大学アメフト

考え抜き、やりきる選手を育てたい 中央大・須永恭通ヘッドコーチ(下)

QBの練習を見つめる視線は、自然と厳しくなる(撮影・北川直樹)

10月中旬の開幕を目指す関東大学アメリカンフットボールリーグで、話題の一つが、中央大学ラクーンズの新ヘッドコーチに須永恭通(たかゆき)さん(52)が就任したことだ。須永さんのフットボール人生を振り返るストーリーの後編は、日大を卒業してから現在に至るまでの道のりです。

不死鳥のように生き抜いた日大時代 中央大・須永恭通ヘッドコーチ(上)

大学2年から社会人1年目までライスボウル4連勝

日大でライスボウル3連覇を果たし、篠竹幹夫監督(故人)から虎の置物をプレゼントされて須永さんの4年間は終わった。1991年の春にオンワード樫山に就職し、企業チームであるオンワードオークスに入った。同じ日大出身のQB(クオーターバック)で2学年先輩にあたる山田喜弘さんがいて、試合の第1、第3クオーターは山田さん、第2、第4クオーターは須永さんがオフェンスを率いた。社会人として最初のシーズンにライスボウルで関西学院大学に勝ってチーム初の日本一に。しかし翌年以降、須永さんが引退する2000年まで頂点には立てなかった。 

社会人1年目でいきなり日本一を経験した(写真は本人提供)

一方で世界に挑戦した。1999年には第1回ワールドカップ(イタリア)で日本代表のエースQBを務めた。その前年、久々に日本代表が結成され、フィンランド代表を招いて東京ドームで戦った。須永さんが振り返る。「あれが最初のプレッシャーでした。変な試合をして負けたら、日本のフットボールが10年逆戻りしてしまうという気持ちがありました」。39-7で勝ち、翌年のワールドカップへ向けて動き出した。だがコソボ紛争が勃発。アメリカが出場を辞退し、日本協会も選手たちに「出場を断念する」と伝えた。しかし須永さんたちはワールドカップ参加の嘆願書を提出。日本協会がイタリアの現地の安全面を再確認し、出場できることになった。 

ワールドカップで日本の大黒柱として優勝

アメリカがいない、カナダもいない。6チームで争うワールドカップだ。須永さんたち日本代表は優勝だけを狙ってイタリアへ渡った。予選リーグでスウェーデンとオーストラリアを下し、決勝でメキシコと対戦。ともに無得点のままタイブレーク方式の延長へ。敵陣25ydから攻め合い、得点の多い方が勝つ。

先攻の日本はゴール前5ydまで攻め込み、パスでタッチダウンを狙った。セットしたとき、須永さんはパスを狙うサイドにメキシコの人数が足りていないのに気づいた。パスターゲットは日大の後輩であるTE(タイトエンド)の安部奈知。「絶対に空く。決めないと」。須永さんは思わずパスを置きにいってしまった。低くなったが、頼れる後輩は確実に捕ってくれた。タッチダウンだ。トライフォーポイントには失敗して6点。続くメキシコのオフェンスで投じられたパスをDB(ディフェンスバック)の市川敏伸がインターセプトし、日本が初代ワールドカップ王者となった。「寄せ集めだったけど、一体感のあるいいチームになれた。みんなで苦労して勝ちとった優勝だけに、うれしかったです」 

右ひじの手術を経てNFLヨーロッパへ

その1999年のシーズンが終わると、NFLヨーロッパ(2007年に解散)に挑戦した。当時、日本で開かれていたトライアウトに参加し、ほかの6人の日本人選手とともに2000年春にNFLヨーロッパでプレーした。そこはNFLを目指す選手たちが実力をアピールする場だった。「おこがましいですけど、NFLのどこかにひっかからないかなと、ずっと言ってました。トライしなかったら可能性はないので、トライしたかったんです」 

NFLヨーロッパに参戦していたとき。右ひじの痛みで出遅れた(写真は本人提供)

