大学サッカー

連載:4years.のつづき

ポーランド2部のクラブでの「普通じゃなかった」超耐久テスト 中野遼太郎4

ドイツ6部でキャリアをスタートさせた中野さん。さらに上を目指した(写真ポーランド2部アルカ・グデイニャで、本人提供)

連載「4years.のつづき」はラトビア・FKイェルガヴァでコーチを務める中野遼太郎さん(31)です。FC東京の下部組織で活躍したのち、早稲田大学に入学しア式蹴球部に所属。卒業後は単身ドイツへと渡り、以降9年間海外でプレーしました。大学時代、そして海外への挑戦を中野さん自身の言葉で綴(つづ)っていただきます。6回連載の4回目は、ドイツ6部リーグのチームからさらに上を目指し、ポーランド2部のチームのテストを受けたときの話です。

早稲田大を卒業してドイツへ、がむしゃらに勝ち取ったプロ契約 中野遼太郎3

各国で違う「大学サッカー」の意味

大学サッカー、というのは、国によって大きく評価が異なる。
たとえば日本においては、毎年数十人が「大学サッカー」を経てプロ選手になり、その競技レベルに関しても男女問わず一定の評価が共有されている。歴史を眺めても「大学サッカー」の占めるところは大きく、その学術的な価値とは切り離されたところで、「選手の育成機関」として地位を確立している。その先で日本代表まで登り詰める選手だって、まったく珍しくない。

また、成り立ちや盛り上がりは別として、韓国やアメリカもそれぞれ「大学サッカー」の価値が広く認知されている国と言えるかもしれない。韓国は日本同様に「育成機関」としての役割を存分に担っているし、アメリカは「大卒選手」というよりはカレッジスポーツそのものの商業的価値が高い。どちらもその競技的なレベルは業界内で共有されていて、いちいち大学サッカーの性質を説明する必要はない。

大卒からプロへ、というのは日本でも当たり前のルートになっている(写真は2019年の早慶クラシコ、撮影・松永早弥香)

では、ヨーロッパではどうか?
というと、残念ながらそうではない。たとえば僕は「早稲田大学卒」という最終経歴(学歴ではなくサッカー歴として)を片手に渡欧したわけだが、それが競技的にプラスに働いたことはほとんどない。あるいは「いいですね! 是非うちで!」と興味を引いたことは一度もない。反対に僕がしなくてはいけなかったのは「日本では大学サッカーは一定の評価があって……」という説明であり、「3~4部にあたるレベルで……」という弁明であり、ときにはそれすら問われずに門前払いを受けることもあった。

では大学サッカーに価値がないのか、というのは前回まで僕が延々と書いてきたところで、つまりヨーロッパには大卒選手という「いきもの」自体が、基本的にあまり生息していない(プロ選手が大学に通う、という順序はあるけれど)ので、大学を修了するという知的専門性を放り投げて異国でプロを目指す、という行為そのものが理解されづらい。相手の顔には「なんのために大学に行ったんだ?」という素朴な疑問が浮かんでいる場合もあれば、「そんな裕福なヤツ(大学を卒業できるような育ちの人間)がなんでこんなところでテストを受けてるんだ?」という、ある種の嫌悪や警戒を連れてくることもある。南米やアフリカの10代選手がビーチサンダルと古スパイクでテストに来るまさにその隣で、大卒の日本人が綺麗なレアスニーカーから最新のスパイクに履きかえるのだから、当たり前かもしれない。

ポーランド2部のクラブで「勝ち抜き戦」に臨む

ドイツ6部、という場所で「サッカーと自分の関係性」を取り戻した僕は、次の行き先を探していた。もちろん自分の置かれた状況を分解すればするほど、家で待っているだけでオファーがくる可能性はゼロに等しい。次の行き先を望むならば、方法は「入団テスト」に絞られていた。

すると年明けに、ポーランド2部のクラブ、アルカ・グデイニャでテストが決まった。長年1部に所属していた名門(現在も1部)で、その年は2部降格した翌年だった。

と言っても、それは僕個人が精査されて与えられたチャンスではなく、経営難のクラブが「安くて力のある選手を発掘したい」という目的で行った、ほぼ経歴不問の入団テストだった。日本であれば「テスト生」のみを集めて別会場で開催しそうなものだが、彼らのやり方は「次から次へとチームの練習に混ぜる」という斬新で、非効率で、過酷なものだった。

そうして僕は「たくさんのうちの1人」としてテストに合流した。誇張ではなく、毎日のように10人ほど新しい「テスト生」が訪れて、たいての場合はその全員が翌日には帰らされた。僕たちは併設されたチーム寮に寝床を与えられたけれど、そのロビーではチェックインとチェックアウトが、部屋では荷ほどきと荷づくりが目まぐるしく、ときには同時進行で行われた。ごくごく稀な例外を除いて、テスト生には即日で「不合格」が言い渡され、お互いの名前すら覚える前に散り散りになる。

来る日も来る日も新しいテスト生が訪れて、去っていった(写真はイメージです)

