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連載:OL魂

火の玉のような男がXリーグで果たせなかった夢 元関学アメフト主将・井若大知

関学4回生のとき、甲子園ボウル出場を決めて仲間と抱き合う井若(右、撮影・朝日新聞社)

社会人アメフトXリーグの富士通フロンティアーズは34日、2019年度の引退選手11人を発表した。そこに井若大知(いわか・だいち、24)の名前があった。関西学院大学ファイターズで主将を務めた学生最強のOL(オフェンスライン)は、常勝軍団に加わってわずか1年、念願だった73番のユニフォームを試合で着ることなく、防具を着けて練習することさえないままチームを離れた。

 首に不安、最強の富士通に加わって1年で引退

今年13日のライスボウル。富士通は関学に38-14で勝って4年連続の日本一に輝いた。井若は試合中、ポロシャツ姿でオフェンスのコーチ陣のサポートをしていた。試合後、私は彼から「8日にシーズン最後の全体ミーティングがあるんで、そこで引退が決まると思います」と聞かされた。昨春のチーム合流直後、筋力トレーニングをしていると、首と右腕に痛みを感じた。診察を受けると、医師から頸椎の中を通る神経に何らかの問題がある、と告げられた。アメフトを続けるのはリスクが高い、と。 

昨秋のシーズンは裏方としてチームの役に立とうとした(撮影・北川直樹)

オフェンスの最前線で激しい当たりを繰り返してきた井若は、大学時代から首の痛みと付き合ってきた。関学2回生の秋のシーズン、関西学生リーグ1部の最終戦で立命館大との全勝対決に負け、甲子園ボウル出場はならなかった。そして12月の東西大学対抗戦・東京ボウルで日大と対戦。序盤に相手に当たったとき、右肩がロックされた感じがあり、肩が熱くなった。右手を開けない。「その前に立命戦で首を痛めたんですけど、何とかなってるから大丈夫と思いながらやってました。でも、いきなりガタがきました」。その試合は2学年上の主将で同じOLの橋本亮と一緒にプレーできる最後の試合だった。1回生からずっと試合に出てきた井若は、親身になって自分を支えて暮れた橋本を慕っていた。だからこそ最後まで出たかったが、とても無理だった。 

試合後には症状は治まった。翌日病院へ行くと、MRI検査で異常はなく、フットボールを続けてもいいと言われた。 

3回生の秋のリーグ戦の立命戦で、同じ症状が出た。試合には最後まで出たが、右腕のけいれんや震えが止まらない。翌日に病院へ駆けつけたが、やはり何も異常は指摘されなかった。甲子園ボウルで早稲田大を破り、学生日本一になった。 

1回生のときに猛練習したパスプロテクションでは無類の強さを誇った(撮影・篠原大輔)
2017年度の関学の幹部。右から主将の井若(70)、副将の藤木(58)と松本(44)、主務の三木(93)(撮影・篠原大輔)

1回生から最前線に立ち、4回生で主将に

いよいよ学生最後の一年だ。井若は立候補して主将になった。「ずっと試合に出てきたから、背中で見せるのは簡単だと思ってました。それだけじゃなくて、自分の問いかけでどれだけチームメイトが動くか。みんなから『お前に助けられた』って言われるキャプテンで終わりたかった」。突っ走りすぎるところがある彼を、同期の主務である三木大己や副将の松本和樹が支えてくれた。とくに三木とは、ほぼいつも一緒に行動していた。 

春の練習中に当たって崩れ落ち、立てなくなった。首だった。「もうあかん。フットボールできんかも」と思った。車椅子で移動した。ごはんを食べようとすると、箸が持てなかった。病院に行くと、かつて6070kgはあった右手の握力が7kgしかなかった。首の骨は何ともないのが分かったが、やっぱり原因は分からない。ベンチプレスは40kgも挙がらない。2週間に1度は、首にブロック注射を打って痛みを取ってもらうようになった。 

井若(中央の70番)はいつもこのスタイルから相手の位置を把握し、向かっていった(撮影・篠原大輔)

「立命に負けたらどうしよう」

春のシーズンが終わった時点で、目標とする日本一にはほど遠いチームだと感じていた。「自分の体がどうこう言ってる場合じゃない、と思ってました」と井若。夏合宿のころには、最大のライバルである立命に負けたらどうしようという思いが、日に日に大きくなっていった。首についてはコーチから「ちょっとでも『こわい』と思ったら言えよ。キャプテンやからとか関係ない。今後の人生にリスクが大きいから」と言われたが、フットボールをプレーする分には大丈夫という思いがあり、続けていた。 

