あこがれのUCLAで戦い抜き、芽生えた夢 オービック庄島辰尭(下)
アメリカンフットボールの本場で挑戦を続けてきた男が日本に戻ってきた。名門UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)でプレーしたOL(オフェンスライン)の庄島辰尭(しょうじま・たつあき、26)。アメリカでプロフットボーラーとして生きる夢を追いながら、今年は社会人Xリーグの強豪オービックシーガルズの一員として戦う。庄島のストーリーの後編はNCAA(全米大学体育協会)1部校への編入を見すえて入ったサンタモニカカレッジでの奮闘から、現在に至るまでの歩みです。
アメリカでのニックネームは「ジオ」
庄島は家族から「ギョウ」と呼ばれてきた。名前の「尭」の音読みからだ。ロサンゼルスの高校に入って以降は「ギョウ」がアメリカ人には発音しにくいため「ジオ」と呼ばれた。のちにUCLAに進むとジオという名字の選手がいて、「ショウ」になった。
2012年9月、2年制のサンタモニカカレッジに入った。そこからUCLAに奨学金をもらって編入するという計算があった。「ロサンゼルスの実家に近くて、一番編入率の高いコミュニティカレッジを選びました」と庄島。1年目はフットボールチームに入らなかった。「まだまだ体のサイズもトレーニングも足りてなかったので、時間稼ぎが必要でした。最初の1年は勉強をしっかりやりながら鍛える期間にすることにしました」。こうして積み上げてきたトレーニングの成果でいま、クリーン160kg、デッドリフト220kg、ベンチプレスは165kgを支える。
炎に燃えた選手たちとの争い
予定通り、2年目にチームに入った。想像以上に過酷な毎日が待っていた。「コミュニティカレッジには、ここを次へのステップとして考えている選手がたくさんいます。学業の面が足りなかったり、生活面で過ちを犯して高校からストレートで大学に行けなかった選手もいて、炎に燃えた選手たちが集まってました」。練習は、ほぼ殴り合いのようだった。南カリフォルニア地区のコミュニティカレッジのルールで、防具をつけて練習していいのはシーズン直前の8月になってから。それ以前の練習では毎日のようにシャツが破れ、顔はあざだらけになった。
高校時代から、OL5人が並ぶ真ん中のポジションであるセンター。シーズン当初はセンターの両隣に位置するガードだったが、レギュラーのセンターがけがをして、シーズンの途中からオフェンスの真ん中でプレーした。日々の練習では必ず最初に入り、決して抜けなかった。カンファレンスで全勝優勝を果たした。そして翌年はキャプテンを任され、不動のセンターとして戦った。「戦う、競争するってのが楽しいと感じられるようになりました。フットボールは競争心がすべてだと思うので、それが楽しくなったのは自分のフットボールキャリアにすごく役立ってるのかなと思います」
UCLAのスカウトがやってきた!
庄島のもとにはいくつかの大学フットボールチームから、編入のオファーが舞い込んだ。その中には奨学金を受けられるという話もあった。そして、ついにUCLAのスカウトがやってきた。「プリファードウォークオン」という条件を提示された。奨学金はもらえないが、NFLに数多くの選手を送り出しているUCLAに推薦編入できる。迷わなかった。「学業の面とスポーツの面の両方で考えたときにベストだったのがUCLAだったので、息をつく間もなく決めました。一歩踏めたのかな、という気持ちはありました」
3年生として編入する際、庄島は地理環境学を専攻した。サンタモニカカレッジのころ、UCLAに進むためにもNCAAの1部で戦うためにも、食事を大事にするようになった。食について考えていくうち、農作物や環境への興味がわいてきていた。UCLAは地理環境学の分野で全米でもトップレベル。「ここで学んだことは今後絶対に生きるはずだ」と選んだ。
UCLAブルーインズの一員となった庄島は、再び1年間の「時間稼ぎ」をすることにした。「自分が2年だけで功績を残すのは無理だと思ってました。また時間稼ぎをしないといけない」。庄島はコーチに「レッド・シャーツ」となることを申し出た。いわゆる練習生で、試合には出られない。「チームには入れましたが、常にカットされるリスクがあります。最初の一年で信頼を勝ちとって、2年目、3年目で勝利に貢献できるメンバーになろうと」。日々の練習では専ら「スカウトチーム」のOLを担った。対戦相手のオフェンスになりきり、UCLAの1軍ディフェンスと戦った。「とくにDL(ディフェンスライン)とLB(ラインバッカー)には、いまNFLで活躍してる選手たちがいたので、そういう選手たちと毎日当たってもまれるのは、いいトレーニングになりました」
