ハンドボール

けがした私は恩師の思いがけない提案に救われた 元筑波大ハンドボール部・森永浩壽

森永は小学生の時にハンドボールと出会い、現在は筑波大学大学院でコーチングを学んでいる(すべて写真は本人提供)

「選手の可能性を広げてくれた恩師がいてくれたから」。筑波大学男子ハンドボール部だった森永浩壽(こうじゅ、修士2年、藤代紫水)は今、筑波大学大学院で学ぶ傍ら、ハンドボール部のコーチアシスタントとしてチームをサポートしています。自身の競技生活の中での気づきを伝えたいと考え、4years.につづってくれました。

ハンドボールに一目惚れした

けがはほんの一瞬でその選手から大きな時間を奪う。「ゴリッ」。嫌な音を聞いたその瞬間、大きなけがをしたのだとすぐに悟った。幸い次のリーグ戦は3カ月後だったが、3カ月後に今まで通りコートで活躍するイメージを持てなかった。それでも私が再びコートに立てたのは、筑波大学男子ハンドボール部の藤本元(はじめ)監督のおかげだ。

私のハンドボールの出会いは小学2年生の時。たったワンシーンだった。しかし、その衝撃は今でも鮮明に覚えている。まさに魅せられた。テレビでジャンプシュートのシーンを見た瞬間、「これが僕がやるスポーツだ」と、なんの根拠もないが、ただ本能で感じた。ハンドボールと縁もゆかりもなかった私はそのころ、大阪に住んでいた。その3年後、両親の都合で引っ越してきた茨城・つくば市で、ひとつ上の先輩からの紹介でハンドボールと出会った。運命の「再会」だった。

筑波学園ハンドボールクラブでの経験はその後のハンドボール人生の原点になった(後列右から5人目が森永)

通っていた小学生クラブチーム「筑波学園ハンドボールクラブ」には、学生コーチというかたちで筑波大学の学生が教えに来てくれていた。当時の私には憧れの存在で、自分も同じ環境でハンドボールがしたいと強く思うようになった。私は筑波大学男子ハンドボール部の選手たちの背中を見て育ったのだ。

憧れの筑波大ハンドボール部へ、推薦入試組のプライド

その後、中学、高校と指導者に恵まれ、筑波大学に推薦入試で入学。部員たちは一般入試と推薦入試の大きく分けて2つの方法で入学するが、推薦入試で入学できる学生は少ない。推薦入試で入学した1年生は即戦力として活躍できる選手がほとんどだったが、自分は例外だった。フィジカル的にも技術的にも戦術的にも足りておらず、とてもとてもゲームで活躍できる選手ではなかった。

しかし、チームの一員になったからには必ずチームのため、財産を残したいという気持ちはとても強かった。それが勝利という結果でも、自分がひとりの選手としてチームに及ぼすことのできる影響でも、なんでも良かった。とにかく自分がこの大学、このチームに入って良かったと思えること、私という選手をとって良かった、そう思ってもらえるように努力したかったという方が正しいかもしれない。

コートの外からの応援は歯がゆかった

波に乗ってきた矢先に大けが

2016年、2年生の秋季リーグからコンスタントに試合に出られるようになり、翌年の3年生からはレギュラー選手として責任の一端を担うようになった。チームの初陣である春季リーグを優勝という最高のかたちで締めくくり、試合を経験する中で個人の役割を見つけていった。偶発的にできていることを夏の期間で昇華させ、確かな技術力を持って秋季リーグを戦う。その思いで夏の移行期を迎えようとしていた。

実は大学に入学してからの2年間、毎年慢性的な肩のけがに悩まされていて、夏の時期はリハビリと改善のためのトレーニングをしていた。3年生になってから肩の違和感はほとんどなく、順調にトレーニングを積めていた。「リハビリとトレーニングの成果が現れたのかも」。そう思っていた春季リーグ終わりの6月中旬、練習中に味方との接触で不運なけがをした。「ゴリッ」と音が聞こえたしばらく後、強い痛みが襲ってきた。これまで散々肩の痛みを感じていたので、このけがが1カ月そこらでは絶対に治らないものだとすぐに理解できた。