いよいよ学生最後のシーズンが始まる。リーグ初戦、相手は同志社大だった。ギリギリまで「負けるかもしれん」という不安を抱えながら準備した。「試合になったら、いちプレーヤーとして好きなだけ暴れたろう」と吹っ切れた。順当に開幕2連勝し、3戦目は京大だ。初戦で6年ぶりに関西大に勝ち、近年になく前評判が高かった。「アイツらがほんまに昔の京大みたいに覚悟を決めてきたらやばい」。仲間にそう伝え続け、伝統の関京戦に臨んだ。 

敵をなぎ倒す。井若のこんなプレーを幾度となく見た(撮影・篠原大輔)

14-0と関学リードで迎えた第2クオーター4分すぎ。京大にハーフライン付近からパスを通された。ロングゲインされそうだったが、DB(ディフェンスバック)の小椋拓海が鋭いタックルでファンブルさせ、攻撃権は関学に移った。このプレーが大きく関学に流れを引き寄せ、31-10で快勝した。小椋は箕面自由学園高校(大阪)時代から井若と一緒にプレーしてきた盟友だ。主将になった井若の感情が爆発しそうになるたび、先回りして同期や後輩たちにひとこと言ってくれた。 口だけじゃない。プレーでもチームを救ってくれた。

左腕一本で勝負、先輩には見透かされていた

井若は身長173cmOLにしては小さいが、闘志を前面に出し、プレー終了の笛が鳴り終わるまで相手にすべてをぶつけた。だからこそ、学生フットボール界を代表するOLになれた。その井若が、3回生の秋のリーグ戦後半から、プレースタイルを変えた。変えざるを得なかった。2回生で首を痛めて以来、右腕には力が入りにくくなっていたからだ。「もう、左腕一本で勝負しようと思ってました。いかに右を使わずに当たり勝てるかを考えてました」。1回生からずっと、5人が並ぶOLの中で左端に位置する左タックルが井若のポジション。熟練の域に入り、学生相手には当たり負けることも少なくなっていたからこそできた芸当でもあった。試合に出る3回生QBの西野航輝と光藤航哉の二人には、「困ったら左サイドに逃げてこい。俺が絶対に相手を圧倒してるから」と言ってあった。 

高校の後輩でもあるQB西野(18)の前を駆け、相手をブロックに向かう(撮影・篠原大輔)

そしてリーグ最終戦、立命との全勝決戦を迎えた。7-21で完敗。甲子園ボウルに進むためには、名古屋大に勝って、西日本代表決定戦で立命との再戦をものにしなければならない。すべてをかけた立命との戦いに臨む前の練習に、関学のOBたちが「仮想立命」として参加してくれた。その中に井若の高校の先輩で同じく関学の主将を務めた梶原誠人さん(現パナソニック)がいた。梶原さんはOLと相対するDL(ディフェンスライン)。井若は梶原さんから「何でプレースタイル変えてんの?」と聞かれた。限られた人にしか首や右腕のことを口にしていなかった井若は「変えてないです」と言い張った。しかし梶原さんにはお見通しだった。「首が痛くてプレースタイル変えるぐらいやったら、もうやめとけ。やるんやったら、死ぬ気でこい」。井若の中で何かがはじけた。腹をくくった。 

立命にリベンジしたが、甲子園で日大に敗戦

立命との再戦の前日。井若は大阪市内の実家に戻り、両親と4歳上の兄に決意を伝えた。「明日は命をかけていく」。号泣しながら言った。三人がそれぞれに言葉をかけてくれた。そして最後に「笑顔で帰ってこい」と言ってくれた。前回の対戦とは打って変わって、序盤から関学が圧倒した。34-3でリベンジし、甲子園ボウル出場を決めた。ただ、右肩は痛んだ。痛くて横になれかった。強い痛み止めを飲んで、何とか寝た。 

日大との甲子園ボウルを前に記者会見で語る(撮影・朝日新聞社)
日大主将の山崎奨悟(左)と記念撮影。二人は富士通でチームメイトに。寮の部屋も隣同士だった(撮影・朝日新聞社)

そして日大との甲子園ボウルに向けた練習が始まった。かつては甲子園でギリギリの勝負を繰り広げてきた「青(関学)と赤(日大)」だが、前回に甲子園で対戦した2014年には関学が55-10と大勝している。負けたら終わりの立命戦を乗り越えたこともあり、チーム全体に緩んだ雰囲気があった。井若を筆頭に4回生たちは「日大は強い。このままやったら負ける」と言い続けたが、立命との再戦前のような高まりを感じられないまま、決戦の日を迎えた。結果は17-23。井若の学生フットボールが終わった。 涙が止まらなかった。