勉強は「やらなきゃいけない任務」
NCAAのルールで練習回数や時間が決まっている。「シーズン中は当たったりする練習が火、水、木しかなかったです。月、火、水と筋トレがあるんですけど、トレーニングは朝の6時から7時ぐらいまで。練習が7時半から9時までという形でした。そのあと授業があって、終わったら午後4時ぐらいからミーティングで、全部終わるのが6時半ぐらいでした。それ以降が自由時間ですが、大体が授業で出された課題や自主的なトレーニングに費やされるので、結構カツカツでした。勉強に対して特別に努力したというよりは、学生アスリートとしてやらなきゃいけない任務だと思ってましたので、やらなきゃいけないことはやろうよということだけ考えてやってました」
これがNCAAの文化だ。庄島の言葉に出た「学生(スチューデント)アスリート」。ある一定の成績を保っていないとチームから追放されることもあるし、試合に出られなくなったり、チーム自体に罰則が下ることもある。「選手一人ひとりの自己管理が大事になります。もし必要ならチームに所属しているカウンセラーに相談したり、チューターをつけてもらったりもできます。リソースはたくさんあるので、言い訳はできない環境になってます」。地理環境学を専攻した庄島は優れた学業成績を残した。
練習でもミーティングでもアピール
練習生としての最初の1年が終わり、いよいよUCLAのセンターとして試合出場を目指す日々が始まった。UCLAには120人ほどのメンバーがいて、試合に出られるのは半分ほどだ。レギュラー以外のメンバーは、どうしても練習に入れる頻度が低くなる。「限られた練習をムダにしないことと、同じミスは2度とやらない。そもそもミス自体を減らすように意識してました」
ミーティングでは戦術理解度の高さをアピールした。OLだけでなくすべてのポジションの動きを頭にたたき込んでいた。ボードにアサイメント(プレーにおける役割分担)を書き込むときは、絶対に間違えないようにした。「あいつがプレーに入ってるときは何もコーチングしなくていい。ほかの選手が分かっていなくても庄島が教えてくれる、という信頼を得るために、常に何をすればいいか考えてました」。フットボールの頭の面で役にたったのが、1年目のスカウトチームでの経験だ。あらゆる大学のオフェンスをシミュレーションしたため、いろんな考え方が自然と頭に入っていた。
センターとしてレギュラーの座は勝ちとれなかったが、シーズン2戦目で出番が来た。もともと点差が開いて出番が回ってくる予感があった。だから、この試合に向けた練習ではとくに頑張っていた。予想通りの展開になり、庄島はヘッドコーチに強い視線を送っていたという。するとヘッドコーチが振り向き、「ショウ、行ってこい!」。弾むような声で応じた。たった5プレーではあったが、一つのミスもなくセンターとして役割を果たした。「日本人初のNCAA1部出場」と報道されたが、9歳からアメリカで暮らす庄島にとっては「日本人初」に特別な意識はなかったという。「日本人かどうかというよりは、どんな形でも試合に貢献するというのが自分のモットーでした。大差がついた後ではありましたけど、チームに貢献できたのがうれしかったので、もうそれだけの気持ちでした。そのうれしさでいっぱいでした」
パントの「シールド」で5試合出場
3戦目からは攻撃権放棄のパントを蹴るとき、パンターの前で相手の突進をはね返す「シールド」という役割を担う3人のうちの一人として試合に出るようになった。このシーズンは5試合でシールドとしての出番があった。シールドはどんなに強い当たりを受けても、絶対に後退してはならない。パンターのキックに悪影響となってしまうからだ。「強烈な当たりを食い止めたあとに相手のリターナーをタックルしに行かないといけないので、誰でもやれるポジションではないです。どんな形でもフィールドに立ちたい気持ちがあったので、自分はスペシャルチームのコーチに願い出て、練習でアピールしてシールドで出られました」
UCLAでの本格的な挑戦1年目はセンターで1試合、パントで5試合の出場だった。「一つ階段を上がれたかなという気持ちがあったんですが、自分が思い描いた目標はUCLAでセンターとしてレギュラーをとることだったので。2人目のセンターというポジションにはなれましたけど、レギュラーは何万歩も遠いところだったので、まったくうれしくはなかったです」。そしていよいよUCLAでのラストイヤーがやってきた。
