関大RB笠田護 能楽師の一家に生まれ、自由に生きた男の恩返し
関西学生リーグ1部 第3節
9月22日@大阪・エキスポフラッシュフィールド
関西大(2勝1敗)19-7 同志社大(3敗)
アメフト関西学生リーグ1部の第3節で、関西大が同志社大を下した。第4クオーター(Q)を10-7で迎える大接戦。試合残り6分を切って大きなタッチダウン(TD)を決めた関大RB(ランニングバック)笠田護(まもる、3年、滝川)に注目してみた。
おいしい状況で決めたタッチダウン
第4Q4分すぎ、関大が13-7とリードした場面。関大のDB(ディフェンスバック)坊農(ぼうのう)賢吾(3年、関大第一)が相手のパスをインターセプトし、51ydもリターンした。敵陣15ydと絶好のフィールドポジションから関大のオフェンスが始まる。エースRB吉田圭汰(4年、桜宮)が3度続けてボールを持ち、ゴール前3ydから第1ダウン。ここでRB笠田がQB(クオーターバック)の位置に入るワイルドキャット隊形から中央を突いた。ゴールまで残り数インチに迫り、再び同じ形からの中央突破でTD。両手を広げて優雅に舞った。「ブロックができてたので、間を走るだけでした」。でっかい仕事をした3回生は。笑顔で振り返った。
もう負けられなかった。前節で昨シーズン5位の神戸大に負けた。甲子園ボウル出場の可能性がある3位以上を狙うには、もう1戦も落とすわけにはいかない。神大に負けたとき、笠田の両目から自然と涙が出てきた。「日本一を目指してるチームがここで負けるか?」。悔しさを通り越し、怒りのような感情を覚えた。紛れもなく敗因は、TDを取りきれないオフェンスにあったからだ。そのような状況で、同志社との対戦。関学と立命に対し、同志社のディフェンス陣は奮闘していた。その相手に競り勝ち、笠田は「徹底してビデオで研究した結果です」と誇らしげに言った。
曽祖父から続く観世流能楽師の一家に生まれた。8歳上の兄と5歳上の姉を持つ3人きょうだいの末っ子だ。父の昭雄さんは、国の重要無形文化財総合指定に認定されている。笠田も2歳で初舞台に立った。能楽堂で大人に囲まれ、歌や踊りの稽古(けいこ)をした。父の昭雄さんが付きっきりの稽古は、とくに厳しかった。中学生になるときに「やめたい」と告げると、父から平手打ちを受けた。高校、大学でヨットに打ち込み、全国大会で優勝するほどの実力者だった兄の祐樹さんが競技をやめ、能に専念。弟は能の道を離れた。
高校で「ヲタ芸」に明け暮れ、2浪で関大へ
滝川高(兵庫)に進んでアメフト部に入った。だが、いきなり寄り道をしてしまう。当時、日本テレビの24時間テレビの企画にあった「高校生ダンス甲子園」に応募。光る棒状の「サイリウム」を振りながら踊る「ヲタ芸」で上位6チームに入り、日本武道館で踊った。メインパーソナリティーだった嵐の面々とも共演したが、「いま思えば黒歴史です」と笠田。アメフトの練習をせず「ヲタ芸」に明け暮れていた。
寄り道はそれだけで終わらない。早稲田のアメフト部「ビッグベアーズ」にあこがれて受験したが、2浪してしまう。当時、龍谷大や関大からスポーツ推薦の話もあったが、断っていた。さすがに2浪目は「まずい」と思って関大も受け、合格。「長くて、長くて。アメフトやってる期間よりも長かった気がする(笑)。親に(不合格を)報告するたび、震えが止まらなかったです」。やりたい放題と苦悩の日々を経て、いまに至る。
この日もスタンドには両親の姿があった。能をやめるときに殴った父も、いまではアメフトをする笠田を応援してくれ、ほぼ毎試合観戦に来てくれる。「一人暮らしもさせてもらってます。両親には支えてもらってばっかりです」と、感謝の言葉を口にする。
両親に恩返しができたといえるその日まで、笠田は愚直に突き進む。