亡き親友の73番をつけるために富士通へ

その翌日、井若はずっと自分を見守ってくれた親友に会いに行った。「ごめんな」。彼の実家の仏壇の前で言った。 

浦野遼平さんは箕面自由学園中、高でのチームメイトだ。高3の夏、練習試合の最中に熱中症になり、亡くなった。当時、井若はひどく落ち込んだ。アメフトもやめようと思った。それでも日が経つにつれ、考えが変わった。「ウラはほんまにアメフトが好きでした。中学のときに『一緒にアメフトやろうや』と言ってくれたのもアイツでした。その恩返しの意味も込めて、ウラの分まで大学でも思いっきりプレーしようと思ったんです」 

井若は大学時代、一枚の写真を、防具を入れるバッグにしのばせていた。高2のとき、試合に勝って浦野さんと抱き合っているシーンだ。試合が始まる前に必ずその写真を見て、「いってくるわ」と言ってから戦いに臨んでいた。「キャプテンで日本一になって、自慢したかったんですけどね……」と井若。親友には「これで一区切りや。ここからはお前の73番をつけようと思ってる」と伝えた。 

井若が防具を入れるバッグにしのばせていた写真。いまは一人暮らしの部屋に飾ってある(撮影・朝日新聞社)

富士通には3回生のころから声をかけてもらっていた。留年して「5回生」として後輩たちのコーチをし始めたころ、首に不安はあると伝えたうえで、翌年から富士通に入社してフロンティア-ズでプレーすることが決まった。 

73番をもらった翌日、「競技を続けるのはリスク高い」

上京して富士通に入社し、総務部に配属になった。前述のように、チームの筋力トレーニングに参加すると、また首や右腕に違和感があった。コーチに伝えて、医師の診察を受けることになった。5月のある日、チームから念願の73番のユニフォームをもらった。浦野さんが高校時代につけていた番号だ。その翌日、診察を受けた。大学時代と同じくMRI検査では異常がなかった。「頸椎(けいつい)損傷に似た症状」で、神経に何らかの問題がある、と言われた。「アメフトを続けるのはリスクが高い」というのが結論だった。チームに対して申し訳ない思いはもちろんあったが、井若は「フットボールをやめよう」と思った。73番をもらった翌日だっただけに、「もうやめとけ」と浦野さんに言われたような気がしたのだ。 

腹は決まっていたが、セカンドオピニオンを求めて駆け回った。アメフトを続ける方向へ後押ししてくれるような診断はなかった。練習すらできない分、コーチと一緒に対戦相手の分析をして、試合中は相手の動き方の特徴を先輩たちに伝えた。今年1月のライスボウルでチームは4連覇。そのあと、また診察に行ってみたが、変わらなかった。2019年度最後の全体ミーティングの日、チームに引退の意向を伝えた。 

今年1月のライスボウルの試合中、立命館大出身の猪熊星也としゃべる井若(撮影・北川直樹)

4回生のときは大学の近くで暮らしていたこともあり、家族には大学時代、このけがに関しては一切伝えていなかった。昨年12月のオフの日に大阪へ戻り、両親と兄に初めて言った。「首がこういう状況だから、アメフトやめようと思ってる」。両親は「そんなしんどい思いしてたんか。ごめんな」。兄は「やめたことが今後プラスになるような生き方せなアカンで」と言ってくれた。「この人たちが支えてくれたから、10年間アメフトができたんや」。心から、そう思った。

母校の高校のコーチに、経営者の夢も追う

引退後、母校の箕面自由学園高アメフト部のコーチになった。いまは新型コロナウイルス感染拡大の影響で大阪には戻れないが、オンラインで筋力トレーニングに励む高校生たちにアドバイスを送っている。「後輩やし、高校生はかわいいです。自分自身のフットボールに悔いはないです。究めるところまでやれました」。今後、状況が変われば、週末は大阪に戻って後輩たちの指導にあたるつもりだ。

今後は社業に専念するが、さまざまな経験を積み、将来は経営者になりたいという。「まずは、人がついてきてくれるような男になるのが先決やと思ってます」 

フィールドでは常に勝ち気で、アグレッシブ。井若大知は火の玉のようなOLだった。いろんな人に支えてもらった選手生活に、別れを告げた。

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