遅咲きのセッター、それでも数少ない大卒日本代表選手として 日立・佐藤美弥(下)
女子バレーボール日本代表で日立リヴァーレに所属する佐藤美弥(30)が苦しくても目標に向かって頑張りきれる理由。その源は、セッターとして厳しい練習に耐え抜きながら「もっとうまくなりたい」と願い、必死でボールに触ろうと跳び続けた、嘉悦大学での4年間にあった。そんな佐藤の嘉悦大学時代を2回に亘(わた)って紹介する。
元セッターの監督からの返球を毎日必死で追い
味方のレシーブボールをアタッカーにつなぐ。何百回、何千回も繰り返してきたセッターとして当たり前の動作だ。しかしそれがこれほど難しかったのか。大学2年生になったばかりのころ、そんな現実を突きつけられた。監督が投げるボールをトスにする。基本中の基本であるこの練習が、とにかく毎日地獄のようだった。
あと数cm。届きそうで届かない、絶妙なところに返ってくるボールに触ろうと、何度も何度も全力でジャンプをする。当時、嘉悦大を率いた米山一朋・元監督は現役時代、セッターとして活躍した人だ。勝つためにはセッターがどんなプレーをすべきか、なおかつどの場所に返球されるのが一番取りづらいかも熟知している。
日々、練習ではその絶妙な高さにボールが投げられ、トスを上げるよう命じられるが、一生懸命跳んでも手が届かず、投げられたボールがそのまま相手コートに入る度、心の中で米山監督に「意地悪!」と叫ぶ。でもできるまで終わらないし、何よりできなければこれまで築き上げてきた嘉悦バレーが展開できず、アタッカーを生かせないことは分かりきっている。
自分だけではなく、そう思っていたのは周りの選手たちも同じだった。「『今のボール、マコさん(前年度の4年生セッター)だったら届くのに』という声が耳に入ってくるんです。悪気がないのは分かっているし、冗談半分なんですよ。でも自分が一番そう思っているから、冗談でもそう言われるのが悔しい。どんなトスを上げたいとか、どうやって組み立てたいなんて考える余裕はありません。とにかく毎日必死でした」
大学へ入るころは「卒業してからの進路に生かしたい」と経営経済学科を選択し、簿記の資格を取ろうと考えていた。しかし入学してからは「想像以上にバレー漬けの生活だった」と振り返るように、朝から晩まで体育館とキャンパスと寮の往復で、勉強に勤(いそ)しむ余裕はない。それでも、日々の食事は献立を立てるマネージャーが中心となり、選手がそれぞれ当番制で手伝い、他愛ない話をして笑い合う。集団生活で育む仲間との日々を振り返れば、練習は確かに厳しく苦しいことばかりではあったが、高校時代よりも確実に視野も経験も広がった大学時代は充実した日々でもあった。
インカレの悔しさも、今につながっている
だからこそ余計に残る悔いもある。正セッターとしてトスを上げた3年生の全日本インカレ。目指した優勝どころかセンターコートにも届かず、ベスト8で敗れた。1学年上の4年生はたった一人。ここまで引っ張ってくれた先輩のために、何としても勝って送り出したい。そんな気持ちばかりが空回りし、何もできないまま不完全燃焼の敗退。その責任を、佐藤は一身に背負っていた。
「大学に入ってからはとくに、勝てばスパイカーのおかげ、負けたらセッターの責任、と思うようになったんです。それまでも、自分のせいで負けたと思う試合はありました。でも(大学)3年生でのインカレは、その中でも一番、自分が何もできずチームを負けさせてしまった試合。あんな終わり方をさせてしまったことが先輩に対して本当に申し訳なくて、次の日は泣きながら練習をしたんです。勝って喜んだ試合よりも、負けて悔しかった試合の方が忘れられないですね」
大学最後のインカレでは3位と好成績を残す。しかし佐藤自身は直前にけがをしてしまい、満足に試合へ出ることすらできなかった。振り返ればいくつもの楽しい思い出が蘇るが、思い返すと浮かぶのは悔しかったことや泣いていた日のことばかり。「ずっとヘタクソだったけれど、大学時代の基礎があるから、今にもつながる。それは間違いないです」
日本代表の試合でも、佐藤が右手1本、ワンハンドでトスを上げると会場は沸き起こる。「両手で届かないから必死なだけ」と笑うが、華麗で丁寧なボールさばきのベースは、厳しくて苦しかった大学4年間で培った財産でもある。
正セッターとして戦ったワールドカップ
卒業後にVリーグの日立リヴァーレへ進み、レギュラーセッターとして2015-16シーズンにはチーム最高成績となる準優勝。個人としても、ベストセッターや日本代表候補にも選出されるなど華々しい戦績を収めているのだが、佐藤の自己評価は違う。
「リオ(リオデジャネイロオリンピック)の時も直前の最終合宿で外されたし、Vリーグで準優勝した時も『今年は絶対勝てる』と自信があったのに、優勝できなかった。いつも悔しい、で終わっているんです。でもまさか自分がここまでバレーを続けるなんて思っていなかったし、きっと周りもここまでできるなんて思わなかった。まして今、こうしてオリンピックを目指せる場所にいるなんて考えもしませんでした」
17年に女子バレー日本代表監督に就任した中田久美監督も、現役時代はセッターとして数々の伝説と、華々しい戦績を残した。その中田監督が東京オリンピックに向け、期待を寄せるのが佐藤でもある。昨秋、日本代表の正セッターとして初めてフル出場を果たしたワールドカップは5位に終わり、「振り返ることができないぐらい苦しかった」と佐藤は言う。しかしその経験の一つひとつが、セッターとして間違いなく、かけがえのない武器にもなるはずだ。
「私が頑張ることが誰かの力になってくれたら」
これからどうなるか。まだ先は見えない。1年という決して短くない時間を過ごせるか、不安も葛藤もある。だが、負けるわけにはいかない。
「今はより厳しい状況になったという危機感しかないです。続けたからといってオリンピックに出られるか分からない。そういうプレッシャーが嫌だったけど、でも最近になって、そのプレッシャーこそが自分のエネルギーだったんだ、と。才能の人ではない自分が、唯一誇れるのは続けてきたということ。今までこれだけいい経験をさせてもらっているので、支えてくれた人に恩返しをしたいし、女子で大卒の日本代表選手はほとんどいないので、私が頑張ることが誰かの力になってくれたら嬉しいし、自分の自信にもしたいです」
決して器用ではない、遅咲きのセッター。届かなかったボールも必死で跳び続けたら届く日が来たように、描く夢を叶える日がいつかきっとくる。そう信じている。