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競歩・山西利和の京大時代は「何かを追い続けた4年間」 結論は金メダルを取ってから

3月の能美で優勝した瞬間の山西(撮影・松永早弥香)

日本の男子20km競歩も世界でメダルを取る力がある。それを示したのが6月8日にスペイン・ラコルーニャで開かれた国際陸連グランプリ競歩だった。山西利和(23、愛知製鋼)が1時間17分41秒の海外日本人最高記録で優勝し、3位には世界記録保持者の鈴木雄介(31、富士通)が入った。

山西は京都・堀川高3年生(2013年)で出場した世界ユース選手権(現U18世界選手権)10000m競歩で金メダルを獲得したエリート選手。関東の強豪大学に推薦入学することもできたが、選んだのは“地元の京大”だった。

陸上競技には京大や名古屋大など、旧帝大出身者にもトップ選手がいる。彼らを取材して気づくのは、質問に対し時間をかけてでも極力正確に答えようとすること(サンプル数が少ないので、もちろん全員がそうとは言い切れませんが)だ。

山西に学生時代がどんな4年間だったかを問うと、考えに考え抜いた末に「何かを追い続けた4年間」と答えてくれた。山西の学生時代を理解するヒントを探った。

京大の4年間について色紙に書いてくれた(撮影・寺田辰朗)

最後を切り換えるために

3月の全日本競歩能美大会では、山西はラスト2kmでペースアップして、自己記録の1時間17分15秒で優勝。川野将虎と池田向希の東洋大コンビを振り切り、9月開幕の世界陸上代表を決めた。ラコルーニャでは、ラスト3kmのペースアップで鈴木を振り切った。

能美とスパートする地点を変えたことについて尋ねると、「ずっと同じ2kmだと、先々立ちゆかなくなるからです」と返した。常に先のことを考えている山西らしかった。京大を選んだのも「競技はいつかはやめるときが来ます。将来のことも考えて」というのが理由の一つだった。

京大時代の話は後ほど触れるが、山西が競技者として一段階上がることができたのは、レース終盤で切り換える能力を身につけたからだ。京大4回生の日本選手権(18年2月)で1時間17分41秒の学生新記録で歩いたが、高橋英輝(富士通)に敗れて2位だった。愛知製鋼に入社し、実業団選手として臨んだ昨年8月のアジア大会も、中国選手に敗れて2位。今年2月の日本選手権も高橋と池田に敗れて3位と、ラスト勝負に負け続けた。

その課題を3月の能美で克服できたのは、どういうトレーニングをした結果だったのか。

「日本選手権の高橋さんのラスト1kmが3分38秒だったので、能美で勝つためにはラスト2kmを3分40秒で2回押し切る必要があると考えました。まずはそのイメージをしっかり持ち、そのためにはどういう動き(フォーム)、どういう練習が必要かを考えて実行しました」

動きの面では「地面を蹴る動き」から「地面からの反力をもらう動き」に近づけるようにした。山西はかなり詳しく説明してくれたが、今回はこの表現にとどめたい。

それよりも「地面を蹴る動きのことを、アジア大会当時はうまく言語化できなくて、空回りという言葉を使ってました」という部分を紹介しておきたい。感覚的にやっている動きを言葉にして現す。トップ選手にとっても、自身の動きの変化を整理する上で重要なことだと言われている。

おそらく山西には、まだ言語化できていない動きがある。それができたときには競技成績がさらに上がるはずだ。

2018年1月の取材で京大正門を出て右へ歩く山西(撮影・寺田辰朗)

“地元の京都大学”を選んだ理由

山西は14年に京大工学部物理工学科に現役合格した。

「自宅から通えて、研究もしっかりできて、陸上もそこそこ強い大学だから」というのが、当時の取材で山西が話していた理由である。京大出身の競歩選手では、杉本明洋が05、07年の世界選手権代表になっている。山西が入学したときにも、800mと長距離で学生トップレベルの選手が在籍していた。

「競技をやめる選択肢もあった」という山西だが、大学でも競歩と真剣に向き合うと決めた。

「ぼんやりと続けるのが一番よくないと思いました。1、2回生のころはまだ差が大きかったですけど、狙い続けてたのは日本代表です」

高校時代の恩師の船越康平先生に、週に1、2回は練習を見てもらえることも地元大学のメリットだった。ちなみに船越先生自身は長距離出身だが、競歩の審判資格もとり、鈴木雄介やリオ五輪50km競歩銅メダルの荒井広宙(富士通)らの若い時代を指導した内田隆幸氏ともつながりがあった。

