秋田国体3位で競技続行、嘉悦大でセッターの責任を知らされた 日立・佐藤美弥(上)
新型コロナウイルスの影響で来るべきシーズン到来にも関わらず、試合どころか練習すらスタートできない。限りがあるのが学生スポーツ。「なぜ今なんだろう」と思っている学生も多いだろう。だがそれは決して、大学生の君だけではない。女子バレーボール日本代表で日立リヴァーレに所属する佐藤美弥(30)にとっても同じだ。
選手生活の集大成として臨もうとしていた東京オリンピックの延期が決定。「これからまた1年頑張ろう、と思えないほどショックだったし、周りの選手たちが前向きな発言をする中でも、なかなか前を向くことすらできない自分が嫌だった」と振り返るように、数えきれないほどの「なぜ」と葛藤しながらも、今できることに取り組んでいる。
今年3月に30歳になった佐藤が、苦しくても目標に向かって頑張りきれる理由。その源は、セッターとして厳しい練習に耐え抜きながら「もっとうまくなりたい」と願い、必死でボールに触ろうと跳び続けた、嘉悦大学での4年間にあった。そんな佐藤の大学時代を2回に亘(わた)って紹介する。
怒られる度に泣き、バレーで生きていこうとは考えなかった
秋田県秋田市出身。小学4年生からバレーを始めるも、当時は本人いわく「ぽっちゃり体形」で運動神経も決して良かったわけではない。持久走も徒競走も後ろから数えた方が早かったし、もともと人よりも前に立とうとする目立ちたがり屋ではなく、典型的な人見知りの引っ込み思案。バレーは好きだったが、怒られる度に怖くて泣く気弱な性格で、バレーで生きていこうとなど考えず、真面目に勉強もする、いわばごく普通の小学生だった。
変化が生じたのは中学生のころだ。1年間で身長が10cm伸び、急激な成長に追いつかず貧血や腰痛に当時から悩まされ、病院では「バレーボールをするのは悪くないけれど、終わりを決めてやった方がいい」とまで言われた。投薬治療や栄養指導を受けながら練習で体を鍛えながらも、中学でバレーを終えても仕方ない。そう思っていた佐藤の運命を変えたのは、2007年の秋田国体。もしも自身が高校3年生で迎えるその年に地元の秋田で国体が開催されなかったら、おそらくそのままバレーはやめていただろう、と佐藤は言う。
「中学まで頑張ろう」が高校まで延び、「国体まで頑張ろう」と思いながら厳しい練習に耐え、最後の秋田国体で全国3位。「とにかく楽しくて仕方なかった」という国体での活躍やセッターとしての将来を見込まれ、卒業後は東京の嘉悦大への進学が決まった。
「地元の短大に行けばいいと思っていたし、両親も本当は秋田から出したくなかったんだと思います。でも、セッターとしてもっと経験を積めば選手としてもっと大成できる、と説得されて、じゃあやってみようか、と。大学に入るまではずっと、自分の意志で『こうしたい』と思って進むのではなく、周りの人たちに引っ張られてきたんです。だから関東の大学に行く、と決めてもそれがどれぐらいのレベルなのかも分からない。思い知らされたのは、大学に入ってからでした」
大学で思い知らされたセッターの責任
高校時代の仲間には、後にロンドンオリンピックへ出場し銅メダル獲得の一躍を担った江畑幸子(現・PFUブルーキャッツ)という、「上げれば決めてくれる」大エースがいた。トスの組み立てよりも、丁寧に打ちやすいトスを上げることが第一だったが、大学は違う。とくに嘉悦大は誰か一人が打つのではなく、様々なポジションから全員が攻撃する展開を軸とするため、当然ながらその起点となるセッターの役割も責任も大きい。
高い位置でボールに触り、レフト、ライト、ミドル、と攻撃陣を自在に操る。当時の4年生が見せるプレーの一つひとつが刺激的で、「もっとうまくなりたい」と練習するも、同じ高さでボールを取ることもできない。高校時代までと異なり、やらされるのではなく自主性を重んじてくれる環境は楽しかった。しかし何をすればいいかと考えれば考えるほど、思い浮かぶのはやらなければいけないことばかり。泣きそうな顔で自主練習を繰り返す佐藤を見かね、4年生の先輩セッターが練習にも付き合ってくれたが、どれだけ教えられても同じようにはできない。
「もう、悔しいし情けないし。当時からピンチサーバーとして試合に出ることはあっても、セッターとしては全然戦力外でした。強い先輩たちのおかげで、いい思いをさせてもらうことはありましたが、常に、できない自分が嫌で、悔しさばかりでした」
嘉悦大は4年制の大学と2年制の短大があり、女子バレーボール部はその両方が入り交じって練習し、試合に臨む。ほとんど試合に出られなかった1年生時代を終え、2年生になったらもっとうまくなりたい。うまくなるんだ。佐藤はそう決意した。
嘉悦大で迎えた2年目の春。数々のタイトルを残した4年生のセッターが抜け、控えにいた短大2年生のセッターも同時期に卒業した。気付けばセッターは自分一人。本当に苦しかったのはここからだった。