法政大3年・上田綺世の未完の野心 大学サッカーに育まれ、前倒しでJ鹿島へ
「旬なときにに行っちゃえば? 」。恩師からのアドバイスはそんな軽い言葉だったのだと、上田綺世(あやせ、法政大3年、鹿島学園)は苦笑いで言った。
法政大学体育会サッカー部は7月26日に記者会見を開き、上田の鹿島アントラーズ入団を報告した。今年2月に2021年の入団内定会見を開いてから5カ月。成長への渇望を止められない男は、大学には席を置いたままサッカー部を退部して、28日から鹿島の練習に合流。まだ20歳の日本代表FWは26日の会見で自身の心の声を率直に、そして真摯(しんし)に語った。
コパ・アメリカの前にプロ入りを決心
6月には日本代表の一員として、コパ・アメリカの初戦で先発出場を果たした。エクアドル相手にうまくボールを引き出し、チャンスをつくった。ただしゴールを決めきれず、試合は1-1で終わった。サッカー関係者やファンからは物足りなさを指摘する声も上がった。
南米の強豪を相手に、海外にも飛び出す同年代の選手とともに戦ったことが上田の心に火をつけたのだろう。そんなメディアの想像に対する答えは、イエスであり、ノーだった。
サッカー部を退部して、さらに厳しい環境で自分を磨き上げる。そう決めたのは日本代表に初選出され、コパ・アメリカの開催地であるブラジルへ向かう1週間ほど前。フライト当日に、決意を告げるべく法大サッカー部の監督室を訪ねた。
大学入ったあと、初めて選ばれた年代別の日本代表にはプロ選手もいた。「代表とプロにかかわるうちに、その環境に一早く身を投げ出したいという気持ちがありました。鹿島という素晴らしいクラブに内定をもらえたので、そこでやりたいなという気持ちがありました」と上田。最後の一押しが、今年6月のフル代表への選出だった。
「コパ(・アメリカ)の結果がきっかけになったわけではなくて。大学生として選ばれたということが、次のステップに進むきっかけになったということです。コパに行く前に決断を伝えて、監督やスタッフに(プロ入りへ)動いていただきました」
大学でストライカーに専念し、U-20代表入り
来年の東京オリンピックをはじめ日本代表での活動を見すえての決断ですか? 「まったく違います」。代表に呼ばれるようになり、どういう部分が成長したと思いますか? 「それは分かりません。他人が見て、分かるものなんじゃないかと思います」。20歳ながら、メディアの質問に踊らされることはない。それでいて写真撮影では満面の笑みで、すべてのカメラへ視線を合わせるサービス精神。すっかりプロらしかった。
「あんなにちゃんと話せるようになって……」。記者に囲まれる教え子の姿に、法大サッカー部の長山一也監督は目を細めた。「スポーツ推薦で入学する選手とは面談するんですけど、綺世はボーッとした感じでしたね」。いまではポーカーフェイスと言った方がしっくりくる。「自分でも言ってましたけど、いろいろと“整理”されてきたんでしょうね」。プレーと人間性の成長に、長山監督は共通点を見ている。
高校時代の上田は、アタッカーながらも守備やさまざまなタスクをこなさねばならなかった。「大学では点を取ることに専念できるようになりました。そこだけを考えてアプローチできるようになったのが、大学に入っての大きなポイントだと思うし、チームメイトがいてこそできた成長だったのかなと思います」
ストライカーに専念できるようになった成果が、2年生でのU-20日本代表入りだった。長山監督は「代表に招集されるたびに成長し、その自信が成長に拍車をかけた」と語り、「こんなにすごいスピードで伸びていく選手もいるんだな」と舌を巻いたという。さらに「大学サッカーのすごくいいところでもあるんですけど、人としてもすごく成長しました」と上田をたたえた。
昨年末にはインカレ優勝に貢献し、ベストFW賞を受けた。今年3月のデンソーカップチャレンジでは、全日本大学選抜の一員として決勝で決勝点をたたき込み、大会MVPを受賞した。大学サッカー界では「突き抜けた存在」と、長山監督も認める選手になった。
大学サッカーに育まれた。上田自身もそう自覚している。
中学時代は鹿島アントラーズの下部組織に所属したが、ユースに上がれなかった。「反骨心を持って、(高校入学後の)約5年間取り組んできました。法政に来てようやく、代表入りや全国優勝を経験できた。大学に入るまでの約13年間の積み重ねを、ようやく大学に入って出せたんじゃないかなと思います」。だからこそ、法大での2年半を「一番濃い時間だった」と愛おしんだ。
鹿島内定発表から約半年間の「チャレンジ」
実は今年2月の鹿島入団内定発表後、すぐに大学を中退してのプロ入りも考えた。だが、長山監督らに相談し、はやる自分を見つめ直した。「まだ法政でできることがあると感じたし、それを実現しないと出られないと思った」。この半年間を上田は「チャレンジ」と呼んだ。
鹿島学園高校時代の恩師、鈴木雅人監督にも相談した。その際に返されたのが、冒頭の「旬なときに行っちゃえば? 」という言葉だったという。
その一言が、やる気のネジをさらにきつく巻き上げるのに役立った。
「『サッカー選手は旬なときがすべてだ』と、いつも言われてました。半年残ることで何か法政に残せるし、新しいところに行けるんじゃないかと思って、もっと先の旬を目指して、半年やり続けました」
実際に飛び抜けた貢献ができたかどうかは分からない。ただ「僕自身が刺激になれる存在で終わりたいなという思いがあった」と、ピッチ内外でチームの成長のためにできる限りのことをしてきたつもりだ。そしていま、「言い残したことはない」と断言する。
どうなるか分からないからこそ、面白い
その半年間でつかんだ日本代表入り。ゴールを決められなかったエクアドル戦は「最高のデビューの仕方だった」と、もうひとりの恩師である長山監督は考える。「苦労もしてるので、本当に吸収力があるんです。点が取れなかったから、それがモチベーションになりますよ」
その代表初陣も、いまの姿も、未来への道も。上田の頭の中では、整理がついている。
コパ・アメリカに出て気づいた、自分に足りないものは何なのか? その質問にも、上田は「嘘をついてきれいごとを並べる気はない」と、安易な答えを出さなかった。
「見つかってないし、明確なものがあるのかどうかも分からない。もしあのコパで決められなかった理由がひとつ明確にあったら、そこにトライすれば、僕の選手生命は終わっちゃう。それじゃあ面白くない」
どうなるか分からないからこそ、面白い。新たな旬を見つけ続けなければ、生き残れない。未完の野心を胸に、上田は新しい世界へ飛び込んだ。