アメフト

日大フェニックスQB林大希 あらゆる経験を力に変えて、俺は必ず甲子園に戻る

ラストシーズンは19番。「日大の10番は託されてつけるもの」との思いがある(近影はすべて撮影・北川直樹)

甲子園に戻ってみせる。日本大学アメリカンフットボール部「フェニックス」の林大希(たいき、4年、大正)は、それだけを考えて過ごしてきた。3年前の甲子園ボウルで、1年生ながらエースQB(クオーターバック)としてチームを27年ぶりの学生日本一へ導いた。そのあとに待っていた試練。人生の恩師との別れ、新たな師との出会い。さまざまな経験をした21歳と向き合った。

ラストイヤーに懸ける、と過酷な走り込み

走り込みによって顔もシャープになった

林が日大に入ってから何度も取材してきたが、今回久々に会った瞬間、これまでになく顔が小さくなったと感じた。明らかに全身が絞れていた。いま身長174cm、体重78kg。腹筋が初めて割れた。今年に入って個人的に取り組んだハードワークの成果だ。早起きして20kmほど走ったあと、何十本とダッシュを繰り返した。ときには体に重りをつけて走った。

新型コロナウイルスの感染拡大による自粛期間は、アメフト部の寮のそばにある坂道を走った。神社につながる道だから、仲間内で「神道(しんどう)」と呼んでいる。林が「神道ダッシュ」をしていると、数人の選手が一緒に走るようになった。中にはあまりの過酷さに泣き出す選手もいたという。林は言う。「この一年に全部懸けようと思って。運動能力を上げようと思って根本をたどると、走るしかない。それが僕の原点にあるんで、めちゃくちゃ走りました」。自分でやると決めたら、やる。やり抜く。これだけは貫いてきた。

3年生のときは「下のリーグで日大の10番はつけられない」と1番をつけた(撮影・北川直樹)

転校を余儀なくされた高校時代

下がっては上がる。ジェットコースターのような人生だ。

両親と2人の姉とともに大阪市住之江区で生まれ育った。神戸学院大でアメフトの選手だった父の義宜さんに勧められ、小学1年から競技を始めた。スポーツ推薦で強豪の関西大学第一高校へ。1年の秋から試合に出たが、勉強はまるでやらなかった。成績が足りずに2年生に進級できず、転校することになった。ふてくされて「もうアメフトなんかやらん」と部屋に閉じこもった息子に、母の早苗さんは言った。「やりたなったらやれるように、アメフトのある高校にしとき」。母が見つけてくれた大阪府立大正高校へ移った。

大正高のアメフト部は部員がわずか十数人。林はQBとディフェンスのLB(ラインバッカー)を兼任した。1勝もできなかったが、1日10食を摂り、筋力トレーニングに没頭して強い体をつくった。高2の1月にあったオールスター戦に大阪府選抜で出場。十数校の大学から勧誘を受け、小学校のチームの先輩が4人いた日大へ進むことにした。

学生日本一の半年後に起きた「事件」

2017年の甲子園ボウルで関学に勝ち、林(中央の10番)右腕を突き上げた(撮影・朝日新聞社)

林が入学した2017年、日大はかつての猛練習に回帰した。練習前にシャトルランで最低でも2500ydを走った。林は10kgやせ、キツさに泣いた日もあった。何とか耐え抜き、秋のリーグ戦で先発QBの座をつかみ、3戦目からは代々のエースQBがつけてきた背番号10を託された。甲子園ボウルでは躍動感のある走りと鋭いパスで27年ぶりの学生日本一に貢献。初めて1年生にして年間最優秀選手に選ばれた。

その栄光から5カ月後の18年5月6日、「悪質タックル事件」が起きた。前年度の学生王者が秋のリーグ戦に出られなくなり、関東1部TOP8から1部BIG8に降格。内田正人監督は辞任し、新監督は公募によって採用することに。9月、かつて立命館大学でオフェンスコーディネーターを務めた橋詰功氏が新監督に就いた。そして昨年、日大はBIG8で全勝優勝し、TOP8に復帰した。

あの経験を生かせるときが来た

さあ、ラストイヤーに3年ぶりの甲子園ボウルへ。そこにコロナ禍。だが林は逆境だとは感じなかったそうだ。「もちろん大変な病ですし大変なことですけど、練習に制限がかかるぐらいのことは、ほんまに大したことない。高校のときも人数が少ない中でやってましたし、大学2年のときは練習すらできない経験もしました。あの経験を生かせるときが来たと感じて、ラッキーやなと思ったぐらいです」。そして走った。走りまくった。

