大学陸上・駅伝

連載:いけ!! 理系アスリート

400mHで先輩と競い、全国で戦う意味を知った 名大医学部・真野悠太郎(上)

真野は中学時代、他の種目ができなかったという理由でハードルを選んだ(撮影・松永早弥香)

連載「いけ!! 理系アスリート」の第18弾は、名古屋大学医学部医学科5年生で、陸上の400mハードル(H)に打ち込む真野悠太郎(滝)です。医学部生として多忙な毎日を過ごす中、2020年の東京オリンピックを目指しています。2回の連載の前編では、インターハイの表彰台と名大医学部合格をともにつかんだ高校3年間についてです。

移動時間は勉強の時間、メリハリつけて両立 青学大理工学部・佐野龍之介(下)

日本選手権決勝にふたりの名大理系ハードラー

今年6月の日本選手権、男子400mH決勝にはふたりの名大理系アスリートが出場した。もっとも内側の2レーンに真野、その隣の3レーンには大学院工学研究科修士課程2年の小田将矢(滝)。ふたりは滝中学校で出会ってから11年、中学校、高校、大学と、ともに切磋琢磨(せっさたくま)しながら競技に向かい、ともに来年の東京オリンピックを目標にしている。この日本選手権では小田が49秒60の自己ベストで5位、真野は50秒07で自己ベスト(49秒50)更新はならなかったが、自己最高の6位をつかんだ。

そしていまは9月27日開幕のドーハ世界選手権を見すえている。「まだ参加標準記録(49秒30)を切れてないんですけど、もちろんあきらめてません」と、小田も真野も言い切る。研究や実習で多忙な毎日の中、高いレベルで競技を続けるふたりにとって、お互いの存在が常に刺激になっている。

今年の日本選手権で真野(右端)は小田(中央)とともに400mH決勝に臨んだ(撮影・松永早弥香)

さらに来年、真野には夢の東京オリンピックに加え、卒業後の研修先を決めるための病院見学や医師国家試験を控える大事な年になる。「まずは『できる』と信じてやる。それぞれの大事な時期ってあると思うんで、その時期を見定めて動きます」。それは文武両道を貫いてきた真野が、いつもが心に決めていたことだ。

結果が出なかった中学時代、逃げるようにハードルへ

真野は小学校低学年のとき、足の速さを買われて陸上クラブに入ったが、学年が上がるにつれて目立たなくなってきたのだという。中学校では当初、ロボットを作る部に入っていた。機械をいじったり、パソコンで組み立てたりすることが楽しく、のちに高校で進路を考える際、ロボットへの興味から工学部に進むことも考えたほどだった。ただ、陸上部に入っていた兄から「そのままだとデブになるぞ」と言われたことをきっかけに、体を動かす目的で陸上部に移った。

入部してからは短距離や跳躍、投てきといろんな種目にチャレンジしたが、どれもいい結果がついてこなかった。走り幅跳びで1度大会に出たこともあったが、同級生に「やる気あんのか?」と言われてしまうような散々な結果だった。これはまずいなと思った真野は、当時、逃げるようにハードルを選んだという。そこから真野と小田との練習の日々が始まった。当時の真野は身長147cmだったこともあり、小田は真野に対して「ちっちゃくてかわいい子が入ってきたな」という印象を抱いていたという。中3から身長が伸び始めた真野はそれと同時にやっと陸上が楽しくなり、110mHで愛知県大会出場を果たした。

高校最後に集大成のレース

滝高校では迷わず陸上部に入った。中3から高1にかけて身長が15cmも伸びると、ハードルの動きもよりスムーズになり、毎年記録を伸ばした。高校最後の試合となったインターハイでは400mHで全国3位をつかみ、真野自身も「高校時代の集大成のレースだった」と振り返る。飛躍のきっかけになったのが、高2の東海高校総体だった。

