陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

東洋大で学生トップランナーに成長、箱根駅伝2区2年連続区間賞・服部勇馬2

大学2年冬の熊日30kmで、驚異的な記録で優勝した服部(撮影・朝日新聞社)

「4years.のつづき」は昨年9月のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で2位となり、東京オリンピック男子マラソン代表を決めた服部勇馬(26、東洋大~トヨタ自動車)です。4回連載の2回目は、東洋大2年生の時に熊日30kmで優勝し、学生選手として充実期に入ったことについてです。

東洋大で1年から駅伝デビュー、東京オリンピックに目標を定める・服部勇馬1

大学2年・熊日30kmで驚異的な学生新

誰もがど肝を抜かれたのが、2014年2月の熊日30kmだ。2年生の服部が、1時間28分52秒(日本歴代2位タイ)の驚異的なタイムで優勝したのである。学生記録は前年に設楽啓太(現日立物流)がマークした1時間29分55秒で、1分03秒も短縮した。

通過タイムは10kmが29分15秒、20kmが58分52秒だった。先頭集団は5人。中村匠吾(駒澤大3年、現富士通)、高久龍(東洋大3年、現ヤクルト)ら、現在マラソンで活躍する選手が含まれていた。21kmで服部が前に出ると、中村だけが食い下がったが、25km過ぎに引き離した。

学生駅伝で最も距離が長いのが箱根駅伝の20km強。学生はハーフマラソンに出ても、30kmはそれほど出場しない。出場するとしても、マラソンを意識した上級生が多い。当時の服部は2年生で、まだ学生長距離界のエースとは言えなかっただけに本当に驚かされた。

服部も自身の走りに驚いていた。

「啓太さんの学生記録は意識していましたが、1時間28分台はまったく考えていなかったですね。1年の時の全日本大学駅伝は、1km3分ペースでも走り切れませんでしたから。5000mとも10000mとも、箱根駅伝の20kmとも違いました」

この年の箱根駅伝では設楽兄弟の活躍が目立った。3区で「1」のポーズを取る設楽悠太(代表撮影)

このレースを機に1km3分00秒ペースは、完全に壁ではなくなった。2学年先輩の設楽兄弟に対しても、「追い越したい」と考えられるようになり、設楽兄弟と同じ10000mの27分台も目指し始めた。めったに選手を褒めない酒井俊幸監督からもねぎらいの言葉をもらった。

30kmが走れたらマラソンも、と安易には考えなかったが、3年時の初マラソン挑戦を考える大きなきっかけにはなった。服部の競技生活において間違いなくターニングポイントとなった大会だが、今は「(熊日30kmの走りの感覚を)再現ができなくて、その後のマラソンでは苦しむことになりました」と振り返る。その点については後述したい。

大学3~4年・2年連続箱根駅伝2区区間賞

大学3・4年時の服部は、学生選手として充実期に入った。チームの最大目標である箱根駅伝は、エース区間の2区で2年連続区間賞を獲得した。

箱根駅伝では2年時でも2区を任され、1時間08分43秒の区間3位。例年ほど追い風がなく、区間賞の高田康暉(早稲田大4年、現住友電工)は1時間08分13秒だった。だが会心の走りではなく、酒井監督は「箱根にピークを合わせられず、熊日30kmに合った」と、微妙に厳しい評価をしている。

その年の箱根駅伝は東洋大が優勝している。服部も順位を2位に上げて役目をまっとうしたが、3区の設楽悠が区間賞でトップに立ち、前年の2区から5区に回った設楽啓も区間賞で往路優勝を果たした。復路も7・8・10区で区間賞を取る復路新記録で、設楽兄弟を中心としたチーム力が高かった。

優勝を決め、アンカーの大津顕杜を胴上げする選手たち(代表撮影)

トップにも立てなかったし区間賞も取れなかったが、服部に2区を任せられたから、設楽兄弟や7区の弟・服部弾馬(1年、現トーエネック)、8区の高久らが得意とする区間を走ることができた。貢献度が大きかったのは確かだが、服部としては満足できなかった。

それに対して3年時は1時間07分32秒で区間賞。4位で受けた襷(たすき)をトップで3区に渡すことに成功した。終盤の上り坂でトラックが得意の村山謙太(駒澤大4年、現旭化成)と、ロードを得意とする一色恭志(青山学院大2年、現GMOアスリーツ)を振り切った走りには強さが感じられた。

3年時の2区、駒澤大の村山謙太を力強い走りで抜き去る(代表撮影)

ただ、チームはトップを維持できず、3位に終わっている。設楽兄弟が卒業し、主要区間を担うべき高久も起用できなかった。

4年時は1時間07分04秒と区間歴代5位までタイムを上げ、2年連続2区区間賞を成し遂げた。日本人では95~96年の渡辺康幸(早稲田大、現住友電工監督)以来20年ぶりの快挙だった。

服部はその2シーズンで「1年で一度、ピークを合わせられる自信を得た」という。

「全身全霊をかけないと箱根の2区は走れません。夏にしっかりボリュームのある練習ができれば、そのスタミナが半年くらいもつイメージを持てていました。出雲はまだ夏の疲労が抜けていませんが、そこで試合勘を取り戻します。全日本ではさらに試合勘を研ぎ澄まします。そこから1カ月もう一度しっかり練習をして、最後の1カ月で疲労も抜いて箱根にピークを合わせます」

ピークが合ったときの服部は「レース中にもう1人の自分が指示を出してくる走り」ができた。「サッカーに例えると、ピッチ全体が上から俯瞰した盤面のように見えて、スペースがどこにあるのかわかることがあります。箱根駅伝の2区はもう1人の自分がレース全体を見渡して、こう走っていけばいいぞ、とレースの局面ごとに指示をしてくれる。一種のゾーンに入っているのかもしれませんが、もう1人の自分と対話しながら最善の選択をして走っている感じでした」

このピークの合わせ方は、18年の福岡国際マラソン、19年のMGCと、結果が求められるときにマラソン用にアレンジして活用できている。

全日本大学駅伝でも3年時は2区で、4年時は1区で区間賞を取った。トラックでも4年時に5000mは13分36秒76、10000mは28分09秒02までタイムを縮め、充実した2シーズンを送った。

2年時の全日本大学駅伝、駒澤大の西山をかわす服部(撮影・朝日新聞社)

だが初マラソンとして走るつもりだった大学3年時の東京マラソンは故障の影響で欠場し、4年時の東京マラソンも30kmを過ぎて日本人トップに立つシーンはあったが、終盤で失速して2時間11分46秒で12位(日本人4位)に終わった。同じ学生の下田裕太(青山学院大2年、現GMOインターネットグループ)と一色の後塵も拝した。

学生長距離界を代表するランナーには成長したが、マラソンに対しては課題を残して東洋大での4years.を終えた。そしてトヨタ自動車に入社してオリンピック代表に成長する過程では、学生時代の全てを肯定できたわけではなかった。

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4years.のつづき

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