愛工大名電高で難病と、明治大でイップスと向き合った 元巨人育成・柴田章吾(上)
国指定の難病・べーチェット病を背負いながら甲子園出場を果たし、明治大を経てプロ野球・巨人に育成で入団した柴田章吾さん(31)。その高校時代はこれまでたびたび紹介されてきたが、大学時代もまた激動の日々だった。現在は会社経営者として活躍する柴田さんに明治大での4years.を振り返ってもらった。前編は、難病を克服して大学に入り活躍、そしてイップスになってしまうまでです。
絶望の淵から這い上がり「聖地」のマウンドへ
小学6年で全国制覇を経験した柴田さんは、子供の頃から名が知られた左腕投手だった。中学時代も活躍を重ね、20校近い強豪高校から声がかかった。ところが3年夏、突然激しい腹痛が天才野球少年を襲う。その後も高熱が出るなど、症状が悪化。検査の結果、厚生労働省指定の難病「ベーチェット病」であることが判明する。入院生活を余儀なくされた柴田さんは、激しい運動を控えるよう、医師から通達された。もう野球ができないかもしれない……それでも諦めなかった。
高校はイチローの母校としても知られる愛知工業大学名電高へ。2005年春のセンバツ優勝に導いた倉野光生監督の理解のもと、他の選手とは別のメニューで少しずつ練習量を増やしていった。無理がたたって再発したこともあったが、病と向き合い、2年春には公式戦で登板。3年夏はついに夢だった甲子園のマウンドに立った。
プロを目指せる環境でやりたかった
柴田さんは元々高校で野球をやめるつもりだった。「病気を考慮しながらの練習内容では、上でやるのは難しいかなと」。ところが3年になり、倉野監督と進路の話をしていた時、こう聞かれた。「大学や社会人でやるつもりはないのか?」。その頃は病状も落ち着き、想像もつかない程練習ができるようになっていた。「もう少し続けられるかな」。柴田さんの中にもそんな気持ちが芽生えていた。
浮かんだのは大学だった。野球に軸足を置いていたが学業の成績も良く、評定平均は5段階中4.5であった。「行くのであれば、プロを目指せるレベルの高いところへ」という柴田さんの希望に対し、倉野監督は明治大を勧めた。「当時は東京六大学の名門の1つということくらいしか知らなかった」が、叔父が明治大卒という縁も感じ、AO入試で受験。文学部文学科に合格し、「御大」こと島岡吉郎元監督が礎を築いた明治大野球部の門をくぐった。
即戦力と評価され、1年春からベンチ入り
合宿所である島岡寮での生活は快適だった。
「高校時代は2段ベッドの50人部屋で生活していたんですが、大学は2人部屋でしたからね。プライベート空間があるのが嬉しかったですね。上下関係も高校のそれとは違った」
高校入学時と違ったのは体調だ。「大学に入る前の頃から、再発をあまり気にしなくてもいい状態になっていまして。最初から思い切り練習することができたんです」
もともと中学時代から注目されていた逸材である。普通に練習ができるとなれば、すぐに善波達也監督(当時)の目に留まった。サウスポーにしてストレートの最速は145㎞。スライダーのキレも良かった。善波監督は即戦力と判断し、春のリーグ戦のメンバーに抜擢する。1年生で春からベンチ入りした投手は2人だけ。もう1人は広陵高出身で前年夏の甲子園準優勝投手・野村祐輔(現・広島)だった。同期・野村とのエピソードについては後に触れたい。
開幕カードで神宮デビュー、優勝も経験
「神宮デビュー」は早くも開幕カードで訪れた。柴田さんは東大2回戦で5番手としてマウンドに上がる。その後も全て救援で登板し、計3回2/3イニングを無失点に。少ない投球回ではあったが、きっちり役割を果たし、いきなりリーグ優勝も味わった。順調な滑り出しに幸運が重なったのもあり、初めての東京六大学リーグの舞台は輝いて映ったという。
「こんなに盛り上がっているとは思っていなかったので、『いいところに来たな』と感じましたね。優勝パレードでは学生なのにこんなに祝福してもらえるんだと驚きました」
最高の形で大学での第一歩を踏み出した裏にはこんなこともあった。善波監督は柴田さんの病気のことは把握していたが、想像を超える闘病生活だったということを後に知った。
「善波監督は春のリーグ戦の後に(高校時代の柴田さんを追いかけた)テレビ番組を見たようで『あの番組を見ていたら、すぐには使わなかったよ(笑)』と言われたんです。僕からすれば体調も良かったので、番組を見られてなかったのはラッキーだったんですが(笑)」
土台作りから取り組むも、制球難に
一方で柴田さんはこのまま順風満帆にいくとは思っていなかった。「高校時代に本格的な練習も走り込みもしていなかったので、そのツケがいつか回ってくるのではという不安がありました」。不安は杞憂に終わることなく、的中してしまう。腰を痛め、ヘルニアになってしまったのだ。1年秋はリーグ戦に登板できなかった。
「大学入学後も病気の不安があれば、高校の時にできなかった土台作りから始めていたでしょう。それがそうでなかったので、土台が盤石でないところに上積みをしてしまった。故障をしたのはその結果で、土台から崩れてしまったのだと思います」
柴田さんは故障を機に、土台作りに専念する。体幹トレーニングとウェートに力を入れたことで、ヘルニアも治癒した。ところが2年生になると、今度は技術に問題が生じることに。コントロールである。ストレートに切れはあっても、制球に難があるのが浮き彫りになった。2年春は1試合に登板したが、3イニングを投げて4三振を奪うも、被安打4、四死球2、自責2。制球難を示す数字が残った。秋はリーグ戦登板がなかった。
突然襲ったイップス、投手としての危機
悲劇が訪れたのは2年の冬だ。それは社会人チームの練習の手伝いで、打撃投手をしている時にやって来た。打者に向かって防球ネット越しに投げると、ボールはあろうことか打撃ゲージの上を通過。低く投げなければと意識した次のボールはツーバウンドになった。突然、思うように投げられなくなってしまったのだ。イップスである。
コントロール以前に、投手ができなくなる危機に直面した。ただしイップスになっても、長い距離なら腕がしっかり振れた。送球にも支障がなかったため、その後しばらくは外野手になり、オープン戦にも出場していた。それと並行して難しいと言われるイップスの克服に挑んだ。再びマウンドに立つためである。
「まずは体がスムーズに動く距離で投げる練習をひたすら繰り返しました。そうしながら少しずつ距離を縮めていったのですが、目標が近くに見えると、そこに投げなければいけないという心理が働き、体が固まってしまうのです。そこで投げる瞬間まで目標から目を離すようにしました」
同期が投手としての復活を支えてくれた
こうしてようやく短い距離でも投げられるようになったが、投手に戻るには、もう1つハードルを乗り越えなければならなかった。打者との対峙だ。試合では打者が立っている中で、目標に向かって投げなければならない。柴田さんはチームの3軍にあたる仲が良かった同期にお願いし、打席に入ってもらった。何度も体にぶつけてしまったが、同期は「当ててもいいから」と柴田さんを励まし、投手としての復活をサポートしてくれた。そのおかげもあり、3年の夏前頃にはイップスを克服。秋はリーグ戦のマウンドに返り咲き、「上」でもやれる手応えも感じた。
「協力してくれた同期には感謝しかないです。彼らは就職活動をしていたんですが、よくその話も聞かせてもらってました。『柴田は野球で就職するのになんで?』と言われてましたけど、その頃から企業や就活に興味があったのは確かです」
順調に見えたかに見える復活。しかしまたしても、イップスが再発する。