当時、小田は3年生で記録も真野より速かった。真野はタイムで拾われて400mH決勝に進み、インレーンを走った。前半は遅れてしまったが、全員の背中を追いかけて粘り、4位でインターハイ出場をつかんだ。一方で小田は7位にとどまり、このレースが高校最後となった。

レース後、顧問からひとりずつテントに呼ばれ、深い話をされたという。その話の中で真野は「先輩に勝ったということは素晴らしいことだし、だからこそ先輩の分まで全国で頑張ってこい」という言葉を受け取った。「自分の分だけ頑張ればいいのではない」ということに気付かされ、全国で戦う意味を考えられたという。その自身初の全国舞台で予選、準決勝ともに自己ベストをマークし、全国でも戦えることを確認できた。

中学校、高校では小田(右)の記録を1年後、真野(左)が破るということを繰り返し、大学では抜いた抜かれたを繰り返している(撮影・藤井みさ)

迎えた3年生のインターハイは決勝進出を目標にして挑み、予選は51秒68という全体でも2番目の記録を出し、準決勝では51秒64でトップの記録を刻んだ。しかし決勝では51秒75にとどまって3位。それでも全国の舞台で表彰台に立てたことが、大きな財産になった。

また高3のときには主将も経験している。生徒が中心になって運営する部だったため、メニューも選手たちが考えていた。その中で真野は主将として、まず自分がいい成績を残して背中を見せることを意識し、下級生をグループ分けして上級生がサポートするなど、チームとして高めあえる環境作りにも心を砕いた。

勉強は最低ラインを守り、積み重ねていくことが大事

インターハイを目指す過程で、真野には悩みもあった。高2のときに名大医学部の受験を明確に心に決めはしたが、受験勉強の出遅れに焦りを感じていた。

父が循環器内科の医師だったこともあり、小学生のころからぼんやりと「お医者さんになりたい」という考えがあったという。子ども心に父の働く姿をかっこいいなと思い、友だちに「お前の父ちゃん医者かよ! すげえな」と言われるたび「医者ってすごいんだ! 」という思いを募らせていた。真野が中学生のとき、父は独立して開業医になったが、「継ぐかどうかは任せるから」と言われていた。自分が将来、何をやりたいのかを考えて悩んだ結果、人体の奥深さに魅せられて医学を突き詰めてみたいという結論になり、自分の意思で医学部を目指すと決めた。

なぜ名大たったかというと、小4~6のときにお世話になった先生から「名大医学部にいったら飛騨牛を食べさせてあげる」と言われたことがあり、なんとなく「医学部なら名大」というのが頭にインプットされていたという。名大医学部に進むためにはどうしたらいいか。その考えが中学生のときからうっすらとあり、自分が思い描いた最低ラインから遅れをとらないぐらいの頑張りを続けてきた。高3になり、周りも受験モードに入っていたが、「遅れるとしても1~2カ月程度。それまでは遅れすぎない程度にがんばって、インターハイが終われば切り替えればいい」と腹をくくった。それまで積み重ねてきた前提があったからこそ選べた文武両道だった。

医者になることを漠然と思い描いて勉強をしてきたことが、大学受験で生きた(撮影・藤井みさ)

やるべきことをやる。表面だけでつじつまを合わせるのではなく、焦らずに一つひとつ取り組み、基礎的なところから分かった気にしないで全部おさえる。それを繰り返すことで、秋ぐらいにやっと『追いつけた』という感覚が持てたという。そして翌春には名大医学部合格を手にした。もちろん、真野に「名大医学部」を植え付けてくれた小学校のときの先生にも報告に行った。ただ、先生が連れていってくれようとしていたステーキ店が閉店したため、お祝いは高級中華に変更になったという。

そして名大で医学の道を歩み始め、競技としてもさらに高いレベルを求めていった。

陸上も勉強も、大事な時期に集中あるのみ 名大医学部・真野悠太郎(下)

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