20km競歩で日本新の岡田久美子、低迷した4years.は「世界へ羽ばたく準備」
6月8日にスペインから、ちょっとしたサプライズニュースが届いた。ラコルーニャで開かれた国際陸連グランプリ競歩女子20kmで、岡田久美子(ビックカメラ)が1時間27分41秒の日本新記録で6位と健闘したのである。
岡田は埼玉県熊谷女子高で高校ナンバーワンの選手となり、立教大1年生のときには世界ジュニア選手権(現U20世界選手権)で銀メダルを獲得した期待の選手だった。だがその後の学生時代に記録を伸ばすことができず「岡田は終わった」とまでささやかれた。立教大が陸上競技の強豪校ではなかったことも、そう言われた一因だっただろう。
だが岡田は立教大での4years.を「世界へ羽ばたく準備ができた学生時代」と振り返る。
スペインで女子20km競歩海外初の日本新
女子20km競歩がオリンピック種目になったのは2004年アテネ大会から。それ以前は10km競歩だった。歴史が浅い種目ではあるが、日本選手が過去、海外で日本記録を更新したことはなかった。
岡田は、ラコルーニャで記録を狙っていたわけではなかった。
「今回は勝負を重視していました。記録を出すのは神戸(2月の日本選手権)かな、と考えてましたので」
ラコルーニャのレースはハイペースで始まったが、岡田は先頭集団から離れ、自分の力を最も発揮できるペースで歩いた。後半で順位を上げるのが岡田のスタイルである。
それでも10km通過は44分10秒と、後半で頑張れば日本記録の1時間28分03秒(渕瀬真寿美が09年にマーク)に届くペースだった。そのペースにも「余裕があった」という。
岡田はビックカメラ入社2年目の2015年世界陸上北京(25位)、16年のリオ五輪(16位)、17年の世界陸上ロンドン(18位)、そして18年ジャカルタ・アジア大会(3位)と、日本代表として歩き続けている。オリンピック&世界陸上のメダルを3大会続けている男子50km競歩や、リオデジャネイロオリンピックで入賞した男子20km競歩に比べると見劣りはするが、リオ以降はその時点での力を発揮した歩きだった。
ラコルーニャでは過去の国際大会と比べ「力がついたことでコンディショニングが冷静にできたと思います。日本でやってることが海外でもしっかり出せた」という。気温が16度で風も弱く、コンディションにも恵まれた。
今回は11kmで前の集団との距離を見て、前を追う決断をした。1kmごとの公式計時が発表されているが、11kmまでは4分26秒だったラップを12kmまでを4分21秒、13kmまでを4分19秒にペースアップ。その後も4分20~23秒を維持し、最後の1kmは4分17秒に上げた。国内で自己記録を出したレースでもできなかったことだ。
10km地点では入賞圏外(12位あたり)の集団にいたが、15kmでは入賞圏内(7位あたり)の集団に。最後の1kmは全体で4番目の速さにまでスピードを上げて、6位入賞を確定させた。
「後半、順位を上げるために頑張ったら、結果的に記録もついてきました。15kmくらいで1時間28分を切れるとわかって、気持ちも乗ってきましたね。(ガッツポーズをしたのは)ちょっとうれしかったからです。海外で自己新の歩きをしたことはなかったですし、それが日本新だったのですごく自信になりました。(9月開幕の)世界陸上では入賞したいと思います」
オリンピック&世界陸上での女子20km競歩の入賞は、過去に一度だけある。前日本記録保持者の渕瀬真寿美(当時大塚製薬)が、09年ベルリン世界陸上で7位に入った。渕瀬の記録を更新した岡田に、2度目の入賞を期待できる状況になった。
病的だった高校時代の反省
大学時代の岡田はかなり肩の力を抜いていた選手だった。追い込んだ練習を控え、体型もぽっちゃりしていた。
競技成績も2年生のとき以降は、インカレ種目の10000m競歩では自己記録を更新できなかったどころか、自己記録から2分以上も遅いシーズンベストが3年間続いた。
「歩く練習は本当に軽めのものしかしませんでした。距離は高校時代と一緒か、少し多かったかもしれませんが、スピードがとにかく遅かったです。スピード練習はやりませんでした。やれませんでしたね」
20km競歩では3年生まで毎シーズン自己記録を更新したが、日本代表レベルとは2分以上の開きがあった。
そうなったのは高校時代の反省と、種目の距離が伸びたことが大きな理由だった。
高校時代の岡田の体重は38kgと、現在より約10kgも少なかった。体重が増えたら歩けなくなる強迫観念があり、体重を1日5回は測定していた。中学3年生で始まった生理は、高校時代は1回も来なかったという。母親が作ってくれた弁当を捨ててしまうなど、「病的だった」と、自身で言う生活を送っていた。