船越先生に見てもらう練習は「緊張感があった」と言うが、チームに専属の指導者がいて、関東の大学のように寮に入って競技一色、という学生生活ではなかった。推薦入学で選手が集まってくる大学以外では、通常の学生生活の中で競技にも取り組むスタイルになる。その環境でも代表を目指す山西と、地区インカレに出られるかどうか、というレベルの選手たちに温度差はなかったのか。

「(強豪校とは違って)本当にいろいろなバックグラウンドを持った選手が集まってたんですけど、そう感じることは少なかったと思います。でも、中にはいくら話し合っても考え方が相いれない人もいたので、まったくなかったと言うとウソになります」

チームの雰囲気、一体感が競技力を高める。これが学生スポーツのよさでもある。チーム全員が同じ方向を向いてくれたなら、山西の競技にプラスに働いた可能性はあったのではないか。

「そこはどうなんでしょうね」。明確には答えなかったが「僕は気にしないというか、議論が行き詰まるとそういうものだと割り切ってしまうんです。よくも悪くも僕のキャラだと思います」

オリンピック&世界陸上の代表に届かなかった学生時代の競技成績には「京大だからという理由でメディアにも取り上げられましたが、注目度に見合う活躍はできませんでした」と、不甲斐なさを感じていた。だが4回生(17年8月)の台北ユニバーシアード20km競歩は金メダル。日本インカレ10000m競歩は1回生から8位、2位、優勝、優勝と、山西の4年間は合格点と言っていい成績を残していた。

18年1月の取材では「関東の強豪大学ではなく、京大の環境を選択してベストだった、と言える4年間にしないとダメなんです」と話し、学生最後の日本選手権20km競歩(18年2月)に臨んだ。

高橋には敗れたが、目標に掲げていた学生記録の更新には成功し、アジア大会代表入りも決めた。京大での4years.をコンプリートし、山西自身は「プロ」と認識する実業団(愛知製鋼)に進んでいった。

指導者との関係に見られる山西の成長

ところが今回の取材で、京大を選択したことがベストだったと感じられたかを確認すると、「結論はまだ出せないですね」と返ってきた。だから「何か」を追い続けた4年間なのだ。

愛知製鋼に入社した山西は、学生時代からアドバイスを受けていた内田氏に、正式にコーチについてもらった。山西が動きの細部を突き詰めて考え、内田氏がこのメニュー、このタイム設定がいいとアドバイスをする。拠点の名古屋で一緒に練習するのは月に2、3日程度だが、陸連合宿も含め、合宿には帯同して歩型も細かくチェックしてもらっている。

高校時代に船越先生に競歩の才能を見出され、世界ユース金メダルのレベルまで成長した。学生時代も引き続き船越先生のアドバイスを受けたが、二人は生徒と教師から、ともに高みを目指す仲間に近い関係に変わったはずだ。山西自身も「ただの生徒としての扱われ方ではなかった」と感じていた。そして実業団では内田コーチを選んだ。

年齢や経験とともに山西に判断力がつき、自身のやりたいことを主体的に考えられるようになった結果と思われたが、山西はまた少し考えた後に、以下のように説明した。

「実はいまでも船越先生には動画を送ったりして、アドバイスをいただいてます。内田コーチと船越先生は、歩型の見方、歩型への考え方で大きな食い違いはありませんし。僕が主体的になったと言うと、僕の考える比率や決定権が大きくなったようにとられてしまいます。そうではなくて、僕の考えている領域が広がったのだと思います。僕の競技への取り組み方がやっと広くなり、総合的な観点から判断ができるようになったんです」

2月の日本選手権で競り合う山西(撮影・松永早弥香)

指導者の発する言葉に対する理解度が上がり、自分の中での消化の仕方も精度が向上した。それができるようになったから、今年の日本選手権後に内田コーチと相談して、最後でスピードを切り換えられるような練習に取り組めた。

動きの感覚の言語化というところも、こうした山西の成長があったからできるようになったと見ていいだろう。大学4回生のときの取材で、3回生のころのスランプについて「脚が前につっかえて、つんのめってしまう動きでした。感覚的なものでしかないのですが」と話してくれたことがあったが、いまの山西ならもう少しわかりやすい言葉で説明できそうだ。

しかし、もしかしたら、そこはまだ説明できない可能性もある。思考スケールが広がったと言いながら、「それでもまだ足りない。見えてない範囲がある」と、山西自身も感じているからだ。

それでもラコルーニャで優勝できるところまでレベルを上げてきた。考えている領域が最大まで広がったとき、山西が目標としている「シニアでも金メダル」を達成できるのではないか。

そしてそのとき、京大での「何かを追い続けた4年間」も、そこで得られたものが金メダルにどうつながったのかも、山西は明確に言葉にしてくれると思う。

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