日大のグラウンドに掲げられた甲子園ボウル優勝記念ボード。「この隣に第75回のができますから」と林

橋詰監督に学んだパスと人生

ただ、2年前の「事件」のあとは「終わったな」と感じたそうだ。橋詰監督が来て、それまで延々とやっていた練習が2時間程度になった。日大に入って以来、山ほど練習することによってプレーを体で覚えた。林はそれが日大らしさだと考えていた。だから当初は橋詰監督を否定的に見ていた。しかし、いつしかそんな気持ちはなくなっていた。

実は、林はQBというポジションに関してしっかり教えてもらったことがなかった。ただ遠くにボールを投げ、投げられないときは走ればいいと思っていた。立命館大で何人もの名QBと接し、アメリカへのコーチ留学経験もある橋詰監督の教えは新鮮だった。すべてのパスにはコンセプトがあり、それを理解した上でディフェンスを見て、WR(ワイドレシーバー)がフリーになるところを想定。プレーが始まったら、「よし空いた」と思って投げる。橋詰監督と出会うまでは、ぼんやりとレシーバーを見て、空いたらバーンと投げていたそうだ。

橋詰監督(左)と和やかに語り合う
橋詰監督とともに磨いたパスで、ラストシーズンに臨む

昨秋のBIG8の試合では自身のランをできるだけ封印し、積極的に投げては橋詰監督にアドバイスをもらった。「パスの意識は変わっていったんですけど、もがいてた感じです。いっぱい迷走しました。今年に入ってやっと、パスに関して点が線になった。やっと自分を信じられるようになりました。QBとして世界が変わった感じがあります」。もう練習量が少ないことに不満はない。「試合のつもりでいろんな想定をして臨んだら、練習は少なくても大丈夫。質というものがやっと理解できました」

橋詰監督は人生も教えてくれる。監督の言葉がいつも林の心にある。「無駄な努力はない」。すぐにいい結果には結びつかなくても、いつかつながる日が来るから努力は怠るなという教えだ。「やりたくないこと、苦手なことにとことん取り組め」。そこには伸びしろが絶対にある。それをやることが人生だ、と。こういった教えがあったことも、林が元来嫌いだった「走ること」に徹底的に取り組むきっかけとなった。大嫌いな勉強にもまっすぐ取り組み、もう卒業の見通しはついた。就活の面接もいろんな人にアドバイスをもらいながら乗りきった。

このグラウンドにすべてがある

果たせなかった長谷川コーチとの約束

林には、再び甲子園ボウルでプレーする姿を見せたい人が二人いる。

一人は今年から立命館大のコーチになった長谷川昌泳(しょうえい)さんだ。林が高2のオールスター戦で活躍したときに声をかけてくれた一人が、当時フェニックスのコーチだった長谷川さんだった。何度も大阪まで足を運んでくれた。長谷川さんは「日大に来なくてもいいから、フットボールは続けてほしい。続けてくれさえしたら、俺は何も言うことない」と言ってくれた。林が振り返る。「あの言葉が衝撃的でしたね。日大へ行ってからも、生きる上で大事ないろんなことを教えてくれました。アメフトだけじゃなくて人生の恩師だと思ってます」

1年生の甲子園ボウルで勝った直後には、二人の間で「残りの3回のチャンスも全部甲子園に来て、勝つ」という約束をした。しかし翌年、「事件」に伴って長谷川さんら当時のコーチ陣は日大を去った。「いまでも僕にとっての恩人だし、大きな存在です。特別な出会いでした。でも、この別れを乗り越えていかないといけない。昌泳さんと出会えて成長できて、別れて、橋詰さんと出会えてまた成長できたんで、それはそれでよかったと思います。甲子園でプレーして、成長した自分を見せる自信はあります」

一緒に試練を乗り越えてきたチームメイトたちとともに、戦う

あざだらけになりながらボールを受けてくれた母

もう一人は母の早苗さんだ。前述のように、高校時代に転校することになったとき、母のアドバイスがなかったらフットボールをやめていたかもしれない。「続けられてるのはお母さんのおかげ。僕の中ではお母さんはすごいですね。ほんとにすごいですよ」と林。先日ふと思い出した母とのエピソードがあるという。高校時代にキャッチボールする相手がいなくて、林は家の前で真上にアメフトのボールを投げ上げていた。すると母が家から出てきて、「私に投げ」と言った。母はスポーツの経験がない。多少遠慮して投げると、落とさずに捕ってくれた。次の日、母の体はあざだらけ。それでも「今日もやったる」と言ってくれて、その後何度もボールを受けてくれた。

