野球

特集:駆け抜けた4years. 2020

筑波大・篠原涼 2度目の日本代表キャプテンで気づいた「ぶれない芯」の大切さ

攻撃時に凡退し、何ともいえない表情でベンチへ戻る篠原(撮影・佐伯航平)

「大学の4年間は長かったです。終わってみれば早いと思いますが、プレーしてる間は長く感じました」。大学野球のすべてを終えた昨年暮れ、筑波大の主将だった篠原涼(4年)は静かに大学での自分を振り返った。敦賀気比高(福井)の主将として、3年春の選抜大会で北信越勢初の日本一を経験。U18ワールドカップでは高校日本代表の主将を務め、銀メダルをとった。いくつもの看板を提げて筑波大の門をくぐったが、何度も壁にぶち当たっては苦悩した。 

篠原は社会人野球の世界を経てプロを目指す(撮影・沢井史)

「高校野球は実質2年半ですが、大学はほぼその2倍。高校は春、夏、秋と年に3回大きな大会がありますが、大学は春と秋の2シーズン。でも一つのシーズンが長い。リーグ戦が終わると、次のシーズンまでも余計に長く感じました」

敦賀気比高から初めて筑波大へ 

篠原という男をひとことで表すと「ひたむき」や「まっすぐ」という言葉がぴったりだろう。高校時代から何事にも全力で取り組み、妥協を許さない強さに周囲も一目置いていた。体は決して大きくはないが、パンチ力のあるバッティングで不動のトップバッターだった。3年生の夏の甲子園では、2回戦の花巻東(岩手)戦でホームランも放っている。 

敦賀気比から筑波へ進んだのは篠原が初めてだった。入学早々から貴重な戦力として期待されたが、すぐに試練が待っていた。木製バットという壁だ。金属バットだと芯でとらえられなくてもある程度飛ばせるが、木製はそうはいかない。誰もがぶち当たる壁で、篠原も覚悟はしていたが、真面目すぎる性格が災いして、意外な方向に向かってしまった。 

「芯でとらえないといけないと思いすぎて、自分であれこれ難しく考えすぎてしまったんです。うまく当てようと複雑に考えてしまいました」。入学後間もない1年生の春から首都大学1部のリーグ戦に出場したが、バットになかなか当たらず、当たってもヒット性の打球が飛ばない。いろんな打順で打たせてもらったが、納得のいく数字は残せなかった。

木のバットに苦しみ、やっと吹っ切れた3年の秋

篠原が吹っ切れたのは、3年生の秋のシーズンになってからだった。
「試合中に、不意にシンプルにバットに当てたらいいやと開き直って、タイミングだけ合わせて振ったらホームランが打てたんです。『あ、これでいいんだ』と。それからは振るときにあれこれ考えなくなりました」 

日米大学野球の表彰式で優勝のトロフィーを受け取る(撮影・佐伯航平)

練習では思い切り振って、試合ではコンパクトに。そうすることでムダな力が入らなくなった。さらに、いままでは引っ張った打球が多かったが、余計な意識をしなくなったことで、逆方向にも打てるようになった。「力を抜くってこういうことなんだ」。これも大学生活の半分以上にあたる約2年半の長い長いトンネルで苦悩を重ねた上での、気づきだった。 

ここまでの篠原の野球人生を語る上で外せないのが、2度の日本代表キャプテンだ。敦賀気比高3年だった5年前のU18ワールドカップで高校日本代表、そして昨年の日米大学野球で大学日本代表のいずれもキャプテンを務めた。高校と大学で2度も日本代表のキャプテンになった選手は過去に誰もいない。高校と大学での日本代表キャプテンの一番の違いはどこにあったのだろうか。 

「高校日本代表はみんな仲よく楽しく、という感じだったんですけど、大学日本代表は少し雰囲気が違いました。個々のプライドが強かったですね」 

明治から広島カープへ入った森下に笑顔でボールを返す篠原(撮影・佐伯航平)

その中でも、篠原はあえて自分の意見は言わず、選手の意見に耳を傾けるようにした。篠原は敦賀気比や筑波でもキャプテンをやってきたが、そこでも選手一人ひとりの表情を見るようにしていた。みんなが何を考え何をしたいのかを、アンテナを張って情報収集していた。

「全員の性格が違うので、みんなと会話をするようにはしました。ただ、ミーティングは好きじゃなかったです。(筑波大の川村卓)監督もよく言ってたんですが、野球はグラウンドでやるものだから、机の上で話したところでグラウンドと同じことはできない。野球は一瞬の判断で動くものなので、言いたいことがあればグラウンドで解決させろと。実際、ミーティングをしても、みんながちゃんと話を聞いているかどうか分からないですし……。一人ひとりに言いたいことがあれは直接グラウンドで言ってました。そこで意思確認をしました」 

うまくまとめようとは思わなくなった

それでも、一筋縄ではいかないことも多かった。

「大学生になると、20年以上生きてきてそれぞれ自分の考えで野球をやってきているので、僕が何を言っても『俺はこうだから』と、簡単には自分のスタンスを変えないんです。だから、うまくまとめようとは思わなくなりましたね」 

高校時代は厳しい言葉をチームメイトに投げかけることも少なくなかったが、大学では全員が同じ方向を向ける環境づくりに奔走するようになった。試合に勝てば自然と全員が同じ方向を向くようになるが、チームの状況が悪いときほど、それは難しい。とくにキャプテンは自分のことを犠牲にしてでもチームの立て直しを優先しなければならない。たとえ自分の調子が悪くても、篠原は表情を明るくして、いつも通りに振る舞うようにしていた。 

「チーム状況が悪いときほど『何かをしないといけない』ってどうしても思ってしまいますが、勝てないからといって何かをすることはありませんでした。そこで動いても焦るだけなので。自分はあくまで“後押し”できる役目になれたらと思いました」 

昨夏の日米大学野球で優勝を決めた瞬間、マウンドで仲間と喜ぶ篠原(中央左、撮影・佐伯航平)

押しつけず、流れを見ながらチームをいい方向へ向かわせる。それが一番のキャプテンだと感じていた。2度の日本代表キャプテンを経験して感じたことは、ぶれない芯を持つ大切さだ。「もちろん、周りの話を聞くことは大事です。でも、自分の考えの中でしっかりと軸にできるものも持ち続けていかないといけない。それさえあれば、どんな状況でも戦っていけます。周りから言われることをうのみにしすぎずに、自分の経験から『こうだ』と思ったことは貫いた方がいいですね。それは今後も忘れないようにしたいです」 

社会人野球の名門JX-ENEOSへ

篠原は高校時代からプロ志望だ。高3のときは悩んだあげく、さらなるレベルアップを目ろんで進学を決断した。いまもプロ野球選手になるという意志は固いが、この春からは社会人野球の名門JX-ENEOSに進む。「社会人からのプロ入りは、そのときそのときが勝負。春から試合に出てアピールして、夢をかなえられたら」。その思いはぶれてはいない。 

だがこれだけの経験値があれば、指導者など多くの選択肢もあるだろう。篠原の人間性に触れ、感銘を受けた高校野球の指導者は、実は結構多い。だが、篠原は少しでも長く現役でプレーし続けたいと思っている。学生野球から巣立ち、この春から篠原はどんなリーダーの一面を見せてくれるのだろうか。常に全力で駆け抜ける勇姿を、社会人野球の世界でもきっと見せてくれるだろう。

昨夏の日米大学野球で優勝した日本のメンバーたち(最前列の右から4人目が篠原、撮影・佐伯航平)

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