自分だけの道を駆ける院生 名古屋大・國司寛人(上)
連載「いけ!! 理系アスリート」の第9弾は、名古屋大学大学院工学研究科の博士課程1年、國司(くにし)寛人(25、静岡・富士高校)にスポットライトを当てます。3月3日の東京マラソンは2時間15分59秒の自己ベストで日本人学生2位。わずか中6日で臨んだ日本学生ハーフマラソン選手権でも自己記録を更新しました。そのタフさの源はどこにあるのでしょうか? 理系の大学院生ランナーとして奮闘する男を2回にわたって紹介します。
ときどき、笑いながら走る
國司は名大の博士課程に通い、化学システム工学を学ぶ大学院生だ。彼に自分のやっていることをものすごく簡単に表現してもらうと「環境に優しい新しい物質や素材をつくるための開発や研究」とのこと。いまは「分離膜」をテーマに研究している。海外も含めて年4回ほどの学会に参加し、発表もする。その一方で駅伝やハーフマラソン、フルマラソンを走るため、日本中の大会に参加している。
國司のレースを見ていて気づいたのが、楽しそうに走っていること。「苦しいと口が上がってしまうから、笑顔に見えるんだと思います」と話しながら笑ったが、やはりその表情は走っているときと同じだった。やっぱり笑って走ってる? 「実はときどき(笑い)。東京マラソンのときは、目標の2時間15分台でいけるなと思って、笑顔になりました」
この連載のための取材をしたのは、日本学生ハーフマラソン選手権のゴール2時間後。東京マラソンから立て続けのレース参加で疲れているはずなのに、その素振りも見せない。この1週間前の東京マラソンでは、2時間15分59秒の自己新記録で19位、日本人学生では、日本人トップになった堀尾謙介(中央大4年、須磨学園)に次いでのフィニッシュだった。本人にとってはタイムより、順位よりうれしかったことがあるという。「大迫(傑)さんと同じエリート選手枠で走れたことが本当にうれしくて。大迫さんは日本のトップ選手ですし、目標に対するプロセスがはっきりしてる考え方にも共感して、あこがれてます」。論理的かつ無邪気に話す國司と一緒にいると、本当に走ることが好きなのが伝わってくる。
幼稚園で1位になったのが喜びの原点
走る喜びの原点は、よく覚えている。父の転勤で、3歳のときに神奈川県から静岡県富士市にやってきた國司。幼稚園の年長のとき「マラソン大会」に出て、先頭でゴールに駆け込んだ。練習では負けて悔しかったから、1位になれたことがよりうれしくて、走ることが好きになった。地元の陸上クラブの入会資格を満たす小学2年生になると、迷わず入った。
近所の野球場の周りを走ったあとに坂道を往復する2kmのコースが、陸上クラブの練習場所。毎週のようにタイムトライアルがあった。「1位になると札がもらえるんですよね。それがうれしくて頑張って練習して、いつも1位を取れるようになりました」。そのころから努力ができるという才能を持っていたのだろう。ちなみにいまでも実家に帰ると、この坂道でダッシュしている。
富士市立富士南中学校に進み、陸上部に入った。全国の舞台を初めて経験したのは、3年生のとき。1500mで予選落ちだったが、全国大会にまでのプロセスに、國司らしさがある。もともとは持ちタイムが参加標準記録に17秒足りなかった。それならばと、部活が休みの日に大学生が練習する競技場に行き、一緒に走らせてもらうことにした。記録が20秒縮まって、全国への切符をつかんだ。
いま何をやれば目標を達成できるかを考えて、とことん実現に向けて突き進む。いまでもそのスタイルは変わらない。
はたから見ると負けず嫌いに映るが、自己分析は「自分より優れた人に追いつきたいという気持ちの方が強いんです」というもの。勉強も同じ。陸上部の同級生に生徒会長がいて、彼に学業で負けるのが悔しくて頑張った。1学年300人ほどいた中で、常に学年トップ10の成績で、1番になることもあった。
ただ、陸上では1番にはなれなかった。富士市内に速い選手がいたし、静岡県内となると1500mと3000mで全国トップになり、日体大で箱根駅伝優勝メンバーになった勝亦祐太がいた。全国にも自分より速い選手がたくさんいた。「陸上だけで勝負しても彼らにはかなわない。それなら自分は自分だけの道を探そうと思ったんです」。このとき、名大への進学を考える。名大が全日本大学駅伝に出たのを見て、「国立大学でも学業と陸上を両立しながら、全国の駅伝で活躍できるんだ」と思ったからだ。
高校2年で静岡県3位
高校は地元の進学校である静岡県立富士高に進んだ。もちろん陸上部に入った。「いちばんいい成績だったのは高2の県大会です。1500と5000のどちらも3位になりました。自分が経験したことのないスピードで走れて、強豪校の選手とも渡り合えたんです」。高校時代の最良の記憶を、これまたいい笑顔で語った。
3年生のときは、けがで1カ月走れないこともあった。最後は東海大会に出て予選落ち。「自分の実力ってこんなもんだっけ……」。高校での陸上生活は、あっけなく終わった。勉強では2年生の進路選択で、迷わず理系を選んだ。父の影響が強かった。化学メーカーの開発職についていて、何度か工場見学にも行って興味を持った。「子どものころから、将来は研究開発をやるんだって思ってたんですよね。物理が好きだったこともあります」
晴れて名大工学部に現役合格。箱根駅伝へのあこがれは多少なりともあったが、どちらかといえば、純粋に“走る”という行為へのあこがれの方が強かった。自分なりのベストな走りができれば、それは箱根でなくてもいい。だから、陸上という一つの目標だけでなく陸上と学業の二つに真剣に取り組むための道を選んだ。
國司の文武両道が、ここから本格的に始まった。