「笑わない男」が関東学院大時代に残した悔い、そして収穫 パナソニック稲垣啓太
昨年のラグビーワールドカップで日本代表は初めてベスト8に進出し、日本中を沸かせた。自身2度目の晴れ舞台で日本の躍進を支えたのが、PR(プロップ)の稲垣啓太(29、パナソニックワイルドナイツ)だ。大会後に「笑わない男」として一気に有名になった。彼の新潟工業高校時代の話はたびたび話題になるが、関東学院大時代のことはあまり語られていない。稲垣の大学時代に迫った。
新潟工業高校時代は130kgあった
新潟市出身の稲垣はもともと、野球少年だった。中3のとき、新潟工業高でラグビーを始めた兄につられるようにして、ラグビー人生が始まった。体が周りの中学生よりも一回り以上大きかったこともあり、家の近くに住んでいた新潟工業のコーチに勧められたことも大きかった。本人曰く「中学1年でいまの体型(身長186cm、体重116kg)とあまり変わらなかった」そうだ。
高校時代、体重はいまより重くて130kg近くあり、県内では敵なし、という状況だった。ただ、力任せのプレーに走るところがあり、新潟工業の樋口猛監督に「そういうプレーをしてたら先には進めない」と言われ続けた。「高校からは基本的なひたむきなプレーを目指しました。基礎がないと応用がない。高校生活で学んだことが僕の地盤を作ってくれてます」。稲垣はこう振り返った。
花園には2年生、3年生と出た。当時は1番、3番の両方でプレーしていた。2年生のときは1回戦負け、3年生では2回戦で、のちに日本代表でチームメイトとなるFB松島幸太朗(現サントリーサンゴリアス)を擁する桐蔭学園(神奈川)に大敗した。花園は稲垣にとって「自分のモチベーション、自分の能力を一段階上げてくれる場所だった」という。
高校日本代表に選ばれ、高校の終わりには飛び級でU-20日本代表候補にも選ばれた。当然のように複数の大学から勧誘されて、関東のとある強豪をスポーツ推薦で受験したが、まさかの不合格……。「なぜか、僕だけ落ちるという奇跡が起きたんです」。稲垣は苦笑いで振り返る。
大学進学の危機にも声をかけてくれた春口監督
そんなときに声をかけてくれたのが、関東学院大の春口廣監督だった。春口監督はたびたび新潟を訪れて指導しており、新潟工業の樋口監督とは日体大の先輩、後輩の間柄だった。稲垣は高1のころから誘い受けては断っていたが、最終的には春口監督に拾ってもらう形で関東学院大に進んだ。
この体格で機動力もある稲垣なら、ナンバーエイトやロックに転向、もしくは3番の右PRに、という話があってもおかしくない。しかし、稲垣は「僕はあまり途中で変えるのが好きじゃなかったですし、人に言われて変えたくなかった」。1番(左PR)をやりたい、と言い、それを春口監督も認めていた。高校、大学、パナソニックでも少し3番のポジションでプレーした時期もあったが、大学時代から一貫して1番を背負い続けている。
主将として直面した31年ぶりの2部降格
稲垣に大学時代の思い出を聞くと、やはり4年生だった2012年秋の関東大学リーグ戦で、チームを1部から2部に落としてしまったこと真っ先にを挙げた。3年生のときは早稲田に勝って大学選手権のベスト4に入ったが、最後のシーズンはリーグ戦全敗で最下位の8位となり、入れ替え戦で立正大に17-40で負け、31年ぶりの2部降格となってしまった。
「なんとか1部残留という結果だけは残したかったんですけど……。僕がもう少しまとめられたらよかったけど、できなかった。2部というものを贈られた後輩たちはどう思っているのかと考えると、後悔しました」
リーグ戦では調子が上がらず、中央大戦に12-50で負けた直後、ひときわ大きな稲垣が涙を流していた姿を、私はいまでもよく覚えている。ストレスから肺炎にもなり、次節の東海大戦には出ることもできなかった。「春の早稲田との定期戦は0-95で負けました。そこから、やはり、戻らなかったですね。チームを2部に落としてしまったことは後悔していますが、いまとなってはいい経験だった」と、稲垣はしみじみと語った。