アキレス腱やひざなど、「つねにどこかが痛い状態」も続いていた。
「練習ができない時期がかなり長かったのですが、春になると痛みが消えて、夏のインターハイまでは歩けてしまった。体が軽いから勝ててしまう」
インターハイ3000m競歩は2、3年時と2連覇し、2年生の世界ジュニア10000m競歩も8位に入賞した。結果を出せていたのである。
焦りを感じても変えなかった方針
だが、その体で20kmの距離は持たないと感じた岡田は、大学入学後に食事をしっかり食べ、体重も増やしていった。女子選手の多くは20歳前後で、体重が増えやすい時期を迎える。そこで高校時代のように無理をしたら、骨粗鬆(そしょう)症や精神的なバーンアウトなど、長期的にはマイナスが生じるリスクが高い。
歩く練習の強度は抑えたが、フィジカルトレーニングは週に3、4回はジムや治療院でしっかり取り組んだ。それに加えて自宅などで一人でやることもあった。
「4年間で体をつくって、卒業後に距離もスピードも負荷をかけられるようにして、一番脂ののった時期に結果を残せるようにしたい」
目先の成績にこだわるよりも、自身の将来にプラスになる選択をした。
ただ、大学1年生のときの世界ジュニアまでは高校と同じスタイル、トレーニングで臨んで銅メダルを獲得した(後に銀メダルの選手のドーピング違反が発覚して銀メダルに繰り上がった)。同じ学年の飯塚翔太(ミズノ、当時中央大)が男子200mで金メダル、400 m障害の安部孝駿(ヤマダ電機、当時中京大)は銀メダル、走り高跳びの戸邊直人(JAL、当時筑波大)は銅メダル、やり投のディーン元気(ミズノ、当時早稲田大)は銀メダルを取り、「プラチナ世代」と呼ばれた。長距離の大迫傑(ナイキ、当時早大)や鈴木亜由子(JP日本郵政グループ、当時名古屋大)らもいて、現在日本の陸上界で中核となる選手が多数いる学年だ。
岡田もそういった選手たちから刺激を受け、自分も負けられないと考えた。日の丸をもう1度つけて戦いたいと思った。だから大学で競技成績が落ち「岡田は終わった」と言われることが我慢できなくなることもあった。
焦る岡田を諭したのが、立教大の原田昭夫監督だったという。
「これで本当にいいのか悩んだ時期もあって、高校のときみたいに痩せた方がいいのでは、と考えたこともありました。雑音が耳に入ると落ち込んで、原田監督に電話やメールをしていました。監督は『君は世界で戦える選手だから、4年間をかけてしっかりした体をつくるべきだ』と、どんなときも言ってくれたんです」
岡田のよかったのは、“目先の成績にこだわらない”方針に甘えて流されなかったことだろう。インカレでは必ず優勝することを自身に課し、関東インカレと全日本インカレはともに4連覇した。同世代で勝ち続けておかないと、卒業後も競技を続ける道が閉ざされてしまう。大学やチームから求められたわけではないが、自身に課して頑張った。
もう一つ付け加えるなら、高校時代の競技スタイルはとらなかったが、大学3年生までは競歩が専門である高校の恩師に歩型のアドバイスを受けたことで、国際大会でほとんど警告を受けたことのない岡田の歩型の基礎ができた。
卒業後5シーズン目に現れ始めた成果
しかし大学卒業後、すぐに結果が出たわけではない。日本選手権20km競歩は入社1年目に初優勝し、自己記録も1時間32分22秒から1時間29分46秒に縮めた。その後も日本選手権は勝ち続けているが、オリンピック&世界陸上で入賞するレベルには到達しなかった。気持ちの面では早い段階で代表にふさわしい心構えができたが、世界レベルのスピードは簡単には身につかず、試行錯誤を繰り返した。
昨年の日本選手権前には体調不良もあり、結果も岡田の気持ちもかなり落ち込んだが、そこで新たな取り組みに踏み切ったことが功を奏した。
「世界のトップ選手たちを見ても、腰の位置を高く保ちながら骨盤を前傾させる動きができれば、スピードを出せる」と、日常生活の姿勢から意識を変え、ウエイトトレーニングというよりも、骨盤を前傾しやすくする体幹トレーニングに近い練習を取り入れた。
その効果が現れたのが今年2月の日本選手権だった。20km競歩の自己記録を1分以上も縮める1時間28分26秒の日本歴代2位をマークしたのだ。卒業後5シーズンを経て、世界を狙えるレベルに到達し、ラコルーニャでの日本記録につなげられた。
今後1時間26分台の力をつければ、前半から先頭集団で歩くこともできる。1年後の東京オリンピックに「ワクワクして向かっていける」と話せるようになった。
卒業後の5年間は山あり谷ありで、岡田にとって決して短い時間ではなかったが、現在のトレーニングができるのは間違いなく、大学4年間の取り組みがあったからだ。「世界へ羽ばたく準備ができた学生時代」と胸を張って言えるいま、岡田が充実期に入った。