ラトビアで得点王とMVPに 「ターニングポイント」なんてなかった 中野遼太郎5
連載「4years.のつづき」はラトビア・FKイェルガヴァでコーチを務める中野遼太郎さん(32)です。FC東京の下部組織で活躍したのち、早稲田大学に入学しア式蹴球部に所属。卒業後は単身ドイツへと渡り、以降9年間海外でプレーしました。大学時代、そして海外への挑戦を中野さん自身の言葉で綴(つづ)っていただきます。6回連載の5回目は、海外に出て3年目、ラトビアに降り立ちそこでキャリアを積んだことについてです。
最悪だったラトビアの第一印象
ラトビアというヨーロッパの小国でプレーを始めたのは、前述してきたようなドイツとポーランドでの様々な経験のあと、24歳の時だった。
僕が「ヨーロッパでプレーする」と大言壮語を吐いて日本を飛び立った時、その言葉の意図する「ヨーロッパ」とは、正直に言ってもうすこし西側の、いわゆるサッカー大国が押し並ぶ地域のことを指していた。だから、2年間の紆余曲折の果てに初めてラトビアに降り立った時の、「とんでもないところに来てしまった」という衝撃(あるいは絶望)は、いまでも忘れることができない。
凍てつく外気は「寒い」と表現するだけでは生易しく、人々の顔つきも、街のインフラも、なにもかもがずっしりと重たい。僕は空港からさらに4時間バスに揺られ、決して栄えているとはいえない(首都以外に栄えている場所などないのだけれども)東の国境付近の街に降り立ったので、その印象は瞬時に、そして確定的に僕のなかに住み着いた。
道中の景色と天候、降り立った街を流れる雰囲気、そして巡り合う人の応対、そういうものの組み合わせから、どうしてもポジティブな要素を(正直に言ってなにひとつ)見つけることはできなかった。それはいざチームでプレーし始めてからも大きく見直されることはなく、最初の数週は「一刻もはやくこの国から出る」ということしか考えていなかった。
そう。僕は「一刻もはやくこの国から出る」と固く心に決めていたはずだった。
しかし現在、僕はこのラトビアという国に住んで6年目を迎えている。今年からコーチとして生計を立て始めたので、7年目や8年目も十分に射程圏内だ。家族も連れてきたし、車もある。今考えているのはお掃除ロボットを買うかどうかで、これはおそらく「出て行こうとしている人」ではなく「居座ろうとしている人」が抱える種類の悩みと言えるはずだ。「一刻も早く出て行く」と決意した僕に、なにが起こったのか。
「ターニングポイント」なんてない
「決定的なこと」はなにも起こらなかった。
おそらくだけれども、人生には(32歳で人生を主語にするのは気が引けるが)、ターニングポイントはあるようでない。ポイント、という言葉から想起されるのは「点」だけれど、変化は常に線状にゆるやかであり、「劇的な転換点」というのは、過去を振り返る用事があるときに、話の効果上、あるいは便宜上、ここにしておこうと「設定」されるだけだ。
ターニング(turning)だって、明確な意志というよりは、事務的で物理的な「逆らいようのない」理由が多く、独力でターンを起こすことも、そのターンを日常として継続させることも、実はとても難しい。ターニングなんてない、とも言えるし、ターニングしかしていない、とも言えるかもしれない。ともかく僕の場合は、そういう変化の線に自分が適応していく(あるいはその線に自分が受容されていく)長期的な過程にこそ、ほんとうの転換が潜んでいた。「変わりたい」という起点があるのではなく、「戻れない」という終点がある、というほうが芯を捉えているかもしれない。もちろん、戻りたいという意味ではなくて。
つまり、ラトビアに6年もいることに関して僕が伝えられるのは、「第一印象でなにかを判断するべきではない」という、箸にも棒にも、そしてもちろん誰の心の琴線にも引っかからないであろう、ありふれた教訓だけだ。
2度の出戻りもありつつ、ラトビアで6年
もちろん僕も、全くなにも考えずにこの国に何年もいたわけではない。
