大学アメフト

特集:駆け抜けた4years. 2020

関学アメフトAS天春剛「勝つために自分に何ができるか、考え抜いてやりきるのが4回生」

甲子園ボウルの試合中、サイドラインに戻った選手たちに語りかける天春(撮影・北川直樹)

関西学院大学ファイターズは昨年12月、アメフトの甲子園ボウルで早稲田大を下し、2年連続30度目の学生日本一になった。関西学生リーグの最終戦では立命館大に負け、西日本代表決定戦でやり返した。決して楽な道のりではなかった。 

アメフトは準備のスポーツと言われる。対戦相手を徹底分析して対策をひねり出し、その練習を重ねる。選手とスタッフが多岐にわたる役割を分担し、「勝つ」という共通のゴールに向けてチームを仕上げていく。アナライジングスタッフ(AS)と呼ばれる裏方がいる。過去の映像から対戦相手の戦い方の傾向を分析するのが主な仕事だ。試合中はコーチとともに作戦の決定や、その内容を選手に伝える役割を担う。準備、戦略の担い手だ。関学のASとしてやりきった天春剛(あまがす・ごう、4年、横浜栄)の4years.を書きたい。 

中学生まではサッカー少年だった

高3の秋、関東大会の2回戦から(天春は中央の17番、撮影・北川直樹)

横浜市出身の天春は3人きょうだいの末っ子。中学校まではサッカー少年で、横浜市立富岡東中では主将だった。進学した横浜栄高でもサッカーを続けようと思っていたが、友だちに熱心に誘われてアメフト部の練習を見学に行った。すぐにアメフト部の明るい雰囲気の虜(とりこ)になった。この年は、のちに関学に進むパング航海(わたる)が主将で、彼の強烈なリーダーシップにも惹(ひ)きつけられた。ポジションは本人いわく「体のサイズ的に消去法で」と、WR(ワイドレシーバー)になった。当時は身長155cm、体重45kgほどだったそうだ。

「高1のときは細くて下手くそで。練習でボールを落とすと先輩に怒鳴られるし、まったくアメフトが好きじゃなかったです」。アメフトは、フィールドで戦うのは11人同士。交代に制限はない。当時の横浜栄は部員が16人しかいなかったにも関わらず、天春は秋も試合に出られなかった。情けなかった。 

冬の新人戦でも初戦は出番がなかったが、同じポジションの仲間がけがをしたため、2回戦から急きょ出ることになった。「初めて危機感を持ちました。自分のせいで負けるわけにはいかないので、必死に練習しました」。天春の本気を感じたコーチや先輩もつきっきりで教えてくれて、できなかったことが少しずつできるようになった。「試合までの1週間で、アメフトが楽しくなりました」と天春。同じころからNFLにもはまって、戦術やプレーを研究するほどのオタクになった。当時から横浜栄のコーチを務める花田悠太さん(28)は「天春ほどアメフトが好きなヤツは見たことがないです」と振り返る。  

高3の秋、神奈川の3位決定戦で奮闘する天春(撮影・北川直樹)

3のときは、同級生でのちに関学のエースRBになる山口祐介らメンバーがそろったこともあり、春も秋も関東大会に進出。秋は神奈川の公立校として初めて関東のベスト4まで勝ち進んだ。11月まで部活を続けることになったため、親に「浪人させてほしい」とお願いし、アメフトに専念した。 

同級生のRB山口の活躍を見て「関学に行きたい」

浪人している間に法事で関西に行く機会があり、関学の試合を見に行った。同級生の山口が早くも活躍する姿を見ると、関学のアメフト部に入りたい気持ちがふつふつと沸いてきた。すぐ親に「関学を受験したい」とお願いした。同志社大出身の父は、関学のアメフト部がどういう集団か知っていて、息子の本気を感じると快く背中を押してくれた。 

そして関学に合格。迷わず入部を決め、チームに貢献できる最善策を考えた。「自分は体が小さいし、特別なスキルもない。ただ、アメフトに対する情熱だけは誰にも負けない自信がありました」。戦術面でチームを支えるASになると決めた。ASも選手と同じくオフェンス、ディフェンス、キックに担当が分かれている。高校時にWRDB(ディフェンスバック)だった天春は「オフェンスに対応しながら動くディフェンスの方が奥深そう」と思い、ディフェンスを選んだ。1回生の夏のことだった。すると4回生の主務でホルダーだった石井宏典に「キッキングチームを手伝ってくれ」と言われた。天春の同期にはAS5人いたが、「信頼できるのはお前や」と言われたのがうれしかった。 