人の意見を聞き、人を動かせるようになった
どのあたりがいい経験になったのか尋ねると、「人をよく見るようになりました」と即答し、こう続けた。「ラグビーは15人でやるスポーツですが、結局、個人の能力の集まりじゃないですか。自分が成長することによって、チームにいい影響を与えると思ってます。キャプテンになる前はどちらかというと、自分ありきの考えでしたが、キャプテンになって、それだけではいけないと思うようになりました」
春口監督から「寮の食事を変えたいと言ってるけど、どのくらいお金がかかるのか分かってるか」と言われて、100人分の食事を作って「寮のありがたみ」を知ったという出来事もあった。キャプテンを経験して生活の中で、周りを見ることでそれぞれの選手の状況を把握した。「人の意見を採り入れるようになりましたし、人を動かすことができるようになっていきました」と話す。
人の話を聞く、コミュニケーションを取る。周りを見ることはラグビーにも生きたという。「ラグビーでも『お前は、あの選手を見て!』という連携がうまくいくようになっていきました。コミュニケーションを取って、視野を広く見るようにすると、口で説明するのは難しいですが、いろんな予測ができるようになってくるんです」
源頼朝の墓前で春口監督は言った
稲垣は春口監督について「いろんな経験をさせてくれた恩師です」と話す。春口監督はある日、まだ話すのが苦手だった稲垣を自分の講演会に連れていった。そして「トイレに行ってくる」と言って、稲垣を何百人もいるお客さんの前で話させる機会を作った。3年生のときには、朝練習を終えて歩いている稲垣を車に乗せ、鎌倉にある源頼朝のお墓へお参りに行った。そこで監督は「ここは俺の原点だ。また関東学院を強くしたい。稲垣、一緒に頑張ろう」と言ったそうだ。
稲垣のラグビー人生において高校時代が基本の大事さを学んだ場とすれば、大学時代は15人でプレーするラグビーには欠かせないコミュニケーション能力や、現在にも大きく生きているリーダーシップを身につけた時期だったようだ。
高校、大学の7年間で大きく成長した稲垣はパナソニックに入ると、すぐにレギュラーになった。1年目にトップリーグの新人賞とベスト15をダブル受賞。2年目からはプロ契約選手となった。さらに、トップリーグでは昨シーズンまで6シーズン連続でベスト15に輝いているが、これは稲垣だけが達成している快挙だ。ワールドカップも2度出場し、スーパーラグビーでもレベルズ、サンウルブズで世界と戦ってきた。すっかり、日本ラグビーを代表する選手の一人となった。
自国開催のワールドカップまで1年を切った2018年秋、日本代表の欧州遠征後に稲垣はこう言っている。「能力的にも身体的にもメンタル的にもいい感じで仕上がってきたと思います。パスの精度、走り込むタイミング、ボールの出し方、スクラムでもたくさんありますが、どの選手もどれだけ細かいところまで突き詰めていけるかがカギになってくる。ワールドカップは勝たなければ何も始まらないので、勝利にこだわった試合に徹したいですね。選手としてはいい結果を残すために取り組んできたので、ベスト8にいくという結果をしっかり残したい」。いま思えば非常に冷静にチームを分析しており、まさしく有言実行だった。
「やめるときは、あっさりやめます」
かつて稲垣にラグビー選手としての目標を聞いたことがある。「夢というものではないですけど、自分が満足してしまったら引退します。やめるときは、あっさりとやめます。自分のプレーが完成しちゃった、満足しちゃったとなったらもう無理かなと思います」。彼はこう返した。
ワールドカップが終わると、テレビや雑誌、新聞など多くのメディアに一気に露出が増えた。それでも稲垣はトップリーグが始まると、変わらず、インターナショナルレベルのプレーを見せていた。きっと、まだ自分のプレーに満足はしていない。「笑わない男」の細い目は、2023年のフランスワールドカップを見すえている。