ラグビー

特集:ラグビーW杯戦士の4years.

帝京大で学んだ「すべての行動に意志と意味を」 サントリーCTB中村亮土

昨年のワールドカップのスコットランド戦でアタックに出る中村(中央、撮影・朝日新聞社)

昨年のラグビーワールドカップで日本代表は初めてベスト8に進出し、日本列島を沸かせた。フィールドの中央で12番を背負い、オフロードパスや激しいタックルでジャパンの躍進に貢献したのが、CTB(センター)中村亮土(りょうと、28、帝京大)だ。大会前まではディフェンスのリーダーとして、大会中はアタックのリーダーとしてSO(スタンドオフ)の田村優をサポートした。 

鹿児島で生まれ育った

トップリーグの強豪サントリーサンゴリアスでプレーする中村は鹿児島で生まれ育ち、鹿児島実業高でラグビーを始めた。中学まではサッカーだったが、父親がラグビー好きだったこともあり、「生まれたときからラグビーをやるように仕向けられてましたね」と振り返る。 

かつてはサッカー少年だった(撮影・佐伯航平)

父親はラグビー経験者ではなかったが、「絶対に子どもにはラグビーをやらそう」と思っていたようで、中村が小さいころから家の中にはラグビーボールが転がっていたし、鹿児島でトップリーグや大学の試合があるときは中村を連れて出かけた。 

父親の狙い通りに鹿児島実業高でラグビー部に入った。一学年15人ほどで、経験者は2、3人だった。「大きい相手に負けたくないというのが僕の原点」と振り返るように、タックルに磨きをかけた。夏にはWTB(ウィング)のレギュラーとなった中村だが、高1の花園予選では鹿児島市立鹿児島玉龍高に負けた。 

両足で蹴れたこともあり、2年生からはSO(スタンドオフ)に転向。司令塔として2年連続でチームを花園出場に導いた。しかし、2年生のときは県予選決勝で負ったけがのために聖地には立てなかった。3年生になると主将として花園に乗り込んだが、初戦の國學院栃木(栃木)戦で中村がPGを外してしまい、14-16で負けた。「よく覚えてますよ。花園には、いい思い出はないですね」と、苦笑いで言った。 

花園には、いい思い出がない(撮影・佐伯航平)

花園ラグビー場のある大阪から鹿児島に帰った後、中村は責任を感じてPGの練習を続けた。「高校時代はキックとか一つひとつのプレーの大事さを教わりました。高校からラグビーを始めたから、ずっと向上心を持って、小さいころからやってる選手に負けたくないというモチベーションになりましたね」 

10年後のワールドカップが目標になった

高校時代に最も印象に残っているのは、2009年の夏。10年後に日本でワールドカップが開催されると決まった直後のことだった。高校日本代表候補の合宿に招集されていた中村は、合宿中のミーティングであるコーチが口にした言葉を、いまもはっきりと覚えている。「10年後、この世代がワールドカップに絶対出場することになるから、頑張ってほしい」 

日本代表になり、ワールドカップに出る。それが中村の現実的な目標となった瞬間だった。 

しかし、九州大会や花園の1回戦、2回戦で負けるチームで、中村はさほど目立った活躍もできていなかった。並みいる関東の強豪校からは、声がかからなかった。たった一つ誘ってくれた大学があった。強くなり始めていた帝京大だ。 

高3のとき、唯一声をかけてくれたのが帝京大だった(撮影・佐伯航平)

「岩出(雅之)監督は、よく見ていてくださったなと思います。帝京はディフェンスもバチバチいくし、赤いジャージーがすごくカッコよく見えました。僕が帝京に行くと決めた2009年度に初めて大学選手権で優勝したので、いま思えばタイミングがよかったですね!」 

帝京に入ると、大学選手権で優勝したチームのレベルの高さにびっくりしたという。当然、Cチーム、Dチームからのスタートだったが、秋にはBチームで出場し、関東大学対抗戦の成蹊大戦で初めてファーストジャージーを身につけた。10番だった。そして対抗戦の早稲田戦にも出場したが、チームは負けた。大学選手権のメンバーには入れなかった。 