甲子園ボウルの試合中、DBの選手たちと意見交換(撮影・北川直樹)

石井からはキッキングの「イロハ」を教えてもらった。天春がいたころの横浜栄はキッキングまで手が回らず、知識がほぼなかった。真っ白からのスタートだった。シーズン前に試合に出場するメンバーだけの合宿にも参加し。「お前も聞いとけ」と言われ、ミーティングにも1回生でただ一人出席した。「信頼されてることもうれしかったんですけど、1回生からミーティングに出て、上級生の本気をより感じられたのがいい経験でした」と振り返る。 

2回生になると、ディフェンスの仕事量が増えたためディフェンス一本に戻ったが、「忙しさを言い訳にして仕事をこなすようになってしまっていた」という。チームの勝利に貢献できている実感もなかった。甲子園ボウルでは有利と言われながら日大に負けた。「負けたことは悔しくて、試合後は泣きました。でも『自分があのときこうしてれば』という後悔が何も浮かばず、何で負けたのかも分からなかった。このままじゃいけない、自分で考えて本気でやろうと思いました」。ここが天春のターニングポイントになった。 

裏方として3回生となり、4回生に学んだ

西日本代表決定戦の勝負どころで叫ぶ(撮影・篠原大輔)

3回生になった。高校のチームメイトの山口がいたこともあり、4回生とは仲がよかった。4回生も、天春のことを同期のように扱ってくれたという。4回生だけのミーティングにも志願して参加し、発言もした。受け持っていたのは、関学ディフェンスの仮想敵となるオフェンスのスカウトチームだったが、1軍ディフェンスのミーティングにも出た。「関学は4回生のチームです。4回生といる時間が長いことで、自分のすべきことがどんどん明確になっていきました。同時に下級生にもっと協力してもらうには、どう接するべきかも考えるようになりました」。上級生と比べてまだ意識の甘い下級生は、任せすぎてもダメ。日々課題や気づきを与えて、自分が成長する意識を持たせるようにした。すべての基礎となる物事の考え方として「なぜこうやるのか」の説明を徹底し、アサイメント(役割分担)も一から丁寧に教えた。 

「アメフトは楽しいんだ」ということを伝えたかった。「そのためには、ただ言ってやらせるだけではダメ。自分で考えることで、動きがよくなるんです」。自分がプレーヤーではないから、技術の細かい話はできない。それでも後輩の選手が壁にぶつかると、練習直後の〝アフター〟の時間で「どうする?」と一緒に考えた。 

選手だけでなく、コーチとの信頼関係が築けたのも大きかった。守備のサインを決める「ディフェンスコーディネーター」を務める香山裕俊コーチからは、日ごろから「お前が選手の意見を聞き出してくれ」と言われてきた。「任せてくれたのでやりやすかったですし、自分で考える力が身につきました。学生の意見も聞いてくれましたし、緩んでるヤツがいると厳しく指摘してくれました」。3回生でありながら4回生とともに取り組み、チームを作り上げた。立命に2連勝し、甲子園で早稲田を倒して学生日本一を奪回した。充実した1年だった。 

ライスボウルの試合中、ディフェンスのメンバーたちに向かって叫ぶ(中央やや右の手前、撮影・北川直樹)

鳥内監督に言われた「スタッフかて、主役なんや」

泣いても笑っても最後の4回生。自身もラストイヤーとなった鳥内秀晃監督(61)やコーチらからは「今年はアカン」と言われ続けてきた。4回生が60人もいて、フットボールにかける思いに温度差があった。夏になり、秋のシーズンが深まってからも4回生の退部者が出た。「もし甲子園にいけなかったら、終わり。ファイターズを名乗れないと思いました」と、天春は苦しかった日々を振り返る。 

鳥内監督との個人面談で言われたことがある。「スタッフかて、選手のお手伝いじゃアカン。自分が主役、自分が勝たすんやで」。自分がチームを動かす。それを毎日の練習で意識し、必死に取り組んだ。秋のリーグ第4戦では、神戸大に15-17と大苦戦した。不安を払拭(ふっしょく)できないまま臨んだ立命戦。関学のディフェンスはパスをケアしていたが、ランでど真ん中をこじ開けられ、まったく止められなかった。力負けだった。試合後の関学サイドの観客席へのあいさつ。責任を果たせなかったという思いから、前を向けなかった。スタンドからはヤジが止まらない。「甲子園行かせてくれよ!」という言葉が聞こえた。全部、自分に言われていると感じた。「1年間、ダメダメと言われ続けてきて、これでまた負けたら、本当にただのダメな代で終わってしまう」。自分たちの4年間が全否定されることに恐怖を感じた。 

