ソフトボール

立命館ソフト部OGの本庄遥が本場アメリカへ「アスリートの新しい生き方見せたい」

豪州でプレーし、U23の州代表にも選ばれた。今度はソフトボールの本場・米国でプロに挑む(撮影・広部憲太郎)

立命館大の女子ソフトボール部で投手として活躍し、昨秋に卒業した本庄遥(23、創志学園)が3月、アメリカのプロリーグに挑戦する。日本の実業団には所属せず、「フリーアスリート」を名乗り、活動資金はクラウドファンディングやスポンサーからの援助、ピッチング教室などの活動で集めた。自立した新しいアスリート像を追い求めて、海を渡る。

高校で全国制覇、日韓交流戦で世界に目を向けた

本庄は身長154cmのサウスポー。小柄だが、チェンジアップを武器にしたクレバーな投球が身上だ。創志学園高校(岡山)のエースとしてチームをインターハイ優勝に導き、大学時代は関西学生リーグの最優秀投手にも輝いた。

ソフトボールを始めたのは、兵庫県高砂市で暮らしていた小2のとき。学童保育の上級生に誘われた。当時から負けず嫌いで目立ちたがり屋。主に投手を務め、小学校で県のベスト4、中学生になると県選抜チームの一員に選ばれた。「自分が活躍すれば周りが喜んでくれる。それがモチベーションでした」

ソフトボールの日本代表は2008年北京オリンピックで、上野由岐子(37)らの活躍で金メダルを獲得した。そのころの本庄にとって、自分がオリンピックのマウンドに立つイメージはわかなかった。「当時はすごさがよく分からなくて、日本代表になろうという意識はありませんでした。勉強が好きで、中学でソフトボールはやめて普通の高校に進もうと思ってたんですけど、創志学園の監督に声をかけてもらって越境入学しました。共働きの両親が忙しくて、仲はよかったんですけど、どこかで寂しい思いもあって。誰かと一緒に過ごせる寮生活に温かさを感じてもいました」

高校生活は厳しかった。漫画やスナック菓子、炭酸飲料は禁止。携帯電話も持っていなかったという。競技に打ち込み、この3年間で大きく花開いた。「ゼロに抑えるために頭を使って、やれることはすべてやり尽くして投げました。スピードは速くないので、力では抑えられません。タイムやキャッチャーを呼ぶタイミング、味方が守りやすいリズムの作り方なんかを工夫しました。バッターの目を見て、何か分かったかのようにうなずく動作までして、心理戦も仕掛けました」

1年生の秋から主力となり、3年生だった13年のインターハイで初優勝。継投策で臨んだこの大会は先発投手の本庄が中心となり、マウンドを降りるときには、次の投手に「審判のストライクゾーンが狭い」「このバッターはインコースが強い」といった情報を伝え、一丸となって戦い抜いた。

その後に出た日韓交流戦が、世界に目を向き始めるきっかけになった。「得意のチェンジアップに韓国の選手が面白いぐらい引っかかってくれて、ほめられました。交流戦で仲よくなった選手と韓国語で話したいという目標も持ちました」

夢でお告げ、オーストラリアへ飛んだ

文武両道にひかれて立命館に入学。1回生の秋には関西学生リーグで最優秀投手に。「1回生だから研究されてなくて、先輩たちの上手な守備にも助けられました」。韓国語の習得にも取り組み、充実したキャンパスライフを送っていた。しかし、2回生で暗転する。「首の寝違えから始まって、そのうち左腕が上がらなくなりました。エースの責任感もあって、状態が悪くても休み休み投げ続けました。亜脱臼じゃないかとも言われましたけど、原因はいまも分かりません」

立命館大でもエースとして戦ったが、原因不明のけがに悩まされた(写真は本人提供)

パフォーマンスが落ちたまま迎えた3回生の秋、周りが就職活動を始めた。本庄は進路に迷っていた。そんなある日の夜、不思議な夢を見た。高校時代にお世話になったボディービルダーの男性が急に夢に現れ、こう告げたという。「お前、アメリカのチームにスカウトされてるぞ」。目が覚めたとき、お告げのあったチーム名をネットで調べたが、アメリカにそのチームはなかった。でも、オーストラリアにある同じ名称のチームの情報がネット上に出てきて、心が激しく揺さぶられた。「起きてから10分後には父親に電話して『私、海外でプレーする』って言ってました」

それまで、海外でプレーしようと思ったことはなかった。「本当に直感でしかなかったけど、親と話し合って海外挑戦を仲介してくれるエージェントも見つけました。SNSでオーストラリアに行く考えを発信したら、社会人の男子選手にオーストラリア代表の選手も紹介された縁もあり、プレーするチームを見つけました」

4回生の引退まで投げ続け、大学を休学。17年の秋、オーストラリアへ飛んだ。「ソフトの選手は大学卒業後は実業団に入るか、クラブチームで遊びでやるか、やめるかしかない。野球にはノンプロからプロという道があるように、選手として新しい選択肢を作りたかった」

