大学アメフト

不死鳥のように生き抜いた日大時代 中央大・須永恭通ヘッドコーチ(上)

今年2月から中大ラクーンズに合流した須永ヘッドコーチ(撮影・北川直樹)

アメリカンフットボールの関東大学リーグ1部TOP8は、10月中旬の開幕を目指している。トピックの一つは、須永恭通(たかゆき)ヘッドコーチ(52)を新たに迎えた中央大学ラクーンズがどんな戦いを見せるかだろう。須永さんは身長188cmの大型QB(クオーターバック)として日大で奮闘し、4年生のときには代々のエースQBがつけてきた背番号10でフェニックスをライスボウル3連覇に導いた。その後社会人のオンワードオークスでプレーし、NFLヨーロッパにも参戦。引退後はオンワードスカイラークスと母校の日大でコーチのキャリアを積み、11年から昨年まではXリーグのノジマ相模原ライズでヘッドコーチを務めていた。須永さんのフットボール人生を2回に分けて紹介する。

 長い距離を走って強い体をつくる

須永さんの取材に中大多摩キャンパスを訪れた6月28日は雨。ラクーンズはオフェンスとディフェンスに分かれて、時間差で練習していた。どちらの練習も750mの走り込みから始まった。須永さんが中大に合流した2月から、第一段階として1500mを走ってきた。新型コロナウイルスの感染拡大による練習自粛の期間を経て、この日から第二段階。最終的に250mにする。 

これは須永さんが2005年から10年まで母校日大でコーチをしていたときに考えたメニューだ。「日大はめちゃくちゃ走るチームだったんです。でもタイム設定もなくて、日々の成長が目に見えて分かることもない。ただの『根性練』でした。それで成果が見えるようにするにはどうしたらいいかを考えて、同じような速さの選手でグループを分けて、タイムで序列をつけました。自分たちで『やらなくちゃ』と思えるようにしたかったんです」。アメフトの練習といえば短い距離のダッシュが定番だが、じっくりと強い体をつくるために1500mを走ることから始めたという。

取材の日、中大の選手たちは750mを繰り返し走っていた(撮影・北川直樹)
ラインの選手たちはマスクをしたり、タオルを口にあてたりしていた(撮影・北川直樹)

ラクーンズに加わってすぐ、須永さんは学生たちの目標を確認した。「日本一になる」という言葉が出てきた。日本一になるということを、お互いに約束した。「でも、ほんとの一握りの選手しか、目標にふさわしい行動ができてなかったし、いまもそうです。今日の練習でも投げて捕って、というだけで簡単にミスをする。これがこのチームの文化なんですよね。そこに危機感を持ってる人間もいますけど、全体には浸透してない。全員を同じ土俵に上げるのは、すごく難しい作業だと思ってます。それができて初めて、戦術をどうするかというレベルにいける。まだまだですね」。須永流の育成が始まっている。

当たり合うアメフトにあこがれた

東京で生まれ育ち、バスケットボールの選手だった中学生のとき、アメフトがテーマの『ジョーイ』という洋画をテレビで見た。「アメフトって、こういうのなんだな」と思った。さらに深夜に放送されていたNFLの試合を父と見ていた。「中学生だったし、暴れたい衝動がありました。だから、当たり合うのがすごく魅力的でした」。中3ですでに身長は185cmあった。体育の先生に相談したら、「アメフトはお前に合ってるんじゃないか?」と言ってくれた。「昔の日本人って背が高いと運動神経が鈍いって言われてましたけど、僕はできたから、それを分かってた先生が勧めてくれました」と須永さん。アメフト部のある高校だけ受験して日大櫻丘に入った。

日大櫻丘のアメフト部は、日大フェニックスと同じグラウンドの片隅で練習する。入学すると、走りでは新入生でトップクラス。「野球みたいに投げてみな」と言われてボールを投げると、ビューンと飛んでいった。須永さんの「QB道」が始まった。「でも完全にビギナーズラックだったんです。ちゃんと投げ方を教わるとぜんぜん投げられなくなって。自分でずっと試行錯誤して。実は僕、大学4年の夏にやっと思うように投げられるようになったんです。僕みたいなのは珍しいでしょうね。ほんとはそこまでやってダメだったら、違うポジションをやった方がいい」

