ビーチバレー

特集:いざ、東京オリンピック・パラリンピック

溝江明香 産業能率大時代に知った世界の壁、「学ぶ時間」も生かして五輪へ

溝江(右)は産業能率大時代からいまも、オリンピックへの挑戦を続けている(撮影・JVA BEACH)

目前に迫っていた東京オリンピックに向けて、ビーチバレーボール日本代表強化選手の一人として代表権獲得を目指していた溝江明香(さやか、29、トヨタ自動車)。今年7月に30歳を迎える溝江は産業能率大学2年生のとき、国内ツアー最年少優勝記録をたたき出した。当時19歳。記録はいまだ破られていない。あれから10年が経ち、オリンピックへの挑戦も今回で3度目となる。10代、20代にトップで戦い続けてきた溝江が大学時代を振り返り、いまの心境を語った。

大学生でいきなり日本一、初めて世界の壁にぶち当たった

溝江がビーチバレーを始めたのは、東京都立駒場高の3年生だったとき。夏のバレーインターハイ予選敗退後、ビーチバレーの高校女子選手権「マドンナカップ」に出場。そこで優勝した溝江は2009年、大学界で初めてビーチバレーボールコートを創設して強化部を立ち上げた産業能率大の一期生として入学した。2年生を迎えるころ、当時トップランカーとして君臨していた日本代表の田中姿子とペアを組み、国内ツアーで初優勝に輝いた。

「想像していたよりもはるかに目標の達成が早かったですね。始めて1年3カ月しか経っていなかったので。まさか大学生のときに日本一になるとは思っていませんでした。当時は優勝した実感はあまりなかったのですが、『これからは日本代表として戦っていかなければ……』という自覚を初めてもちました」

溝江は同10年に開催されたアジア競技大会(広州)の代表に選出された。その翌11年には国内ツアーにおいてMVPを獲得。身長175cmという体の強さとパワーを生かした破壊力のある攻撃はトップクラス。溝江は日本をリードする存在となり、初のオリンピック予選も経験した。日本一から世界へ。超大学級の逸材はトントン拍子で成長の階段を上ってきた。しかし、オリンピック出場を目指しワールドツアーを転戦し始めると、初めて世界の壁にぶち当たった。

「日本では一番になれましたが、ワールドツアーではそんなに簡単に勝つことができませんでした。いま思えば、若かった。優勝した後のツアーでも調子が安定しなかったし、そこには当然焦りもあって、日本代表なのに勝てなくて申し訳ないという気持ちがありました……」

1年の半分は海外、大学の授業や課題はリモートで

ビーチバレーはシーズン中、5大陸の世界各国でワールドツアーが開催される。その結果による獲得ポイントがオリンピックや世界選手権の出場に大きく関わってくる。選手たちは世界を転戦するため、1年の半分ほどは海外だ。それでも溝江は、競技に没頭しながら大学生の本業も両立。当時ではめずらしい「リモートスタディ」で単位を取得していった。

「(リモートスタディは)いまでは当たり前ですが、当時、学内では前例がなかったので、遠隔で単位をとるなんて最先端でしたね(笑)。私は情報マネジメント学部でスポーツマネジメントを専攻していたので、経済学やスポーツの運営やお金の動きなどを勉強していました。特別に課題を出され、遠征中の合間にレポートを書いて先生にメールで提出していました。いま思い出してみても大変な生活でした」

産業能率大時代、溝江(左)は15歳年上の田中姿子とペアを組んでいた(撮影・ビーチバレースタイル)

ペア競技だから、勝敗は二人の責任

そんな溝江のそばにいつもいたのは、15歳離れたパートナーの田中だった。かつてバレー日本代表でもあり、国内トップVリーグでも活躍した後、ビーチバレーに転向。06年のアジア競技大会(ドーハ)で銀メダルという実績を持つベテランだ。一回り以上年齢が離れていれば、競技経験も社会経験も雲泥の差。海外遠征や会場での準備など右も左も分からない溝江は、どこへ行くにも田中の後を追いかけていたという。

「高校まではチームメートも戦う相手も、同級生か離れていても2歳違い。初めて身近にいる『大人』が姿子さんでした。それまで代表クラスの方とお話する機会もなかったので、トップで戦ってきた方の考え方、競技に対する向き合い方を学べました。自分がいかに世間を知らないか分かったし、社会での振る舞いなども教えてもらいました」