海外留学の奨学金の資格は持っていたが、手続きの関係で支給が半年ほど遅れた。活動資金を得るため、「スポンサー」「アスリート」でネット検索し、アスリートとスポンサー企業をつなぐ支援サイト「FIND-FC」にたどり着いた。そこを足がかりに、スポンサーの輪を広げていった。SNSやブログでスポンサーに関する情報を発信。いまでは約20団体がスポンサーについてくれている。

「日本のソフトボール界を本気で変えたいという、私の志に共感してくれる人を集めなければいけないと思ってました。スポンサーの方々と話をすると、実績や影響力より、人としての可能性に興味を持ってくれる。いわば先行投資ですよね。何かに熱中している人に、人は集まってくるんだと思います」

アメリカで目立ってインパクト残す

最初に所属したのはクイーンズランド州ブリスベンのクラブチームだった。留学前はTOEICが110点しか取れないほど、英語ができなかった。ただ、大学で身につけた韓国語を駆使して、オーストラリア在住の韓国人から友だちの輪を広げ、英語力を磨いていった。プレー面ではオーストラリアと日本の価値観の違いを肌で感じた。「オーストラリアは実業団やプロがないので、本当に好きな子じゃないとプレーしない。私のチェンジアップを空振りしたら大爆笑して『あなたのチェンジアップは最高!』と言ってくれる。フレンドリーで、ソフトボールは楽しむものだと原点回帰しました」

豪州の仲間たちにソフトボールの楽しさを改めて教えてもらった(右下が本庄、写真は本人提供)

けがに悩まされた左肩は、オーストラリアで出会った理学療法士に診てもらい、肩甲骨の使い方を工夫すると、痛みがなくなった。選手としてもレベルアップのきっかけをつかんだ。「オーストラリアの選手はフィジカルが強くて腕が長い。いいところにいったと思った球が打たれました。自分の球はスピードこそないんですけど、回転数は多い。コースは気にせずに、強気で勝負しました」。リーグ戦の優勝に貢献し、Uー23のクイーンズランド州代表にも選ばれた。オーストラリアでプレーしたことで、本場アメリカへのあこがれが強くなった。「英語の土台もできたし、海外でもソフトボールができるってことを広めるには、アメリカで目立ってインパクトを残すのが一番だと思うようになりました」

昨年の春、日本に戻って復学し、秋に立命館を卒業した。男子のチームに入って練習をしながら「フリーアスリート」として走り回っている。ピッチング教室、ファンクラブ運営、英語講師、PR記事執筆、企業向けの講演会など、従来の選手の枠を超えた多彩な活動を展開している。アスリート向けに、スポンサー獲得のコツを伝授するオンラインサロンも始めた。アメリカ挑戦の資金はクラウドファンディングで50万円以上を集めた。「働き方改革でフリーランスが増えているのに、フリーのアスリートが増えないのはおかしい。自分が新しい生き方を見せたいです」

生涯現役、10年以内に奨学金制度つくりたい

3月中に日本を発つ。アメリカではシカゴなど各地のプロチームのトライアウトを受けて回るが、出たとこ勝負だ。「チームのサイトの問い合わせフォームで送っても返信がなかったから、直談判するしかないです。プロになれる可能性は10%あったらいい方。でも、アメリカの大型バッターからチェンジアップで空振りを取りたいんです」

ソフトボールは20年東京オリンピックで3大会ぶりに復活する。本庄の代表入りは厳しいが、あきらめたわけではない。「アメリカで目立てば、ライバルの情報を全部持ってるという点が買われるかもしれない。ギリギリまで分からないし、選手じゃなくてもスタジアムDJもある。オリンピックにはいろんな目指し方があります」

アメリカ挑戦が成功するかどうかは分からない。でも、本庄は「生涯現役」を掲げ、これからも活動を続けていく。「ソフトボールはちょうどいいマイナースポーツです。みんな存在は知ってて、体育の授業でボールに触れたことがある人も多い。お金にならないと言われたこともあるけど、私が主催した教室に100人規模の方が参加したこともあります。ソフトボール普及のアンバサダーとして活動したい。ボールを投げて、チェンジアップで沸かせる。結局はソフトボールが好きなんです」

東京オリンピックへの思いも胸に、米国で挑戦する(撮影・広部憲太郎)

10年以内にアスリート向けの奨学金制度をつくるのが、本庄の大きな夢だ。「海外でプレーしたいけど、お金がなくて挑戦できない人がいる。でも、それはアピールができてなくて、応援してくれる人のところにたどり着けてないだけなんです。若い選手が挑戦しやすい環境を整えたい。あきらめなければ夢はかないます」。激動の4years.を駆け抜けた小さなピッチャーは、はるか先を見すえる。