70人の遠征メンバーに入り続けた
「UCLAで自分の名前を刻めるのは泣いても笑っても最後の年だったので、気張ることなく自分のできることをしっかりやって、結果は後からついてくるだろうと思ってました」。結局、目標としたセンターのレギュラーの座は遠いままだった。このシーズンもセンターとして出たのは1試合だけ。パントではボウルゲームも含めて全13試合に出た。遠征のときは120人から選ばれた70人だけがバスに乗って空港へ向かい、駐機場にあるチームのチャーター機に横付けして、乗り込む。この70人の「トラベルチーム」に入り続けるのも一つの目標だった。これはラストイヤーで達成できた。
かつてアメリカから1年間日本に戻り、都立西高に通った。サンタモニカカレッジの最初の1年はチームに入らなかった。UCLAでも最初の1年は準備にあてた。両親の協力もあって、三つの「時間稼ぎ」の期間を得た。その時間も含めたトレーニングの結果、庄島は身長187cm、体重137kgという立派なラインになった。そしてあこがれのUCLAで戦い抜き、「フットボールで目指せるところまで目指したい」と、プロになる夢が芽生えた。
プロに挑戦する一方で始めたコンサルティング事業
2018年6月の卒業を前にして、3月にUCLAで「プロデイ」が開催された。NFLのスカウトが集まり、その前で自分の身体能力や選手としての力量を披露する。庄島は49ersのOLコーチに声をかけてもらい、数日後に改めてプライベートワークアウトのチャンスを得た。その後、連絡はなかった。卒業後も企業でインターンをやりつつ、アメリカのリーグでプロフットボール選手となるチャンスを探った。昨年は今回のコロナ渦で破産申請に追い込まれたXFLのショーケースにも出た。ロサンゼルスのチームから声がかかり、プライベートワークアウトに臨んだが、進展はなかった。
その間、アメリカで事業に着手していた。人工衛星のデータを用いた自治体などへのコンサルティング。UCLAで学んだ地理環境学につながる仕事だ。「インターンをやりながら、いろいろノウハウをつくっていきました」。ただ、夢を見ているだけの男ではない。UCLA時代にはNCAAが推奨する「ネットワークイベント」で、卒業生の知識人やビジネスで活躍している人の話を聞く機会があった。これが、とても有益だったという。
日本に戻るならシーガルズ
フットボールに関して今後どうするかを考える中で、日本でのプレーが選択肢の一つになった。都立西高校にいたころ、オービックシーガルズのクリニックに参加したことがあった。そのとき教わったテクニックがUCLAでも生きた。さらに、かつてシーガルズのOLでスタンフォード大学でコーチをしている河田剛さんと、シーガルズのオフェンスアドバイザーである濱部昇さんは庄島が師匠と呼ぶ人たちだ。アメリカの高校でセンターを始めたころに二人に出会い、いろいろと教えてもらった。だから日本でやるならシーガルズだな、と思うようになった。以前、今シーズンからシーガルズのヘッドコーチに復帰した大橋誠さんからも日本の社会人フットボールについて話を聞き、連絡先も聞いていた。今年になって連絡を取り、単身帰国してシーガルズでフットボールをやりながら、アメリカで始めた事業を継続し、アメリカでプロフットボーラーとして生きる夢も追い続けることにした。
10月に予定される社会人Xリーグの開幕へ向け、シーガルズの練習が段階的に再開されたばかりだ。庄島の新たな挑戦が始まった。「チームがこの厳しい期間の中でも準備を怠らずに続けてきたというのは、ファンの方たちに感謝の気持ちを込めて示していかないといけないと思います。とくにOLは個人のポジションではないので、5人が連携してファンのみなさんにしっかり成長したところを見せないと。自分がやんなきゃいけないのは、しっかり自分の仕事をまっとうして、守らなきゃいけない人を守って、チームメイトを守って、自分の身を守って、いかなる形でも試合の勝利に貢献する。ルーキーとしてロスター争いにも勝たないといけないし、レギュラーの座も勝ちとらないといけない立場です。いかに争いに勝ちながらチームの役に立てるか。それ以外のことは何も考えてないです」
OLほど男らしいポジションはない
最後にセンターをやっている中での喜びについて尋ねた。「センターだけではなくOLの仕事は、目の前にいる相手の選手の意志とは裏腹に(ボールを)A地点からB地点に動かすことです。これ以上男らしいポジションはない。自分たちの誇りです」
最高峰のOL魂を持った男が、日本に帰ってきた。