「肩の関節唇損傷」の診断で全治3カ月の大けがを負う結果となってしまった。その診断結果が示す意味は、8月下旬から開催される秋季リーグの開幕には間に合わないということ。受傷してから1週間は歩くだけでも肩が外れそうになる感覚を覚え、3週間経っても走れば痛みを感じるほどのけがだった。3週間が経って軽いジョギングをした時、自分の体が思っていた以上に鈍っていることに気がついた。「やっぱり間に合わないかもしれない」。そう自然と思ってしまっていた。

「これから復帰するまで左でプレーしたらいいじゃん」

問題なく走れるようになったある日、利き手とは逆の左手でキャッチボールをしていた。それを見ていた藤本監督が、「これから復帰するまで左でプレーしたらいいじゃん」と軽く、本当に軽く、さもそれが当たり前かのように「ぽろっ」と私に提案してくれた。私だって考えなかったことではない。ハンドボールを始めた当初から、「左手も使えた方が便利」という安易な理由でずっと左を使い続けてきた。しかしその精度は決して特別なものではなく、練習で稀に、試合でごく稀に使う程度だった。

ポジションの関係で左手を多用する時期が以前にあったが、指導者にはあまりいい顔をされてこなかった。シュートを外すと必ず、「ちゃんと打て」とだけ言われるのだ。そういった経験があったからか、例え右手が使えなかったとしても左手をメインに使ってプレーすることは、無意識的に無理なことだと感じていた。

でも藤本監督は違った。僕のことを見てくれていた。そんな指導者は他にいない。完全にプレーできるわけではない非利き腕しか使えない選手を練習に参加させて、それだけではなく練習試合にも出場させてくれた。左手を使い始めて1カ月、鈍っていた体は元に戻り、対人感覚は以前よりも鋭くなっていた。適度に休み、コンディショニングに力を入れたことで体の使い方も改善されていた。今思うと考えられないことが起こったような気がする。

インカレ決勝進出をかけた準決勝、チームは心ひとつで挑んだ

その後の秋季リーグにギリギリ間に合い、全試合に出場。続くインカレでは準優勝を果たした。もし3カ月丸々プレーできなかったら、秋季リーグの開幕には間に合わず、そこで活躍したであろう優秀な同期にポジションを譲ることになっていたと思う。

恩師の後を追い、大好きなチームのために

ハンドボール選手としての現役を終え、筑波大を卒業した後、デンマークに10カ月の留学をした。デンマークを留学先に選んだ理由はいくつかあるが、藤本監督が以前、留学先として選んだ場所だったということも理由のひとつである。

今は留学を終え、筑波大の大学院へ復学している。帰国してすぐ、新型コロナウイルス感染拡大の影響によりハンドボール部は活動自粛を余儀なくされてしまったが、私はコーチアシスタントとしてチームをサポートする役割を任せてもらった。

春からの自粛に伴い、春季リーグが中止に、インカレが中止になり、公式戦はおろか対外試合も満足にできていないこの現状では、正直モチベーションを保つことは難しい。しかし選手たちはハンドボールを楽しむ気持ちと、そのハンドボールを一緒にプレーしている仲間を愛する気持ちを胸に、残り少ない今シーズンを戦い抜こうとしている。自分たちにできることを探し、チームの様子を発信しながらチームとしての新しい在り方を見つけ出した。

デンマーク留学を終え、現在はコーチアシスタントとして、チームとともに戦っている

このチームには可能性がある。私が現役でプレーしていたもっと昔から積み上げられたチームの意志は脈々と彼らに受け継がれ、この先のチームへと引き継がれていくだろう。かつて藤本監督が私に影響を与えてくれたように、私もチームのため、選手たちのために、できることが絶対にある。私は、このチームが大好きだ。

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