大学陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

マラソンに取り組み、苦しんだ先に見えた飛躍へのヒント・服部勇馬3

昨年9月のMGCで東京オリンピック出場を決め、会見に臨む服部(撮影・佐伯航平)

「4years.のつづき」は昨年9月のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で2位となり、東京オリンピック男子マラソン代表を決めた服部勇馬(26、東洋大~トヨタ自動車)です。4回連載の3回目は、初マラソンでの失敗、そして実業団に入り2シーズン苦しんだことについてです。

東洋大で学生トップランナーに成長、箱根駅伝2区2年連続区間賞・服部勇馬2

スタート地点に立てなかった二度のマラソン

服部にとって大学4年時2月の東京マラソンが初マラソンになったが、本当はその前に二度、マラソンに出場するつもりでいた。3年時の東京(2月)と、4年時の福岡国際(12月)である。東洋大・酒井俊幸監督の考えで2020年ではなく、16年のリオデジャネイロオリンピックを本気で目指していたからだ。本気度が大きいほど、仮に失敗しても4年後のオリンピック選考に向けて参考材料を多く得られる。

3年時は箱根駅伝後にマラソン練習も進めたが、右脚アキレス腱の痛みが出て欠場した。それを治すのに2カ月半くらい要したものの、トラックでは5000m、10000mともに7月に自己ベストを更新した。だが4年時のトレーニング・スケジュールは詰め込む傾向が生じてしまい、夏にも再度故障をしたため、福岡国際出場は断念した。

大学4年時の初マラソン出場も、決して遅いわけではない。むしろ在学中にマラソンを走るのは早い部類に入る。大迫傑(ナイキ)、設楽悠太(ホンダ)、そして高岡寿成(カネボウ、現監督)と、最近のマラソン日本記録保持者3人は、在学中にマラソンには出なかった。

初マラソンは疲労が抜けきらず失速

16年2月の東京マラソンはリオデジャネイロオリンピック代表選考会だったが、先頭集団で走った村山謙太(旭化成)を除く日本人たちは牽制し合う展開で走った。中間点通過は1時間04分43秒と、先頭集団から1分50秒も差を付けられていた。ただ、経験の少ない学生選手たちにとっては好都合だったかもしれない。

30km過ぎ、今井正人(右)らと競り合って走る服部(代表撮影)

30kmを過ぎてその集団から抜け出したのが服部だった。35kmまでを14分54秒とペースアップし、日本人2位の下田裕太(青山学院大2年、現GMOインターネットグループ)や本命と思われた今井正人(トヨタ自動車九州)らに25秒差をつけた。

服部は30km地点を強く意識していた。国内マラソンでもペースメーカーが公認されるようになって以降、30kmからレースが動く展開が多くなっていたからだ。ただ、その主役は大半がアフリカ選手。それを服部は、「マラソンを走るなら自分がそれをやってやろう」と考えていたのだ。30km通過は1時間33分21秒。熊日30kmより4分以上遅いことが、服部に余裕を持たせた。

しかし37km付近から大きくペースダウンし、40km過ぎに高宮祐樹(ヤクルト)に抜かれると、下田にも先行され、フィニッシュ前では一色恭志(青山学院大3年、現GMOインターネットグループ)にも競り負けた。

下田裕太は初マラソンにして日本人2位。服部は青学勢2人に先行された(撮影・朝日新聞社)

「練習不足というより、疲労が抜けきっていませんでした」

学生駅伝に対しては自身の体調を見極め、ピークを合わせる調整ができたが、マラソンではそれができなかった。酒井監督の立てる練習メニューをこなすことはできたが、それを自分のものとして消化することができていなかったのだ。

学生時代のマラソン練習の仕方を「子どもでしたね」と、18年の福岡国際マラソン優勝後の取材で服部は言い切っていた。

「大学の延長」で失敗、苦しんだ卒業後の2シーズン

服部は16年4月にトヨタ自動車に入社。ニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝)も最長区間の4区を区間5位(チームは2位)としっかり走りながら、2月の東京マラソンに再びチャレンジした。

だが、2時間09分46秒とサブテンは達成したが、1年前と同じように38kmから失速した。最後の2.195kmは前年の7分35秒から7分38秒に。フィニッシュタイムが2分良くなったのは、集団のペースが中間点で約1分速かったからで、服部は自身の成長を感じられなかった。

2年目はさらに苦しむことになる。夏に右足のかかとを疲労骨折し、3カ月ほど練習に支障が出た。ニューイヤー駅伝のメンバーには入れず、マラソンのスタートラインにも立てなかった。

「箱根駅伝はどうすれば走れるか、何度もやって経験的に把握できていました。それがマラソンになるとできない。熊日30kmの再現ができれば、とも考えました。しかしあの30kmは狙って走れたわけではなく、やってみたら走れた記録で、自分の中に再現性がなかったのです」

なかなか成功しなかった要因の1つに、学生時代のやり方の延長でマラソンにアプローチしていたことが挙げられる。

学生時代はスピード重視で取り組んだ。しかしマラソンには別のアプローチが必要だった(撮影・朝日新聞社)

「質(スピード)を重視して、スタミナに欠けている点に気づかなかったんです」

駅伝を含め20kmのレースは1km2分50秒台前半のスピードが当たり前で、熊日30kmでも2分58秒平均で走れた。マラソンも行き着くところはそれに近いスピードだから、その延長でと考えて練習した。17年からマラソンに取り組み始めた大迫と設楽悠も、その方向性でやっていると服部は感じていた。

だがその2人と服部は、タイプが違った。スタミナをつける練習が必要だったのだ。入社2年目の夏に故障をした際、自分を見つめ直し、その点に徐々に気づいていった。

「悠太さんと大迫さんの走りも、レースでしか見ていません。40km走をしないということは聞いていましたが、どんな練習をされているかは想像の域を出ないのに、決めつけていた。自分にとって本当に大事な部分を見ていませんでした」

東洋大時代の経験も役だった。

「大学1年のときは高校でやったことを大学に置き換えるだけで、そのままやっていた感じでした。全日本大学駅伝では窪田(忍・トヨタ自動車、当時駒澤大3年)さんに抜かれ、箱根駅伝9区も区間3位と、納得のいく走りができませんでした。もっとレベルを上げるにはどうすればいいかを考えて、学生ランナーとしての土台を作り直したことが2年時の成長につながったんです。それで実業団でも、学生時代のやり方にとらわれていてはダメかもしれないと考えられたのでしょう」

壁にぶつかったときにどうすればいいかを、東洋大時代から経験できた。それに加えて後述するように、書物から知識を得るなどして人としての幅が広がったことが、卒業後の飛躍の礎(いしずえ)となった。

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