アメフト部で成績トップのパント職人 立命館大理工学部・長尾健登(上)
連載「いけ!! 理系アスリート」の第19弾は、立命館大学理工学部機械工学科4回生でアメリカンフットボール部の長尾健登(立命館宇治)です。4年ぶりの甲子園ボウル出場と学生日本一を目指して、パンターというポジションでリーグ戦を戦っています。2回の連載の前編は、高校までの5年間を過ごしたアメリカでの生活を中心にお届けします。
小5から5年間のアメリカ生活、TOEICは925点
アメフトは分業制のスポーツであり、大きく分けてオフェンス(攻撃)チーム、ディフェンス(守備)チーム、そしてスペシャルチームという3部門がある。長尾はスペシャルチームの中で「パンター」のスペシャリストだ。オフェンスが攻撃権を放棄するとき、相手の攻撃開始地点が少しでも遠くなるように、パントキックを蹴り込む。ロースコアの争いになると、とくに大事になってくるポジションだ。甲子園ボウルで8度の優勝を誇る名門で、昨年からスターターの座を勝ちとった。チームでも数少ない理系アスリートで、学業成績はチームトップ。立命パンサーズの文武両道は、長尾を抜きには語れない。
神奈川県生まれ。大手電子機器メーカーに勤める父の影響で、幼いころは引っ越しを繰り返した。「スポーツをさせたい」という両親の願いで、バスケットボールや空手などのスポーツを体験した。その中で一番楽しかったというサッカーを選び、グラウンドを駆け回った。小4まで神奈川で過ごし、アメリカのニュージャージー州へ。「行くまではワクワクしてました。でも、小学生だったので友だちと別れるのが嫌でした」と当時を振り返る。
アメリカでは、日本人学校ではなく現地の学校に通った。周りから聞こえるのは当然、英語だけ。すぐに学校に行くのが嫌になった。カルチャーショックも受けた。時間割は一人ひとり違い、同じ科目でも4段階にクラス分けされていた。長尾のもらった時間割は、1週間毎日、同じ授業1コマあった。明らかににおかしいのに、何も言ってくれない。「すべてが適当で、こっちから言わないと誰も助けてくれなかった」と苦笑いする。
唯一、好きだったのは算数の時間だ。日本ですでに習った内容だったので、英語でも困らなかった。中学に上がると中級レベルのクラスに。英語が徐々に分かるようになると、クラスも四つのうち一番上のクラスになった。5年間のアメリカ生活で英語力が高まった。いまは英検が準1級、TOEICのスコアは925点(990点満点)だ。
アメリカの学生スポーツはシーズン制。秋に新学年が始まると、1年を秋、冬、春に分け、それぞれ別の競技に取り組む。だが、長尾はサッカーだけだった。遊びに近いチームで、週1回しか練習がなかった。「よく分からないまま入ってしまったんです。日本みたいにバリバリやる感じじゃなくて、ほとんど近所で友だちと遊んでただけです」。冬にはアメフトをやってみたかったが、両親に反対されてサッカーを続けていた。
帰国して立命館宇治高でアメフト部に
父の転勤で再び日本に戻ったのは、高校入学のタイミングだった。京都に住み、立命館宇治高校に入った。帰国子女の受け入れに積極的な同志社国際や千里国際も候補だったが、長尾には「アメリカであまりやれなかった部活をバリバリやりたい」と、スポーツも強い立命館宇治を選んだ。まずはサッカーをやろうとしたが、京都でもトップを争う強さで「通用するレベルじゃない」とあきらめた。そこで、日本だと高校からでも始めやすいアメフトをやることにした。
スポーツと勉強。どちらかというと勉強の方が得意だ。それも国語や歴史といった文系科目よりも、数学や物理を好んだ。両親には「勉強しろ」と言われたことがない。それでも数学と物理の成績はいつも最高の「5」だった。アメフトはWR(ワイドレシーバー)とキッカーを兼任。試合には出ていたが、ほとんど活躍できなかった。「たぶん、スポーツができるタイプじゃないんです(笑)。キッカーとしてもパッとした感じじゃなかった。レシーバーとしてもパスを捕った記憶がほとんどない。でも、楽しいからアメフトを続けました」。高3秋の関西大会は初戦敗退。高校のスポーツでは目立った実績を残せなかった。