アメフト

加藤家の特別なシーズン開幕、親子3人現役フットボーラー

シーズンインする加藤家。左から日体大の大資、名城大の勇杜、名古屋サイクロンズの義一(写真はすべて加藤家提供)

親子3人そろってアメリカンフットボールに打ち込むことになった加藤家にとって、特別なシーズンが幕を開ける。長男で日本体育大学RBの大資(だいすけ、3年、時習館)は10月24日、関東大学BIG8初戦の青山学院大学戦に臨む。父の義一は49歳でなお名古屋サイクロンズの現役RBだ。そして、名城大学へ進みフットボールを始めた次男のFB勇杜(はやと、1年、三好)は初めて秋本番を迎えた。

49歳で現役、アメフト界の「カズ」

豊橋市消防本部で救急救命士を務める義一は、中京大学でアメフトをはじめ、1994年の卒業と同時にサイクロンズに入った。30歳を前にセーフティーからRBへ転向。正確な記録は残っていないが、入団後200試合以上出場しており、けがで途中退場したのは4試合しか記憶にないという。

49歳で現役の父、義一

「25年やってきた中で、チームが1部の期間と2部の期間が半々ぐらい。1部でフル出場していたら、ケガの可能性もあり選手生命も短くなっていたと思う」。途中、救急救命士の資格取得のためチームを離れた時期もあるが、続けられてきたのは、40%が運で30%は努力、20%は才能、その他が10%と分析する。40歳前までは勤務の休憩中もめいっぱい自主練習をした。「体力もいる職業なのでトレーニングを兼ねてやっていると思われたが、あくまでフットボールのため。仕事に活きるという感覚はなかった」。アメフトに真っすぐ取り組み、散々鍛えて変化を求め続けた。幾度となく失敗した結果が今の自分を作ったと思う。

豊橋ラグビースクール時代の大資(右)と勇杜

東海地区は社会人も大学も関西勢に押され、長く「アメフト不毛の地」とも言われてきた。2人の息子は小さい時から楕円球に触れたが、それはラグビーボールだった。ともに近くで盛んだった豊橋ラグビースクールに通い、中学生になると愛知県選抜に選ばれた。ラグビー経験もある義一は2人が試合を終えて帰ってくると、ビデオを見ながら反省会を開いた。「僕が長いこと選手をやってきた分、2人に話すうんちくも長くなった。勝った負けたからグラウンドでスポーツ選手のあるべき姿まで。彼らにしてみたら、『いつまでしゃべるんだ』という感じですか。それが、大学でもスポーツをやるだろうという感触につながったんでしょう」

父と同じRBの長男、大資

大資は時習館高でもラグビーを続けたが、大学ではアメフトをやると早くから決めていた。「同級生で野球、サッカーをやる人は、親が経験者だったりする。その感じで僕の家では普通に親がアメフトをやっていたので、大きくなったらアメフトするんだろうなと。何の疑いもなかった」。ラグビーの強豪、三好高に進んだ勇杜は7人制の全国大会に出場した。それでも、大学ではフットボールに挑戦することにした。高校2年の時に横浜スタジアムで見た、兄が進んだ日本体育大学と慶應義塾大学の熱戦に感動したのが決定打となった。

次男の勇杜はFBに挑戦中

新型コロナで起こった変化

新型コロナウイルスの感染拡大が広がると、義一は救急救命士として神経を使ったという。「出動が増えたということはありませんが、何かと感染症対策を考えなければならず、さっと活動できない感じでした。精神的にも作業的にも疲れました」。一方で思わぬうれしいこともあった。自粛期間中、大資が実家に戻ってきて、約2カ月一緒に汗を流した。

「トレーニングのテーマはコンタクトスポーツにありがちな強く当たる、早く動くといったところから外れ、アメフトというより体の動かし方とメカニズムを学んだ。父は陸上競技のトレーニングもやっており参考になった」。大資にも収穫となった。コロナ禍で試合数が減るなどアメフト界にも影響はある。関東大学リーグは今季の昇降格を行わない。昨季、入れ替え戦で敗れた日体大のTOP8復帰は来季以降となった。大資は「今季は出し切って、4年生になる来年、復帰を決めて終わりたい」と前を向く。

父が同じ現役選手というのはどんな感じなのだろう。大資が「今でも体の使い方や体幹などでアスリートとして自分より上の次元にいる。改めて考えるとすごいと思うが、不思議ではない」と言えば、勇杜も「全然違和感ないですね。仕事以外の父さんの行動パターンは、家にいるか、ジムに行くか、ランニングに行くかの3つなんで。それ見ていたらまだやるよねーと思っちゃいます」。選手姿の父は当たり前のようだ。

49ersに魅せられて

義一が愛知県立豊丘高のサッカー部員だった2年生の冬、すべては始まった。「実は第23回スーパーボウルを見たんですよ。それがあのモンタナマジックの年で。サンフランシスコ49ersのなんていうんですか、あの逆転のモンタナのタッチダウンから見まくりました。あの映像がすべて自分の中に入って、大学行ってフットボールをやる。そんな流れなんですよ」

1989年1月、「ザ・ドライブ」とも呼ばれる残り3分ほどで92ydを攻めきったQBジョー・モンタナを中心にした逆転劇をすべて覚えているように熱く語った。あの時、49ersの最後の奇跡がなければ、義一も49歳までRBを続けることはなかっただろう。名古屋サイクロンズは11月1日、X1エリア西日本地区1回戦でアサヒ飲料クラブチャレンジャーズとの初戦を迎える。

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