フィギュアスケート

連載:4years.のつづき

戦国時代の日本男子、勝ち取ったオリンピック代表 フィギュアスケート・町田樹4

ソチオリンピックに出場し、男子フリーで「火の鳥」を舞う町田樹さん(撮影・朝日新聞社)

連載「4years.のつづき」から、関西大学卒業、早稲田大学大学院修了、博士号を取得した町田樹さん(30)です。2014年ソチオリンピック男子フィギュアスケート5位に入賞し、トップ選手として活躍しました。研究者の道へ進み、今年10月からは國學院大學の助教に就任します。全6回にわたる連載の第4回は、ソチオリンピックのシーズンを振り返ります。

覚悟の渡米、優勝からの転落「成功から学べることはない」フィギュアスケート・町田樹3

復学、再び日本を拠点に

失意の全日本選手権から年が明け、リンクには頭を丸めた町田さんの姿があった。春には大学に復学した。拠点を米国から日本に戻し、スケーティングの基礎を重んじる大西勝敬コーチに指導をお願いした。

アメリカで競技に集中した2年間はたくさんの収穫があったが、一方でつらい生活でもあった。心機一転、再び環境を大きく変えることは、町田さんにとって「博打(ばくち)」でもあった。

なぜ、最も大事なオリンピックシーズンに学業との両立を選んだのか。その答えははっきりしていた。

「ソチオリンピックを終えたらもう自分は24歳。競技者としてピークを迎え、競技寿命がそう長くはないと思ったとき、自分はその先、何をするのだろうと。卒業を間近に控え、いよいよセカンドキャリアを考え始めなければならない状況になりました。けれども、様々な方々と相談する中で、学問の道に進むことを決意したことでむしろ、自分の未来への不安が消えて、競技に集中できるようになったのです」

ソチオリンピックシーズン、拠点を日本に戻した町田樹さんには確固たる思いがあった。(撮影・時津剛)

「町田樹」を再構築する

再出発の取り組みは10年間築き上げた技術や体感覚を全部壊し、「町田樹」というスケーターを土台から再構築することだった。大西コーチの下、スケートをゼロから見直した。

コンパルソリーという氷上に図形を正確に描く基礎練習から始まった。「コンパルソリーは言ってみれば、ただ氷上に図形を描き続けるだけの単純で地味な作業です。でも、その単純な作業が意外と難しい。自分の身体の筋肉や骨格をミリ単位でコントロールする力が求められる。自分の身体をどのポジションにもっていけば図形を描けるのか。骨盤をどのような角度で維持したらよいか。この動きの時には筋肉と関節の関係はどうあるのか。このような問いを自らに投げかけながら、ひたすら自己の身体と対話し続けました」

そうしたトレーニングを経ることで、いつしか自らの身体と動きを的確に客観視できるようになった。「この境地に至ると、ジャンプなどの技を繰り出す際にも、瞬時に主観と客観の両観点で自分の身体運動を分析しコントロールすることができたので、成功確率が飛躍的に増しました」

得点源となる4回転ジャンプの精度も格段に向上し、ジャンプで大きなミスをすることは、ほとんどなくなった。

「町田樹史上、最高傑作」で勝負をかける

勝負のシーズンに選んだショートプログラム(SP)の題材はスタインベックの小説「エデンの東」。原作にある「ティムシェル(汝〈なんじ〉は彼を治むること能〈あた〉ふ)」という言葉を「自分の運命は自分で切り拓く」と解釈した。この頃から自身のアーティスティックな側面を助言する制作陣にも恵まれた。振り付けは元バレエダンサーのフィリップ・ミルズさんが手がけ、「町田樹史上、最高傑作」と自称する作品に仕上がった。

フリーはロシア人作曲家ストラビンスキーのバレエ曲「火の鳥」。町田さんの表現に対するほとばしる情熱を体現したプログラムで、同じくミルズさんが振り付けした。自身もプログラムの制作に積極的に関わり、この2つの作品を完成させるという使命感が、競技での成功にもつながっていた。

「町田樹史上、最高傑作」と評した「エデンの東」の演技(撮影・朝日新聞社)

戦国時代の日本男子、ひるんだら負ける

プログラムが完成し、可能な限りの努力はし尽くした。ソチオリンピック代表の日本の枠は3つ。有力候補は羽生結弦、高橋大輔、織田信成、小塚崇彦、無良崇人。全員がGPシリーズ優勝経験を持つ実力者で、まさに「やるかやられるか」の戦国時代だった。

その中で町田さんは6番手。「たくさんのライバルがいて、彼らをなぎ倒してでも前進しなければ目標にたどりつかない。一瞬でもひるんだらそこで負ける。僕は崖っぷちで一歩でも下がれば、そこは死なのだという覚悟でしたね」

町田さんはGPシリーズ2連勝、GPファイナル4位と順調に駒を進めた。そして代表選考会を兼ねた運命の全日本選手権。そこに昔のような「勝てない」町田樹はもういなかった。SPもフリーも全てのジャンプを成功させ2位。初めてのオリンピック代表と世界選手権代表の座を勝ち取った。

オリンピックの悔しさが生んだ世界選手権の銀

2014年2月、ロシアのソチで第22回冬季オリンピックが開催された。町田さんは団体と個人に出場した。個人のSPは、冒頭に組み込まれた4回転―3回転のコンビネーションジャンプの後半が2回転になり、最後の3回転ルッツも2回転になる痛恨のミス。11位と大幅に出遅れたが、3位とはわずか3.50差でメダルは射程距離に入っていた。翌日に行われたフリーは1本目の4回転トーループで転倒するも、その後はほぼノーミスで滑り、フリー4位、総合5位に順位を上げた。メダルまではわずか1.68点だった。

「一世一代の大舞台。悔しいミスもあり、決して成功と言える舞台ではありませんでした。ですが、その悔しさがあったからこそ、そこで果たせなかった演技を必ず世界選手権で実現してみせるという新たな目標が生まれました」。その決意通り、オリンピック直後にさいたまスーパーアリーナで行われた世界選手権で初出場ながら見事に銀メダルを獲得した。

2014年世界選手権で銀メダルを獲得した町田樹さん。右は金メダルの羽生結弦(撮影・朝日新聞社)

来シーズンこそ一番輝くメダルを――。多くのファンがそう願っていた。しかし、予想だにしない展開が待っていた。

総合芸術の理想を求め、創作に捧げた早稲田大大学院時代 フィギュアスケート・町田樹5
【写真特集】元フィギュアスケーター町田樹さんインタビュー

4years.のつづき

in Additionあわせて読みたい