いきなり大人の仲間入り。田中とはオリンピック出場を目指して3シーズン、ペアを組んだ。国際大会では思うような結果が出ない中、パートナーと日々向き合ってきた時間は溝江にとっても田中にとっても、決して楽な時間ではなかっただろう。しかしその経験こそ、“ペア競技”を極めていくための核心に迫るものだった。

ビーチバレーのペアは、目標一致を優先して結成される。よって同レベルまたは同世代でペアを組む場合が多い。最初は共通項を共有することでうまく回るが、結果に伴って「個」と「個」の考え方が枝分かれしていく。そこがおいおい、解散の引き金になるため、「個」のコンセンサスを合わせていくことが勝負の命運を握る。

「個」のコンセンサスを合わせる。ペア競技の難しさを、溝江(右)は身をもって知らされた(撮影・JVA BEACH)

溝江は初期段階で、生きてきた時間も競技環境も明らかに異なる「個」とペアを組むことになった。異なることは目に見えていた。それでも目標を達成するためには「個」同士が一つのチームとして紡ぎ合っていかなければいけないことを、身をもって経験した。

「ビーチバレーボールは二人しかいないので、自分の行動が直接返ってきます。パートナーに言いたいことを言っても、相手のことを尊重して思いやらないと前に進んでいかない。仮にパートナーが狙われミスをして試合で負けても、一人の責任ではない。二人そろっての負けなんです。当時、何もできない私に対して、姿子さんは私がしゃべりやすい状況や対等な立場で力を発揮できる環境を作ってくれました」

感情をコントロールし、パートナーの姿勢にも学び

大学4年生だった12年にはロンドンオリンピック予選を経験。卒業後、溝江は社会人選手として活動し、16年のリオデジャネイロオリンピック予選にも挑んだ。しかし、2大会ともにアジア予選で敗退。オリンピックという目標の舞台に手が届いたことは一度もない。だからこそ、自国開催の東京オリンピックにかける思いは強い。溝江は本来、20年5月に開催予定だった東京オリンピック代表決定戦を目前にして、3シーズン組んできた橋本涼加(トヨタ自動車)とペアを解消。かつてリオデジャネイロオリンピック予選をともに戦った西堀健実(トヨタ自動車)とペアを復活させた。

溝江は現在、西堀健実とともに東京オリンピックを目指している(撮影・JVA BEACH)

「メリット、デメリットをよく考えた結果、決断しました。前のチームでは自分がチームを引っ張る立場になって伝えることの難しさを知ったし、責任を感じてパートナーに求めすぎてしまったという反省が残りました。自分自身、感情のコントロールが課題。大舞台で戦うことを考えると、西堀選手の経験や動じないメンタルはやっぱり大きいと思いました」

西堀/溝江組は、復活の初戦となった今年2月のワールドツアー2-starシェムリアップ大会でベスト8だった。しかし、その翌週のアジア選手権では4位と結果を残した。

「初戦はブランクのボロが出て、試合途中に攻撃のリズムが合わなくなってしまった。でも、アジア選手権ではすぐに修正できました。いい部分を残しつつ、なおかつ過去のイメージにとらわれずに新しいことができるように。そこに注意しながらコミュニケーションをとっています」

自分で意欲をもって学んだ知識は競技力につながる

新型コロナウイルスの影響で東京オリンピックの延期が決まったことは、「準備時間ができたので有利だ」と感じている。コロナ禍での自粛生活で大学時代の経験をベースに紆余曲折(うよきょくせつ)を味わってきた溝江は、活動再開のときを静かに待つ。

「大学時代に競技に打ち込みながらも、『学ぶ習慣』が身についたことは財産です。最近栄養学を学んで、スポーツフードマイスターとアスリート栄養食インストラクターの資格を取得しました。いまは睡眠についての本も読んでいます。『学ぶ』という作業は自分で時間を作って+αを生み出すもの。大学生のときはまったく気づきませんでした(笑)」

競技ができないいまだからこそ、夢に向けてできることもある(撮影・ビーチバレースタイル)

だからこそ、大学生アスリートには「学ぶ時間」を大切にかみしめてほしいと語る。

「いま、オンライン授業を行っていると思いますが、どんな状況でも学べる環境があるのは幸せだと思います。自分で意欲をもって学んで知識を得るのは、競技力の向上にもつながります。知識があれば選択肢の幅も増え、選択する能力も高まる。競技を突き詰めていく上でも必要な要素。大学では競技に打ち込みながら学べる環境があるので、最大限に生かすことが大切だと思います」

学ぶ習慣は、競技力と人生の肥やしとなる。自らそうやって歩んできた溝江は、力強く語った。

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