トヨタ自動車で弱点を克服し成長、つかんだ東京オリンピック代表・服部勇馬4
「4years.のつづき」は昨年9月のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で2位となり、東京オリンピック男子マラソン代表を決めた服部勇馬(26、東洋大~トヨタ自動車)です。4回連載の最終回は、マラソンへの手応えをつかみ、MGCで東京オリンピック代表の座を獲得するまでです。
プラハでスタミナ型の練習に手応え、福岡国際で開眼
2018年5月、入社3年目のプラハ・マラソンでは、2時間10分26秒の5位の成績を収めた。自己記録ではなかったが、35km以降もペースを維持し、ラスト2.195kmは6分51秒で走りきった。
「140分、150分とロングジョグを多く行った結果、最後までペースを維持できました。その経験から、僕のマラソンは8.5割から9割がジョグで決まってくると感じるようになりましたね」
断っておかないといけないのは、服部のロングジョグは、単にゆっくり走るジョグではないことだ。練習メニューの中では一番遅いスピードではあるが、最後には1km4分00秒前後までペースを上げる。大学時代は距離走を3分30秒~4分00秒ペースで行っていた。トヨタ自動車入社後は距離走を遅くても3分30秒に上げたため、ジョグとのタイム差、すなわち動きの違いが大きくなった。
その差を埋めることで、ジョグも距離走に近いリズムで行える。服部はジョグの最中にフォームをしっかり意識して行うので、マラソン本番により近い感覚でジョグを行うことができるようになった。
そして3年目の7月に、自身のマラソンをさらに突き詰めるきっかけがあった。ボルダーでの陸連合宿で、井上大仁(MHPS)や大塚祥平(九電工)らと同じ場所で練習を行った。
「井上さんたちと練習して、自分の甘さを痛感しました。月間の走行距離も、毎日のコンディションづくりも自分は怠っていた。それまでも単発で距離走はできましたが、距離走後の2~3日はあまり走らなかったんです。8月からの練習では40km走の2~3日後には(負荷の大きい)30kmの変化走もやりました。プラハの前から積極的に行うようにはしていましたが、苦痛だった時間走(ロングジョグ)もさらに多くしました」
その合宿後は、月間距離が300km以上多くなった。服部自身も驚いたという。
「気持ち次第でこんなに変わるとは」
練習段階から手応えを感じていた服部は、12月の福岡国際マラソンに2時間07分27秒で優勝する。その時点で日本歴代8位のタイムだが、福岡国際で日本選手が勝ったのは14年ぶりのことだった。35kmからの5kmを14分40秒と、35kmまでより37秒もペースを上げ、最後の2.195kmを6分35秒で走りきった。初マラソン時よりちょうど1分速い。
福岡の数日後の取材で「今回は主体的に考えて、しっかり準備をして出した結果です。熊日30kmのときと違って再現できます」と話した服部。翌19年9月のMGCに向けて何をすべきか、自信を持っていた。だからその過程で虫垂炎の手術をすることになっても(19年4月)、慌てずにトレーニングを進められた。
MGCはペースメーカーのつかない夏場のレースである。5km毎のタイムは16分02秒から14分48秒と変動が大きかったが、服部は動じなかった。最後は中村匠吾(富士通)に8秒差をつけられたが、一度リードを許した大迫傑(ナイキ)を逆転し、2位で東京オリンピック代表を決めた。ラスト2.195kmは6分22秒と、福岡国際以上のスピードでフィニッシュした。
学生時代に培われた人間力
東洋大を卒業して今年が5年目となる服部は、入社3~4年目で大きく成長してオリンピック代表の座を射止めた。トヨタ自動車のスタッフや環境が、代表入りの原動力だった。
だが実業団の環境を自身の力にできたのは、大学時代までに成長の下地ができていたからと見て間違いない。特に服部の場合は「人間力」が、卒業後に色々な要素を吸収することに役だった。
服部を取材していると、自身や陸上競技が置かれている社会的な状況を、よく理解していることが伝わってくる。
東京オリンピックのマラソンが札幌開催に変更されたとき、1980年のモスクワオリンピックを日本がボイコットした状況を引き合いに「自分たちはまだ恵まれている」と、当時の金メダル候補だった陸連の瀬古利彦マラソン強化プロジェクトリーダーに話している。
その瀬古リーダーや宗茂・猛兄弟、中山竹通、高橋尚子、野口みずきら過去の名選手たちがどのようなマラソン練習を行っていたかも、大学時代から書物を読んで把握していた。そこで得た知識があったから、自身のマラソン練習をスタミナ型に変えることを納得して進められた。
大学3年時は故障で東京マラソンに出られなくなったが、大会3週間前には記者会見を開いている。箱根駅伝2区区間賞選手として注目度が高かったからだが、その時点ですでに右アキレス腱に痛みが出ていて、出場は微妙な状況になっていた。
それでも東洋大の酒井俊幸監督は記者会見を中止にしなかった。競技者といえども社会があって初めて、自分が走れる仕組みを理解させたかった。
「勇馬とは、招待していただいている以上、ぎりぎりまで最善を尽くそうと話しました。私は会見のような社会的なイベントも、選手が育つツールになると思っています。レースに出られなくなったらつらい思いもしますが、大事な大会に出られなかったときにこそ、周りのサポートのありがたみがより身に染みますし、対応の仕方など経験になります」
トヨタ自動車に入社後には、会社の一員として走ることにどういう意味があるのか、どういう結果を残すべきかを突き詰めて考えたという。
福岡で優勝した後に次のように話した。
「学生として走ることと、社会人として走ることはまた違います。他の社員の人たちは仕事を通じて会社の問題を解決しますが、僕ら選手は陸上競技で、マラソンで結果を出すために問題をクリアしていく。この1年はMGC出場権を取るために問題解決を進めてきました」
そしてMGCで代表入りを決めた今は、東京オリンピックで結果を出すための問題解決に取り組んでいく。大学での4years.に社会人としての4years.を積み重ねた服部は、アスリート最大の舞台を前にしても、やるべきことに迷いがない。