きっと道はつながる ラグビーの「鉄人」大野均が教えてくれたこと
惜しみない運動量で日本ラグビー界を支えてきた大野均さん(42)が現役を引退した。ラグビーでは無名の福島の大学で競技を始めた。だ円球に触れたのは遅かったが、愚直に取り組んだことでその後の人生を切り開いた。様々なスポーツ大会が中止や延期となる困難な状況の中、「鉄人」の真っすぐな生き様は、故郷で教科書のように語られている。
日本大学工学部からだ円球を追う
福島県郡山市出身の大野さんは、県立清陵情報高では選抜大会にも出た野球部に所属したが、レギュラーではなかった。地元の日本大学工学部に進むと、ラグビー部の先輩から192cmの長身に目をつけられ、熱心に勧誘されたという。しかし、東北地区大学リーグに所属するチームは、2部も経験するなど決して強豪とはいえなかった。
毎年、ラグビーの東日本都道府県対抗大会が開かれ、福島県も社会人や大学生で選抜チームを組み予選に挑んでいた。2000年春、新チームの練習が始まった。当初、日大工学部から選ばれていたのは、バックスの2選手だけ。FWコーチ兼選手で県立磐城農業高教諭の高木邦夫さん(54)は、最初に集まった選手ではサイズ的に小さく、格上の他県と戦うのは不安だった。
「ぎこい」選手、追加で呼ばれる
高木さんは何度か練習試合をした日大工学部に上背のある選手がいたのを覚えていた。選抜チームにいた日大工学部生に「大きな彼をちょっと呼んできて」と声かけた。2人はあまりいい顔をせず、「あいつ『ぎこい』ですよ」と言った。「『ぎこい』って?」と聞き返すと、「動きがぎこちないんです」ということだった。チーム内であまり評価は高くなかったが、とりあえず、選抜チームに加えることにした。やって来たのが4年生になる大野さんだった。
素直に学ぶ姿勢、火の玉タックル
大野さんは走力があり、日大工学部ではウイングもやっていたが、選抜チームではFWを中心で支えるロックとして鍛えた。高木さんは「変な癖がついていなかった。スクラムの組み方などを教えると、真面目に言われるようにやっていた。素直さを感じた」と当時を振り返る。
福島県選抜は、結局、都道府県大会の予選を突破できなかった。大敗した宮城との試合だったと高木さんは記憶している。福島のキックオフだった。蹴られたボールを相手の選手がキャッチした瞬間、猛ダッシュした大野さんが、その選手へ火の出るようなタックルを浴びせた。大野さん本人も長く覚えていたという会心の一撃は、日本代表の屋台骨を背負うプレーの片鱗だった。
縁をつないだ1本の電話
縁とは不思議だ。現役を引退した元日本代表の薫田真広さん(53)が、当時、福島の高校の大型選手を東芝府中(現・東芝ブレーブルーパス)に誘おうとしていた。これは実を結ばなかったが、高校の大会の運営をしていた高木さんと先輩教諭でたまたま、その話題になった。高木さんは薫田さんと筑波大学ラグビー部の同期だった。ふと、長身の大野さんが頭に浮かび、その場から薫田さんへ電話をかけた。
才能を開花させた地道な練習
「(東芝に)採用になることは予想してなくて。ラグビー後進県からいきなりトップのチームに行って、試合に出られただけでもすごいのに。その先(の日本代表)まではさすがに……」と高木さんは、今でも信じられない。1本の電話をきっかけに東芝の練習に体験参加することになった大野さんは、入部が認められた。そして、のちの薫田監督が「親に見せられない」と呼んだ激しい練習に地道に取り組み、才能が開花。日本代表では歴代最多の98キャップ(代表戦出場数)を積み上げ、「スポーツ史上最大の番狂わせ」と言われた15年の南アフリカ戦勝利などワールドカップには3回出場した。
福島への恩返し
名を上げても大野さんは故郷への恩を忘れなかった。11年、東日本大震災の直後、福島県内から東京・味の素スタジアムへ避難してきた人を訪ねたときは、「お互い福島弁で話している中で、逆に力をもらった気がします」と振り返っている。時間があれば、福島でラグビークリニックなどを開いた。福島県ラグビー協会では「大野選手が来ることで、県内のラグビーが盛り上がれば」と日本協会などに頼み、16年からトップリーグなどで東芝の試合を県内で開いてきた。大野さんはグラウンドに立ち、その期待に応えた。
「自分の可能性を信じなさい」
現在、県立平工業高教諭の高木さんが監督を務める同高ラグビー部は、新型コロナウイルス感染拡大の影響で活動を自粛中だ。8人の新入部員はまだ、まともに練習をしたことがない。全国高校大会出場を目指し、例年、2回行っている夏合宿も、夏休み期間が短くなり、できるかどうか見通せない。高木さんは「生徒にモチベーションを持たせることがすごく大変」と感じている。学校は分散登校で再開された。「今、1年生の授業では大野選手の話もします。こういう人もいるんだよ、自分の可能性を信じなさいと。ラグビーを知っている学生だけではないので、どれだけ伝わっているかは、分からないですけど」。6月8日からは、部活動を再開できる予定という。
全力の姿勢がいろんな縁を呼び込む
高木さんは県立磐城高時代、全国高校ラグビー大会に出場した。同高に通った3年間はすべて代表になったが、花園に出場したのは2年生のとき。3年生になると受験のため、大会前に退部した。「やめたにも関わらず、大学受験には失敗したんです。でも、浪人したおかげで、(筑波大で)薫田と同じ代になったので、それはそれで結果的によかった」と笑い話にできる。
不器用だがいつも全力で取り組んできた大野さんの姿勢が、いろんな縁を呼び込み、「鉄人」と呼ばれるまでになった。