4年生としての背中を見せてくれていたからこそ、郡司は彼に惨めな思いをさせてしまったことを悔やんだのだろう。湊谷さんを男にしたい、いい思いをしてもらいたい。その気持ちが強かったからこそ、あんなに泣いたのだろう。
いま、郡司は誓う。
「4年生の中で、自分が一番(長い)距離を走れると思ってます。少しずつ復活していって、強い姿を後輩に見せたいです」
自分が見てきた4年生のように、後輩に勇気を授けられるような男になりたい。
その日に向かって、郡司はここからはい上がる。