中学3年生ですでに身長が185cmあった(撮影・北川直樹)

いつも心にあった「絶対に一番になる」

高1のころ、日大櫻丘の先生が日大フェニックスのエースQBで当時4年生だった松岡秀樹さんに声をかけた。「ぜんぜんダメだから教えてやってくれ」と。須永さんは松岡さんに教わりながら、こう思っていた。「この人より絶対にうまくなれる」。松岡さんがスター選手であることを知らなかったこともあるが、須永さんの心にはいつも「絶対に一番になる」という強い思いがあったのだ。「ずっとやっていったら、誰よりもうまくなる。ずうずうしいですけど、高校生のときからそう思ってました」。その信念を持って、努力を続けた。

コントロールは悪かったが、ボールは速かった。高2のある日、もう暗くなった中での練習。須永さんのパスをはじいた同級生が叫んだ。「指がない!」。日大のグラウンドの周りには団地があって、その声が響き渡った。「指がない、指がない、指がない……」。驚いた須永さんたちの声も響いた。「マジかよ、マジかよ、マジかよ……」。駆け寄ると、手の指の一本が皮一枚でつながった状態で垂れ下がっていた。すぐに病院へ行って、指はつながった。障害も残らなかった。「あれはショックでした。マンツーマンの練習だったからディフェンスの選手と接触してて、どんな力が働いたのか分かりませんけど……。罪悪感があったので、何事もなくてよかったです。後にも先にもあんなことないですよ」

日大で出会ったカリスマ監督

そして日大へ進み、フェニックスに入った。そこには「日本フットボール界のカリスマ」と呼ばれた篠竹幹夫監督(故人)がいた。1959年から44年に渡って監督を務め、フェニックスを17度の学生王者に導いた豪傑だ。平日の練習は午後3時に始まって、9時までは必ずグラウンドにいた。「何度か12時を過ぎたこともありました」と須永さん。最初に1時間ほど走りっぱなし。次にポジション別の練習が1時間ほど。そこから試合形式の練習が延々とあり、最後に必ず紅白戦があった。

日大4年生の夏合宿で篠竹監督と(写真は本人提供)

フェニックスのOBたちは篠竹監督のことを仲間内で「オヤジ」と呼んだ。グラウンドには通称「オヤジ小屋」があった。選手たちは練習が始まるときと終わるとき、オヤジ小屋の前に集まって監督の話を聞いた。須永さんが学生だったころ、監督は練習中ほとんどの時間、そこでお客さんや差し入れを持ってきた部員の保護者に応対していた。時には大好きなシャンソンのテープを再生して、お客さんに聞かせていた。

たまに小屋から出てくると「オヤジポイント」という練習が始まり、監督が頭の中で描いたプレーを選手たちに仕込む。これが2時間ほど続くが、そこで教わったプレーを試合で使ったことは一切ない。「不思議な時間でした」。須永さんは笑顔で振り返る。

2年生でやってきた大舞台

同級生にはQBの志望者が何人かいたが、ほかの選手たちはどこかで見切りをつけて、ほかのポジションへ移っていった。須永さんは「絶対に一番になる」との思いを胸に、QBの練習を続けた。「体が大きかったし、力も強かったし、大きなけがもしなかったんですよね。動じないところもあったから、何とかQBとして生き延びられたと思ってます」

2年生のとき、大舞台で出番が来た。1989年1月3日、国立競技場。日本一をかけたレナウンとのライスボウルだ。当時のフェニックスは「ゴールデンドラゴンフライ」という特殊なオフェンス体形を看板にしていた。オフェンスラインの後ろにバックスが逆三角形で3人。前にランが得意なQB山田喜弘(当時4年)と「牛若丸」と呼ばれたRB山口敏彦(同1年)、後ろにQB宇田川健治(同3年)がセット。4年ぶりに甲子園ボウルで勝ち、ライスボウルに駒を進めていた。

日大2年生のライスボウルでチャンスをものにした(撮影・北川直樹)

