けがで出雲欠場の東海大主将・館澤亨次、初めての停滞期をプラスに転じられるか
東海大は箱根駅伝の連覇だけでなく、学生駅伝三冠を目指している。その中心にいるのが、入学以来三大駅伝にすべてに出場してきた主将の館澤亨次(りょうじ、4年、埼玉栄)だ。しかし、最後のトラックシーズンはまさかの不本意な結果に終わり、その大きな要因がけがだったことが判明。10月14日の出雲駅伝の登録メンバーから外れた。
去年できたことができない……
この春、館澤の走りは本来のものではなかった。2連覇中だった関東インカレの男子1500mでは、後輩のルーキー飯澤千翔(かずと、山梨学院)に3連覇を阻止された。ただし100分の1秒差の2位と、この時点では館澤も自らの変調に気づいてはいなかった。
「おかしい」と感じ始めたのは、6月下旬の日本選手権あたりからだったという。男子1500mは9位に終わり、関東インカレに続いて3連覇を逃した。すると7月のユニバーシアード男子1500mでは予選落ち。男子5000m予選ではトップ通過と気を吐いたが、決勝では6位だった。1年前にできていたことが、できない。
「うまく走れない原因がわからなくて、立ち止まってる状態でした」。原因にたどり着いたのは、ユニバーシアードのあったイタリア・ナポリから帰国してから。正確には8月1日のことだった。病院を訪れた館澤は、医師から「4月の段階で、右足のハムストリングスを痛めていた」と告げられる。それも、軽傷ではなかった。
ずっとけがをした状態で走っていた
「断裂には至ってなかったんですが、それに近い状態で……。無意識にそこをかばっていたからか、左の恥骨も痛めてて、結合炎になってました」
よくそんな状態でトラックシーズンを乗り切れたものだ。医師も驚いていたという。
「もともと痛みには鈍感で、少しくらいなら我慢できてしまうんです(苦笑)。4月、5月のころから多少の痛みはありましたが、そのくらいは大したことではないだろう、と練習も続けてました。走りに集中している間はなんとかなりますし。その繰り返しでユニバまで出場してたんですが、7月下旬になると、さすがに我慢できないレベルになって……。それで病院に行ったんです」
もしかすると、痛みに強い体質と我慢強い性格が、けがの発見を遅らせたのかもしれない。加えて「学生ラストイヤーなので『多少のことでは立ち止まれない』という思いもありました」と、館澤は言う。
駅伝で勝つために東海大に入った
けがが判明してから、1カ月以上走れない日々を送った。アメリカのフラッグスタッフであったチームの夏合宿にも参加できなかった。「陸上を始めた小学4年生からけがをしたことがなくて、1週間以上走らなかったこともなかったんです」と館澤。初めて経験する停滞だった。
一方で、不調の原因が分かったことで、モヤモヤしていた気持ちがスッキリした。「まったく前が見えない状況から、少しは霧が晴れてきたかな、と。いまはしっかりけがを治して前に向かっていく、というはっきりした道筋が見えてますし。けがをして学んだこともあったので、それを駅伝シーズンに生かしたいと思ってます」
言うまでもなく、館澤は大学駅伝を代表する選手の一人だ。これまで三大駅伝には1年生の出雲から9大会連続で出場し、全日本では3年連続して区間賞を獲得。1年生の箱根では区間13位だったが、それ以外はすべて区間2位という出色の実績を残している。今年の箱根では4区を担い、1時間2分37秒の好タイムで総合初優勝に貢献した。
埼玉栄高校では都大路を3年連続で走った。館澤は「僕は駅伝をするため、駅伝で勝つために東海大に入りました」と言いきる。そんな思い入れのある学生最後の駅伝のシーズンが、もうすぐ始まる。しかも主将だ。チームの目標は三冠だ。しかし、初陣となる出雲はけがが完治していないため、走れない。仲間を信じてサポート役に徹する。
「ウチは副キャプテンの西川雄一朗(4年、須磨学園)に支えてもらってる部分もあるので、キャプテン不在でも必ず勝ってくれると思ってます。僕は、走れなくてもキャプテンとしてできることがあるはずなので、それをやります。言葉でもり立てるのは、あまり得意じゃないんですけどね(笑)」。どこまでも実直な主将は必ずや復活し、全日本と箱根では走りでチームを引っ張っていくつもりだ。
「春のトラックシーズンは、悔しい思いしか残ってません」。ずっと順風満帆な陸上人生を歩んでいた彼にとって、初の停滞期であった。だが、立ち止まったからこそ見えてきたものもある。そうしたものすべてを燃料にして、館澤は完全復活へと駆けていく。