僕はしがみついていた。ごくごく稀な例外、の側に。
練習が終わってスタッフから肩を「叩かれずに」寮に帰るたび、あるいは荷づくりを終えて同部屋を出て行く面々を見送るたび、ベットで一人、「今日も生き残ったんだ」という重厚な深呼吸をせずにはいられなかった。それは一見するとハードな状況に思えるけれど、その内側に「勝ち抜き戦」をやっているような高揚感と、極度の精神的疲労からくる浮遊感があったことも付け加えておく。全体的に、僕はこの経験を楽しんでいた。没頭、と言い換えてもいいかもしれない。

ただ、クラブの目的は「安くて質のある選手を見つける」ことだったので、その質が圧倒的ではないと踏まれた僕は、ずいぶん長いことテスト生の枠を出ることができなかった。毎日のように世界各国から(本当にあらゆる大陸から)荷物を抱えた選手が来て、数日のあいだ寝食を共にして、いくつかの言葉を交わし、荷物をまとめて去っていった。

こういう生活は、あまり普通ではない。東欧の冬が過酷だったこともあり、僕はいまでも雪景色のなかで排気ガスの匂いを嗅ぐ機会があると、一瞬で当時の「寮生活」の情景が思い浮かび、当時のその「普通ではない」生活が、ありありと同じ温度で胸に帰ってくる。

2カ月の「超耐久テスト」ののちに待っていた契約

2カ月が経った。
勝ち抜き戦は終わりがないように思えたし、僕自身が終わることを目的としていたのかも定かではない。とにかく毎日を必死に生きて、「よし、合格」と言われる日を待っていた。あるいは「はい、不合格」と言われないことを願っていた。お金が出ていくことはなかったし(隣のガソリンスタンドで毎晩ヨーグルトを買う以外は)、このクラブ以外と契約することは、もう時期的にも心理的にも難しかった。また、僕は段階的に「主力組」として練習に入るようになっていたので、チーム内の序列としても、「まぁ悪くない位置なんだろう」と考えていた。

そして3月になり、チームがトルコキャンプに行くことになったところで、その傾向は明らかになった。すでに契約のある選手がキャンプメンバーから落選し、僕が帯同することになったのだ。そこでようやく、何をどの角度から眺めても、僕は契約するに値する状況だという確信を得てやっと、僕は自分から「契約はどうなっていますか?」と聞きに行く決心がついた。

一度決心がついたら、歪(いびつ)な行動力が発揮されるのが僕の悪い癖だ。自分でもどういう行動論理なのか思い出せないけれど、僕はとにかく「帯同メンバー表」が貼り出されたロッカーを出たその足で、監督室もスタッフルームも通り越して、会長室のドアをたたいていた。

正式にチームの一員になった。ようやく、ようやくここまできた(写真は本人提供)

もちろん会長に現場の判断はできないので、一選手が会長室にスカウトや強化部長を突然呼び寄せる、という奇妙なミーティングの発起人になってしまい、しかも呼び寄せたところで僕に場を回す語学力はないので、3人の会話を立ち尽くして聞く、というさらに歪な光景になった。

「契約書はトルコキャンプまでに用意しておく」とウィンクをされたのは、立ち尽くし始めてから5分後くらいだった(立ち尽くし始める、という日本語が存在するのかわからないけれど)。

こうして僕と僕の契約書は、極寒のポーランドから温暖なトルコへと空輸され、その宿泊先の薄暗いロビーでサインが行われた。こうして僕の2カ月に及ぶ「超耐久テスト」は完結を迎え、23枚にわたる契約書は、その1枚1枚をサインで埋めるたびに、これまでの苦労が23等分されて報われるような感慨があった。給料も、スタジアムも、レベルも「プロ選手になれました」と臆することなく言える環境だ。疲れた、けれどやっとここまできた。これは大学時代の僕から見れば、誇れる達成だ。

手段が目的に、ゴールになってしまった

と、ここまでの文章に潜む印象そのままに、当時の僕はこのトルコでのサインで、物語をひとつ完結させてしまっている。目的はチームで活躍することで、その手段として「契約」、つまりテストに合格することが必要だったはずなのに、僕はまるまる手段を目的にしてしまい、それがゴールテープを切ったような気の緩みに変わっていた。だから当然のように、正式に「チームの一員」になった僕は、そこからまた大きな壁にぶち当たることになってしまう。少なくともスタートラインで苦労を23等分している場合ではないのだけれども、ないのだけれども……まぁ、しょうがない。

そのときに見えたことを、そのときに見えたままにしておく、というのは大切なことかもしれない。あまり賢くない失敗を何度も重ねて、人は「ちょっとはマシ」に近づいていくように思う。失敗を複雑にして難解に捉えることは、つまり32歳になった僕が「こうしておけばよかった」と思う方向へ、自分の行動を微調整して記憶し直すようなことは、極力しないほうがいい。本質的に失敗を検証できるのは自分以外にいないのだから、記憶くらいは素直にいたいと思う。こうしてポーランドでプロとしてスタート切ったのは、大学を卒業して約1年後の、23歳の春だった。

4years.のつづき