須永さんは12番をつけてベンチにいた。宇田川さんの調子が悪いということで、交代させるという話になった。「悪いって言ったって、僕から見たら宇田川さんのプレーは相当いいんですよ。だけど降ろされたんですよ。次、誰だろうなあと思ってたら、僕だったんです。まったく練習が足りてない状態だったんですけど、思い切りやったらうまくいったんです」。パスは決まるし、走ればゲイン。47-7の大勝に貢献した。「新聞にもよく書いてもらって『頑張ろう』っていう気持ちになった試合でした」

10番をつけてからの苦悩

4年生になり、日大のエースQBがつける10番を手にした。春先にけがをして出遅れ、復帰してからも調子が上がらなかった。当時開催されていた春の東西オールスター対抗戦「西宮ボウル」には、3年生QBの松本義幸が出場。日大の10番がこの試合に出ないのは異例中の異例だった。しかも、松本がMVPをとって帰ってきた。「もう大変なことになったと思いました。俺、どうなっちゃうのかなって」

須永ヘッドコーチは選手たちに「スタンダードを上げよう」と呼びかけていた(撮影・北川直樹)

監督との風呂のために磨いた「すべらない話」

約30人いた日大の4年生は全員、部の合宿所で篠竹監督と寝食をともにしていた。3階建てで2階がワンフロアすべて監督の部屋。4年生は3階で暮らしていた。監督は毎日、4年生と3年生の幹部候補、QBと一緒に風呂に入った。監督が合宿所に戻ってきて、「よし、風呂入るぞ」と言うと、監督付のマネージャーを発信源に「フロタイ(風呂待機)」がかかる。1年生の当番が3階へやってきて4年生に「フロタイです!」。すると4年生には急いで風呂まで走っていって、体を洗って湯船につかる。「監督は一番風呂だと思ってるんですけど、ほんとは僕らが先に入ってたんです」。須永さんが笑顔で明かす。

監督の部屋のドアには鈴がついていて、その音を聞くなり見張りの1年生が風呂場の4年生たちに「監督来ます」と伝える。4年生たちは整列し、片ひざをついて待つ。くもりガラスの向こうに、仁王立ちになった監督が見える。そしてのし、のしと入ってくる。QBの選手が監督を待つ場所は入ってすぐ右と決まっていた。監督が体を洗い、湯船につかってからが勝負だ。監督は次々に「○○、話!」「□□、歌!」と、4年生たちにフリートークや歌唱を振ってくる。話が面白くなかったり、歌が下手だったりすると「だからアメフトもダメなんだ」と一刀両断。だからみんな必死だ。いつも「すべらない話」を考え、歌も練習していた。長い日は2時間近く、監督と風呂にいた。

篠竹監督との思い出を語るとき、須永ヘッドコーチの表情が緩む(撮影・北川直樹)

篠竹監督が好むのは喧嘩(けんか)やお化け、女性にまつわる話だった。「毎日アメフト漬けの大学生が、そんなにいろんなことを経験してる訳ないじゃないですか。だからいろんな話をミックスして作るんです。もうウソですよ。作り話なんだけど、その中で喧嘩に負けちゃいけないし、女の子にはモテないといけないんです。ほんとに不思議な世界でしたけど、いま思うと財産なんですよね」。篠竹監督との思い出を語るとき、須永さんの表情が緩む。

前述の通り、4年生の夏にやっとパスに開眼した須永さんだが、秋のシーズンは春に続いて苦しんだ。関東大学リーグ4戦目の早稲田戦で大けがを負った。ランに出たときに、相手のLB(ラインバッカー)と思い切り当たった。太ももに相手のヘルメットが入った。「僕は失うものは何もないという精神状態でした。とにかく出来が悪いし、こんなところで日大の伝統を傷つけちゃいけないし。だからガンガンいくんです。向こうも今年の日大だったら食えるかもしれないと思ってるから、気合が入ってました」。二人とも倒れ、負傷退場した。

けがをしたときは優しかった篠竹監督

救急病院では大腿(だいたい)骨が折れている可能性があると言われたが、そんなわけはないと思い、ギプスは巻かなかった。普段診てもらっている医師に診察してもらうと筋断裂だった。しばらくは練習ができなかったが、ラストシーズンの残りを棒に振らずに済んだ。こういうとき、篠竹監督は優しかった。「いま思えば『うまいなあ』と思います。愛情を感じるときがあるから、ああいう豪快な人でもチームを統率できたんだと感じてます」