最初にラトビアにきた理由は「オファーがあった」という偶然の理由だけれど、その先で何年もラトビアに留まることには、それなりの戦略的な意図があった。しかし、それも期間限定的な計画で、僕はどちらかといえば常に「出ていくチャンス」を伺っていたし、実際に2017年と2019年には他国のクラブへと移籍している(しかしそのたび律儀にラトビアに「出戻り」した)。
つまり「ここにずっといる!」という明確な意志など持たないまま、しかし目の前に二択があれば、ほとんどの場合でラトビアを選ぶ、というような形で6年を過ごすことになった。点ではなく線状の意思決定だ。今ではもちろん、これ以上ないほどの愛着があるのだけれども。
予想外のストライカー抜擢と得点王獲得
競技的な達成に関していえば、ラトビアでは本当に多くのことを味わった。たとえば2013年には2部リーグでMVPと得点王を獲得したし、2014、2015年は連続で残留争いを経験した。2016年には1部のリーグベストイレブンに選ばれたし、2018年は3回も肉離れを起こして棒に振った。どれも素晴らしい経験だったけれど、その一つ一つをこの場を借りて描写しても仕方がないので、ひとつだけ抽出して紹介したいと思う。
初めの年で、僕はラトビア2部の得点王になった。
このシーズン、僕は監督の独創的なアイデア(褒めてはない)のおかげで、開幕戦からストライカーに抜擢されることになった。本格的にサッカーを始めるようになってから、ずっと「ボランチ」と言われる守備的MFを生業としていたので、鈍足で、中背で、ストライカーの適性のようなものは身体のどこをどう切り取っても出てこない僕にとって、この抜擢は意気揚々と歓迎できるものではなかった。
とはいえ、やるしかない。それこそ「逆らいようの無い理由」の1つとして、僕のターニングを彩ってくれるかもしれない。なにより今の自分の状況では「得点」という目に見える結果が必要だ。
僕は開幕戦でのゴールを皮切りに、26試合で、26ゴールを決めた。
ラトビア2部の得点王にどれほどの客観的価値があるのかは知らないけれど、そういうことはどうでも良かった。自分のプレーを変化させる、期待に応える、それを数字として残す、という作業は、僕に肉体的にも精神的にも居場所を与えてくれた。得点王はやりすぎだけれども。
今振り返ると、おそらく一番の変化は「エゴ」との付き合い方だった。
それまでの守備的MFというポジションも手伝って、僕自身は最前線で活躍するよりも裏方としてチームを機能させることに喜びを感じるような「縁の下の美学」を持っていた。そしてそれはキャリアを通して大切な考え方に変わりなかったのだけれど、少なくともこのシーズン、この状況においては、「僕が活躍するためにプレーする」という意識を持つことが必要だった。その意識「のみ」を持つことを求められていたと言っても過言ではない。
僕のような背景の人間がそのように強烈なエゴを、心のなかに継続的に、適切な形で持ち合わせるには、「ストライカーに抜擢される」という、グラウンドの距離で言えば15m程度の、物理的なポジション移動が必要だった。「ストライカーはそういう思考が許されるポジションだよね」というステレオタイプな印象が、ある種の許可証のような役割を担ったのだと思う。心構えより先に位置の移動があって、それに呼応する形で求められるエゴみたいなものを獲得していった。集団のなかで「わがままでい続ける」ことは、簡単じゃない。開幕から結果が出たのは幸運だった。
そういうわけで、大学時代から数字的な結果において粛々と打ち負かされてきた僕にとっては、これは久々の競技的な達成だった。チームは優勝し、1部に昇格し、僕は得点王とMVPを受賞した。言うことはなにもない。
しかしひとつだけ残念なことを挙げるとすれば、この変更を機に僕のストライカーとしての才能が爆発する、とはならなかったことだ。僕は翌年の1部昇格と同時に「守備的MF」にポジションを戻されて(しかも同じ監督の指示で)、以降は「得点王」という肩書きとは程遠い質のミドルシュートを連発し、やがて安寧の地「縁の下」に帰っていくことになる。もし僕があのままストライカーとして踏ん張り続けていたら、もしかしたら、もしかしたら……いや、なにも起こらなかっただろう(笑)。