1999年のシーズン中に右ひじの痛みが深刻になっていて、NFLヨーロッパのトライアウトに合格した翌日に渡米、手術を受けた。スコティッシュ・クレイモアーズに所属することになり、キャンプに参加。ゆっくり仕上げていこうと思っていたら、いきなりガンガン投げさせられた。患部が腫れて、思うように投げられなくなった。結局、チームで3番目のQBという扱いのまま終わった。「試合には出ましたけど、勝敗の行方が分からないという状況じゃなかったです。QBの中では僕が一番大きいぐらいでした。でも、みんなビュンって投げるんですよ。そういう中にいると、やっぱり自然に自分のレベルが上がっていくんですね。それは、すごくいい経験になりました」 

NFL目指して増量、両ひざを痛めて引退

ヨーロッパから戻り、夏の練習を経て、オンワードでの秋のシーズンが始まった。右ひじは手術前よりもかなりよくなり、再び思い切って投げられるようになった。しかし、今度は両ひざに痛みが出た。「NFLヨーロッパに挑戦するために、何年も前から体重を増やしてたんです。僕の身長(188cm)のQBだと、みんな100kgぐらいあるんです。書類で落とされたら嫌なんで、少しずつ増やしていったら、最後は98kgになったんです。いつも診察してもらってる先生には『やめた方がいい、力士もそうやってひざを壊すから』って言われたんですけど、当時はそれしか道はないと思って増やしました。そしたら、案の定でしたね」。このシーズン限り、32歳で現役引退を決めた。「ぜんぜん悔いもないし、寂しい気持ちもなかった。サラッとすぐにコーチになりました」。第二のフットボール人生が始まった。 

両ひざを痛め、須永さんは32歳で現役を退いた(撮影・北川直樹)

2001年は新たにできた合併チームのオンワードスカイラークスでオフェンスのコーチ、02年から3年間はオフェンスの責任者にあたるオフェンスコーディネーター(OC)を務めた。そして2005年から母校の日大へ。当時の内田正人監督に誘われて移った。篠竹氏は02年シーズン限りで退任していた。OCをやりながら、この連載の前編で触れたように長めの走りでタイムを測定し、学生たちに競わせるように持っていって、強い体をつくっていった。 

日大のコーチになって3年目の2007年、17年ぶりに甲子園ボウルに勝ち上がった(撮影・朝日新聞社)

日大のコーチとして、悔いを残した甲子園ボウル

2006年に篠竹氏が亡くなり、この秋のシーズンは内田監督の発案で、ヘルメットの白いフェニックス(不死鳥)を黒く塗って公式戦に臨んだ。そして須永さんが就任3シーズン目の2007年、日大は17年ぶりの甲子園ボウルに勝ち上がった。宿敵の関西学院大と対戦してシーソーゲームになった。しかし最後は試合巧者である関学の粘りに屈し、38-41で負けた。

「あのときの選手たちは精神状態もいいところに到達してたと思います。キャプテンのDL(ディフェンスライン)鈴木修平もすごくよかったし、各ポジションのエース格も充実してました。僕が採用した走りのメニューにずっと取り組んで積み上げてきた連中が4年生になったんで、彼らを勝たせてやれなかったのは、ほんとに悔いが残ります」。須永さん自身が日大の4年生だったときに悔いを残した甲子園ボウルに、またやり残しができた。そして2011年から、社会人Xリーグのノジマ相模原ライズのヘッドコーチを務めることになった。 

ずっとライズでやっていきたい、との思い

ライズでは9シーズンに渡ってヘッドコーチとして戦ったが、Xリーグの決勝にあたるジャパンエックスボウルには1度もたどり着けなかった。ベスト4で3度負けた。「難しかったですね。僕の限界だった。いろんな面で恵まれていなかった時期から、『この状況で勝つことに意味がある』と言ってやってきました。でも最後が届かない。いろんなことを追求してダメだってことは、次の一歩が必要なんだろうなと思いました」。ライズの関係者によると、「何があっても須永さんについていく」という選手が多かったという。ずっとライズでやりたいと考えていた須永さんだったが、昨秋のリーグ戦で負けが込み、チームの上層部に自分の行く末を委ねた。そして今年になって中大のヘッドコーチ就任が決まった。 