須永さんは「日大では○×を教えてもらったことがない」と語る。要するにアメフトの戦術について教わったことがないということだ。日々のグラウンドでの練習がすべて。そこで自分たちのプレーのコンビネーションを究極まで高め、どんなディフェンスが来ようが、その上をいくというスタンスだ。「何も教えてもらえないんですけど、賢い人は自然に分かってきたりするんです。でも、それを同じポジションで教え合わない。だからすごく熾烈(しれつ)な争いになっていきます。練習でほかの選手がやってるプレーを盗んで自分のものにしていく感じです。僕自身、いま思えば愚かなんですけど、ディフェンスに一切興味がなかったです。駒としか見てなくて。だから『カバー2』なんて用語も知らなくて。社会人になって初めてちゃんと教えてもらって、『こんな仕組みになってたんだ』と思って、すごくフットボールが楽になりました」

悔いが残る京大との甲子園ボウル

4年生の甲子園ボウルでは先発QBで出たが、京大に見たことのないパスカバーを敷かれ、思ったようには活躍できなかった。ただ、一つだけ会心のパスがある。第1クオーター、同級生のWR(ワイドレシーバー)梶山龍誠に通した約20ydのパスだ。本来はタテに10ydほど走って振り向いたところに投げるパスパターンだったが、梶山は京大のパスカバーを見て、タテに走り抜けるルートに変更した。須永さんは慌てたが、しっかり決めた。「そんなの梶山と1度も話したことないし、練習もしたことないんですけど、アイツがビューッとタテに走って、『おっ』と思って投げたんです」。須永さんの頭の中には、日大のレシーバーたちの癖が刷り込まれていた。「体の動かし方で、次にどっちを向くのかということが100%分かってました」と言いきる。これはもう、豊富すぎる練習量のたまものだ。

日大でのラストゲームでライスボウル3連覇を果たし、篠竹監督の隣で記念写真に収まった(写真は本人提供)

甲子園ボウルを3年連続で制し、日大は最終決戦のライスボウルへ勝ち上がった。相手は松下電工だ。試合前の練習で須永さんは“異変”を感じた。「思ったところに全部パスが投げられる状態でした。球がうなるぐらい速く投げられた。ぜんぜん違う。不思議なもんだなと思ってました」。0-7と先制されたが、梶山への二つのタッチダウンパスを決めて逆転。3年連続のライスボウル制覇で、須永さんがMVPに選ばれた。最後のプレーは須永さんのランだった。相手にタックルされて試合終了の笛が鳴り、須永さんは国立競技場の芝の上で大の字になって「終わったー」と叫んだ。

日大の10番を背負った一年が終わった開放感をかみしめていた。「4年生になって壁がいくつもあったんで、周りのみんなに助けてもらったという気持ちがすごく強かったです。MVPという賞があることも考えてなくて、ただ勝って終われたことがうれしかった。これまで満足した試合は、選手としても指導者としても一つもないです。ただ、あのライスボウルは日大での集大成だったから、うれしかったです」

「虎のようになれ」

4年生たちが合宿所を出ていく日、須永さんは階段の踊り場で篠竹監督に会ってしまった。当時、合宿所内で監督に会ってはならないという決まりがあった。「どうしよう」と思っていると、監督に自室へ招かれた。そして「虎のようになれ」と、虎の置物を手渡された。いまも須永さんは自宅の目立つ場所に置いている。「虎を見るたびに思い出しますね。原点です。あの時代だから通用していたやり方ですけど、僕を鍛えてくれたのはやっぱり、篠竹監督なんです。フットボールでいい思いをさせてもらったのは、あの人の指導があったから。心から感謝してます」

 まさにフェニックス(不死鳥)のように、須永さんは日大での4年間を生き抜いた。

日大を卒業するとき篠竹監督から贈られた虎の置物(撮影・須永恭通)
考え抜き、やりきる選手を育てたい 中央大・須永恭通ヘッドコーチ(下)

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