西日本代表決定戦の試合前練習で、涙をこらえながら大声を出す(撮影・安本夏望)

甲子園ボウル出場がかかる西日本代表決定戦まで3週間。関西2位になった関学は、西南学院大、神戸大と試合が続くのに対し、1位の立命はまるまる3週間の調整期間がある。「正直、あれだけ完敗して3週間では巻き返せないと思いました」。人生で一番長かったという3週間、1回生から4回生まで、全員が本気になった。そして西日本代表決定戦で、再び立命とぶつかった。

天春は試合前の練習から大泣きしていた。「負けたら終わり」。この言葉が頭をかすめるたび、涙が止まらない。立命の選手を見ると泣いてしまうので近寄らず、関学側を走り回った。試合が始まると天春はサイドラインから全力でサインを出し、ベンチでも選手に話しかけた。このときの胸の内について天春は「恐怖と緊張と覚悟が混ざり合った、たぶんもう一生できないような気持ち」と表現した。究極に追い込まれた状況で、21-10で立命に勝った。「よく『関学は立命との2戦目に勝つために、1戦目は本気でやってない』って言われるんですけど、違います。毎回本当に必死でやってるんです。やっと2戦目で気持ちで上回れたから、ひっくり返せたんだと思ってます」。関学ファイターズはボロボロになりながら、甲子園にたどり着いた。 

甲子園ボウルに勝ったあとの記念撮影。天春は鳥内監督のすぐ右に陣取った(撮影・北川直樹)

2年連続で早稲田と対戦した甲子園ボウルには勝ったが、天春は苦い思いもした。ディフェンスは早稲田のエースWRブレナン翼にやられまくり、けが人も出た。第3クオーター終盤に逆転された。普段はアサイメントを間違えたことなどない4回生が、大事なところでミスをした。再びひっくり返して勝ったが、鬼門の立命戦を乗り越え「一山越えたような緩みがあった」という。続く今年13日のライスボウル前夜のミーティングでは、何人もの4回生が「どんな展開になってもあきらめない」という話をして、鳥内監督に一喝された。「いい試合する、やないやろ。勝ちに行くんやろ?」と。 

とことん考え抜き、やりきる

ライスボウルの試合後、一緒に歩んできた4回生たちと(天春は右端、撮影・北川直樹)

「自分らの代は、最後まで鳥内監督をはじめ、コーチ陣に迷惑をかけた代でした。苦しい試合や負けもあったけど、なんとか甲子園で勝つとこまでいけました」。現役のうちは楽しむ余裕などなかったが、振り返ると充実した4年間だった。「やりきったと言えます。達成感と感謝しかない。とくに4回生で一緒にやってきたディフェンスの松本、畑中、大竹、ASの西川には『一緒にやってくれてありがとう』という気持ちが強いです」。入部前はファイターズのことを「スマートに決められた練習をこなし、機械のように統率されたチーム」と思っていた。しかし実際に中に入ると、「アツくて、人間臭くて、不器用で。とにかく気持ちの強さがある。歴代ファイターズの責任を背負っている一人ひとりの思いが詰まったチーム」と、とらえ方がまるで変わった。ファイターズで戦うことは、部員の誰もが主役になること。そして、4回生にはチームを勝たせる責任がある。そのために自分には何ができるのか、とことん考え抜き、やりきる。それが、関学ファイターズで学んだことだ。 

就職の内定している企業の勤務地は決まっていないが、東京になればファイターズで学んだことを横浜栄高校の後輩たちに還元していきたいと考えている。「人生のピークを関学での4年間にはしたくないんです。常に成長し、自分にできることをやり続けます。」天春は力強く言った。 

最後に、これは書いておきたい。鳥内監督の教育者としての側面で例に挙がることの多い部員との個人面談。天春は意を決して聞いた。「歴代のASで一番すごかったのは誰ですか?」。すると名将は言ったそうだ。「知らんな」と。

天春はチームの横断幕に、担当するポジションがユニットとして日本一になってほしいと記した(撮影・北川直樹)

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