ノジマ相模原ライズの9年間ではXリーグのベスト4が最高成績だった(撮影・北川直樹)

「ずっとライズで」と思っていた一方で、「いつかまた、学生を教えたい」という気持ちもあったという。2018年の日大アメフト部の騒動の際には、次期監督に名前が挙がった。だが、のちに公募に際して日大出身者は対象から外された。「僕が日大のコーチをやめたのは、ライズのときと違って円満にやめた訳じゃない。僕が信じるやり方でもう一回、日大のチームをつくりたいという思いはありました。あのタイミングで話があったら、就任する気持ちはありました。いまはそのチャンスを中大でもらえてるんで、まったく悔いはありませんけどね」。須永さんが、うなづきながら言った。 

選手を褒めたり叱ったりするとき、頭に浮かぶのはフェニックスでの恩師、篠竹監督だ。「何か決断を迫られたときには、いつも『篠竹監督ならどうするかな?』って考えます」。篠竹氏は常々「フットボールはQBで決まる」と言っていた。須永さんもそうだ。「試合にはいろんな要素がありますけど、QBが悪かったら絶対に勝てない。チームの勝利に占める割合が非常に大きいと思います」。だからQBに注ぐ視線は自然と厳しくなる。「自分のフットボール人生を振り返ると、思うようにいかないことばかりでした。でも経験上、誰でもやり方次第でどうにかなるというのが原点にあります。だから、もったいないと思う選手がいっぱいいます。精神論で片付けるつもりはないですけど、決定的に足りない。考え抜く、やりきるって部分が足りないなと思ってます」 

決断を迫られるといつも「篠竹監督ならどうするかな?」と考える(撮影・北川直樹)

いま中大のQBは5人いる。エースを誰に委ねるのか。「全員に可能性がありますよ。長い距離を走る練習で、今日は2年生と1年生が競り合ってました。あそこでギアが入るヤツ、ギュッと頑張れるヤツってのは可能性があるなと思って見てます」と須永さん。新入生のQBには、昨年のクリスマスボウルに出場した佼成学園高校の小林宏充がいる。須永さんのフェニックスの同期の名選手で、いま佼成学園の監督を務める小林孝至さんの息子だ。「体つきがガッチリしてるところは小林先生に似てます。あんまりトレーニングはしてないっていうから、もとがいいんでしょうね」 

妥協しない姿勢と荒々しさは日大に負けたくない

1967年創部の中大は甲子園ボウルに出たことがない。関東1部TOP8の真ん中あたりが定位置だ。「中に入ってみると、学生はすごく一生懸命なヤツが多くてビックリしました。スタッフからもいろんなアイデアが出てくる。賢いヤツが多いですよ。でも、ずる賢いヤツはあんまりいない。いいヤツがいいヤツのままフィールドに入るから、やられるんです。スイッチが入らない。そこは一つのポイントだと思います。コーチにはそれが分かってるし、学生のリーダーたちも理解してるんで、そこを大きく変えたいです」 

7月13日にオンライン抽選会があり、最も早く10月中旬に開幕できた場合の関東1部TOP8のブロック分割が決まった。中大は法政大、東大、日大と同じAブロックだ。この形式で開催となれば、ラクーンズはフェニックスと対戦する。そのとき、須永さんはどんな心境になるのだろうか? 「不思議な感じはあるでしょうね。日大のすごさ、素晴らしさは妥協しない姿勢だとか荒々しさだと思うんです。対戦するときには、そこで上回りたいです」。須永ラクーンズはどんなチームになって、フェニックスに挑むのだろうか。

中大ラクーンズは「魂のフットボール」をテーマに掲げている(撮影・北川直樹)

 最後に指導者としての喜びを尋ねた。「学生がいい方に変わったときですね。成長したときが喜びだと思います。それでチームとして勝てれば、よりうれしいですよね。日々つきあっていて、『意識して変えてきたな』『俺が言った以上にやってるな』と思えたときは、めったにないんですけど、すごくうれしいですね」

 須永さんは自分の日大時代と同じように、へこたれずに前を向いてやりきる選手が出てくるのを待っている。不死鳥のような男を待っている。

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