帝京では2年生からレギュラー

2年生になると13番としてCTBの定位置を確保し、チームの中心選手の一人として大学選手権3連覇に大きく貢献した。当時は大学勢も出ていた日本選手権にも出場し、トップリーグの強豪の一つ東芝ブレイブルーパス戦にも先発。この試合でのパフォーマンスが高く評価され、当時の日本代表のエディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)の目にとまった。3年生になると、練習生という立場で日本代表候補合宿に初めて招集された。 

帝京大4年生の2013年5月、UAE戦で初キャップを手にした(撮影・斉藤健仁)

レギュラーではあったが、2年生のときの中村はミスが目立つ選手だった。岩出監督に「そんなことができないなら、鹿児島に帰れ!」と何度も怒られたことが、成長につながったという。その後、帝京では3年生、主将を務めた4年生でも活躍し、大学選手権5連覇に貢献した。日本代表としても4年生の4月、アウエーのUAE戦で初キャップを獲得した。 

「考えろ」と言われ続けた大学時代

帝京での4年間は中村にとって、「高校で基本的な部分を習って、大学ではその応用という感じだった」という。SOやCTBとして試合の中でどう動くのか、周りをどう動かすのか、ボールをどう動かすのか……。考えてプレーすることを意識し始めた。 

また、その後のトップリーグやサンウルブズ、日本代表での活動で、大学時代のある心がけが生きたと感じている。大学時代から中村は、すべての行動に意志と意味を持って行動することを念頭に置いていたという。毎回の練習やトレーニングも、「どんな意味があるんですか?」と聞いていた。 

帝京大3年生の大学選手権決勝でトライ(撮影・朝日新聞社)

「ムダな時間を過ごしたくないですし、ムダなことをやりなくないので、そういったことを意識してました。みんなと一緒にやる練習やウェイトトレーニングでも、ただなんとなくやったり、誰かに『いいよ』と勧められたものをすぐにやったりするのではなく、自分の中で意志を持って、練習に意味を持たせて取り組むことが、自信になったりいい結果につながってきたのかなと思います」 

中村がこう考えるようになったのは、やはり岩出監督の影響が大きかった。中村が「人間教育に熱量を持っている方でした」と評する監督からは、毎日のように「考えろ」と言われた。「考えながら行動しろと言われるので、僕の中で解釈して、意志と意味を持ってすべての行動をするようになった。いまも自分の中で非常に大事にしています」と、懐かしそうに振り返った。 

中村は2014年、サントリーに入団した。しかし、SO、CTBといったゲームをコントロールするポジションには世界的選手や日本代表選手がおり、なかなか定位置を確保することができなかった。それでもサラリーマンをしながらも少しずつ成長していった中村は、16年度のトップリーグ優勝に貢献した。 

名前の「土」の字に込められた思い

ワールドカップ後のトップリーグで初先発したときの中村(撮影・斉藤健仁)

しかし、17年2月、日本代表の予備軍にあたるNDS(ナショナルディベロップメントスコッド)合宿に、彼の名前はなかった。「悔しかったんでしょうね」と振り返る中村は、オフ期間もトレーニングを休まなかった。そして同年3月、NDS合宿に追加招集されると、そこから少しずつ、競技面もそれ以外の面も日本代表のコーチ陣に評価されていき、日本代表の中軸としての存在感を出し始めた。 

中村の父親は「大地のように力強くなってほしい」という願いを込めて、「土」の字を名前に入れたという。タックルという武器を軸に、高校、大学、そして社会人になっても努力を続けて、歩みを止めなかったからこそ19年のワールドカップで日本代表の一人に選ばれた。そして晴れ舞台でも泥臭いプレーを貫き、8強入りを支えたのだった。

サントリーでサラリーマンをしながら力をつけた(撮影・佐伯航平)

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