陸上・駅伝

連載:いけ!! 理系アスリート

自由な高校で培った文武両道の歩み 名古屋大医学部・中川晴子(上)

2月の日本選手権(20km競歩)で中川は13位だった

連載「いけ!! 理系アスリート」の第13弾は、名古屋大学医学部医学科4年生で、陸上部の中川晴子です。中川は陸上部と医学部陸上部の両方に所属しながら、競歩に取り組んでいます。2回の連載の前編は、高校での競歩との出会い、そして文武両道についてです。

400mHで先輩と競い、全国で戦う意味を知った 名大医学部・真野悠太郎(上)

全校集会の場で競歩を志す

競歩の選手の中には、もともとは長距離を走っていたという人が多い。中川もその一人ではあるが、ちょっと事情が違う。

中学から陸上を始めたかったが、進学先に部がなかった。進学校である愛知県立旭丘高校で初めて、中川は陸上に触れた。どの種目が自分に向いてるんだろう? そんなことを考えていた高校最初の全校集会で、4月の全日本競歩輪島大会に出場する先輩の壮行会が開かれた。全校生徒に応援される先輩の姿を見て、「せっかく陸上をやるんだったら、私も全国大会にいきたいな」と、競歩を希望した。しかし陸上競技自体の初心者だった中川に、陸上部の顧問は「土台がないと競歩もできないから、まずは走りなさい」と伝え、まずは長距離の練習に取り組んだ。そして1年生の6月、やっと本格的に競歩の道を歩み始めた。

陸上部の先生は競歩の練習メニューを組んでくれてはいたが、フォームなどの技術面を指導してくれる人は高校にはいなかった。そのため中川は、愛知県陸上競技協会が月一で実施していた競歩教室に出向いて学び、そこで得た技術をもとに、高校の先輩と練習を重ねては、レースに臨んでいた。

自然と真剣になった高校時代

中川の文武両道の精神は、旭丘高時代の教えがベースになっている。公立の進学校ではあったが、私服OK、宿題や課題はほぼゼロ、補習なし、そもそも授業数が少ない、そして日本一長い学校祭を生徒主体で実施するなど、自由な校風だった。中川は当時を振り返り「この自由さが私にとても合ってました」と話す。

いろんなことに対して自分で考えて、のびのびとやれた。勉強も部活も、どちらも自然と真剣に取り組んできた。「部活は毎日あって、勉強時間はもちろん足りないので、自分で考えて自由に調整して、両立しようと工夫してました」と中川。部活帰りのバスの中で、その日の復習をやり、どんなに疲れていても、寝る前に数分だけでも英単語を覚える。陸上の試合の待ち時間にも、数学の問題集と格闘した。「いま考えると、割と無茶なこともしてましたけど、時間の使い方はうまくなったと思います。むしろ時間がない分、どちらにも集中して取り組めました」。この生活で培った集中力は、いまも学業にも陸上にも生かされている。

駆け引きで順位をひっくり返せる

高校時代に一番記憶に残っている試合は、2年生の6月に出場した東海総体の5000m競歩。中川はそこで自己記録を更新して3位に入り、インターハイ出場を決めた。

優勝候補の選手が独歩。それ以外の有力選手が集団になり、腕がぶつかり合うほどの団子状態でレースが進んだ。「ラスト勝負になると競り負けてしまう」。スピードに自信がなかった中川に焦りが募った。残り2000m。一か八かで飛び出した。するとペースアップについてきたのは一人だけだった。集団を引き離して3位に入り、インターハイへの切符を手にした。

競歩はスピードが遅い分、長丁場の戦いになり、ほかの競技と比べて頭を使う余地がある。「実力では当落線上でしたけど、たまたま戦略がうまくはまって勝てました。駆け引きで順位をひっくり返せるのが、競歩の面白いところです」と、中川は笑う。いまでもこのレースは、中川の陸上人生で最も印象深い試合の一つとなっている。その年の10月には東海新人の5000m競歩で2位となり、24分19秒13とさらに自己ベストを更新した。

競歩は競技時間が長いため、その日のコンディションにあわせた戦略が欠かせない(中央が中川)

3年生に上がる前に、文系か理系かの選択が求められ、中川は理系を選んだ。いまでこそ医学部で学んでいる中川だが、もともと医者を目指していたわけではなかったそうだ。高校時代に出会った生物の先生がきっかけで生物学に興味を持ち、その先生の勧めで大学の教科書や専門書も手にとった。どんどん知識欲がわいていた。「でもどういう研究をしたいかなって思ったときに、結局は人の命を助けることに直接つながる研究ができたらいいなと思って。それだったら医学部かなって思って選びました」と中川。部活を引退したあとは学業に専念し、2016年春、現役で名古屋大医学部に進んだ。

リオ五輪に刺激を受け、競歩を再開

大学進学後、中川が選んだのは医学部陸上部だった。練習は週1日で、どちらかというと楽しむことを目的としたサークル感覚の部活だった。全学部を対象にした陸上部もあったが、練習拠点は医学部がある鶴舞キャンパスとは別の東山キャンパスであり、練習は週3日(入学当時、現在は週4日)だった。新入生歓迎会には行ったが、授業や実習を終えた足でキャンパスを越えて毎日練習に向かえるだろうかと悩み、医学部陸上部を選んだ。

医学部の大会には競歩がなかったため、練習はもっぱらランニングだった。そんなとき、リオデジャネイロオリンピックで競歩の日本勢が活躍する姿を見て、「もう一回、競歩をやりたい!! 」という思いがわいてきた。また同じ医学部陸上部には真野悠太郎(5年、滝)がおり、彼は全学部の陸上部にも所属していた。真野は高校時代にインターハイで男子400mハードル3位という実力者。大学でもインカレに出場するなど、文武両道を貫いていた。
そんな真野が刺激になり、医学部陸上部に在籍したまま、中川も1年生の秋から全学部の陸上部にも入った。同期に競歩選手が3人もいたのが心強かった。

地道にコツコツ、医学の勉強と競歩は似てる 名古屋大・中川晴子(下)

いけ!! 理系アスリート

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