林は大正高校時代に練習から足が遠のいた時期があった。そんなとき母はなだめたり、ガツンと叱ったりで支えてくれた。「絶対にお母さんにはフットボールで恩返ししたい」。最後に大阪に帰省したのが昨年末。林は母に「次に会うのは甲子園やで」と言って東京に戻った。その後電話で話したとき、母は「今年は最後やし、関東の試合も見に行くわ」と言った。林は返した。「来たらあかん。甲子園行くから。甲子園で見せたるから」と。

動きながらのパスも精度が上がってきた

大一番にめっぽう強い相棒

フェニックスには、林も一目置く勝負師がいる。3年前の甲子園ボウルで関西学院大に0-7とリードされた第1クオーター(Q)12分すぎ、林は39ydのタッチダウン(TD)パスを決めた。「(レシーバーが)見えなかったんですけど、感覚で通したようなパスでした」。林がそう振り返るTDパスを捕ったのは、同じ1年生で名字も同じWR林裕嗣(ひろつぐ、佼成学園)だった。裕嗣について大希はこう評する。「練習ではすごいと思ったことがないし、試合でもあんまり感じないです。ただ、大一番での強さはちょっと違いますね」

昨年12月の関東1部BIG8最終戦。日大が桜美林大に勝てばTOP8への復帰が決まる。24-24の同点で迎えた第4Q、日大はゴール前18ydまで攻め込み、第3ダウン残り4yd。ここで攻撃権更新を狙った大希のショートパスを、裕嗣が落球。TDにつなげられず、FG(フィールドゴール)成功の3点どまり。サイドラインに戻ると、大希は裕嗣に言い放った。「これで負けたらお前のせいやぞ。取り返さんと、全部お前のせいやぞ」

大希は裕嗣の心に火を付けるために、あえて言った。次の桜美林のオフェンスで3点を返され、再び27-27の同点になった。直後のキックオフ、ボールを受けた裕嗣は78ydのリターンTDを決めた。この勝ち越しで流れが決まり、日大が48-27で勝った。大希は言う。「今年も結局、あいつが全部いいとこ持っていくんやろうなと思ってます。でも、その土台づくりは僕らがしないといけない。土台をつくりさえすれば、裕嗣はやる。それは桜美林戦で確信しました」

フットボールで心がけるのは、一喜一憂しないこと

初戦が法政との決戦、期待に応えてこそ男

日大は10月中旬に開幕予定のTOP8で、法政大、中央大、東大と同じAブロック。いきなり初戦が法政との大一番になる。「やってきたことをやるだけですけど、その『やってきたこと』の質をどんどん上げて法政戦に臨みたいです。この一年での進化をぶつけて、ビックリさせたろうと思ってます。3年生までのいろんな経験がなかったら、コロナのことがあって心が折れてたと思います。でも折れなかったので、僕の勝ちかなと。ほんとに支えてくれる人がいっぱいいるのがデカいなとつくづく感じてます。寮の周りの人たちが『もう一回甲子園ボウル行ってね』って言ってくれたり、別の大学のアメフト部OBの方から激励のメッセージをもらったり。そういう期待に応えてこそ男ですよね」

1年生の甲子園ボウル以降はけがが多く、昨年の春に取材したときは「もう甲子園のときみたいなパフォーマンスはできないと思う」と話していた。それがいま、林は「もっといけます」と笑顔で言いきる。肉体的にも技術的にも精神的にも高まりがあり、自分を信じられるようになったからこその言葉だ。

日大のグラウンドのそばには、篠竹幹夫元監督が作詞した曲の碑がある

下がっては、上がることを繰り返してきた。「僕はほんとに才能が一切ないんです。努力でここまではい上がってきたと思ってます。いろんな挫折があったからこそ、努力しようと思えたし、自分がやると決めたことはやり抜こうと思えました。社会人になっても結局、僕は上下するんかなと思ってます。なんかもう、人生の9割ぐらいはつらいことと苦しいこと。残り1割が楽しいこと。いまは勝つために、どんなことも耐え抜くつもりです」

覚悟のラストシーズンまで、1カ月半。

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