見逃し三振で終わった高校野球、京大アメフト部で変わった人生 富士通OL町野友哉
アメリカンフットボールの社会人Xリーグは10月24日に開幕する予定だ。史上初の5連覇を狙う富士通フロンティアーズにこの春、でっかい男が加わった。身長197cm、体重136kgのOL(オフェンスライン)町野友哉(23)。町野は岐阜県立大垣北高校では野球部だったが、思うように活躍できず、悔いを残して高校野球生活を終えた。それが京大でアメフトに出会い、人生が変わったという。彼にこれまでの道のりを振り返ってもらい、アメフトの可能性について聞いた。
Xリーグの初戦からスターターに!
巨体の持ち主が居並ぶ富士通のOL陣の中にあっても、ひときわデカい。町野はいま、京大時代にプレーしたT(タックル)に加え、G(ガード)でも練習している。「海外のリーグでプレーしたいという思いがあるので、日本でのプレーの映像がないと売り込めない。その意味でも試合に出ないと始まらないので、すごいOLがいっぱいいるんですけど、チーム内の競争に勝って初戦からスターターで出られるようにしたいです」。充実感に満ちた表情で、町野が言った。
身長185cmの父と168cmの母の間に生まれ、岐阜県大垣市で育った。二つ上の兄の後を追うように、小学1年で野球を始めた。岐阜だけに中日ドラゴンズのファンで、立浪和義にあこがれていた。身長は小学校を卒業するときに168cmあり、中学で20cmほど伸びて189cmで高校へ。高校でも5cm伸びて194cmになり、いま197cmだ。
中2の夏、試合のマウンドで右腕を骨折
グッと身長が伸びた中学時代は、3度も骨折した。中2の夏の練習試合。軟式野球で、町野はピッチャーだった。キャッチャーに向かって投げたのにボールが三塁側ベンチの方向に飛び、右の上腕部に激痛が走った。ここまでの人生で一番の痛み。救急車で運ばれた。レントゲン写真を見せられると、骨にスパッときれいな線が入っていた。1年ほど野球ができなかった。ほかにもサッカーとバスケットボールをやっているときに骨折した。「3回も骨折したので、そのときにホルモン的なものが分泌されて一気に背が伸びたんじゃないかという説を唱えてるんです」。何だかうれしそうに、町野が語る。
右腕の骨折から復活してピッチャーに挑戦してみたが、思うように投げられなくてファーストに回った。進学校の大垣北高校に進んでからもずっとファーストだった。体重は80kgほどだったが、チームで足が一番遅く、50mで7秒を切れたことがなかった。オフシーズンに取り組む長距離走は輪をかけて苦手で、いつも最後尾を走っていた。高2の夏の岐阜大会初戦で負け、町野らが最上級生になったタイミングで、6番ファーストのレギュラーをつかんだ。
高3夏の岐阜大会初戦でホームラン
最後の夏を目の前にした高3の5月、町野のバッティングの調子が上がってきた。岐阜大会には4番で臨むことになった。1回戦の高山工業戦は10-4の快勝。町野はソロホームランを放った。追い込まれたあとのカーブにバットを合わせると、大垣市北公園野球場のレフトフェンスを越え、白球が芝生で弾んだ。「あの試合はもう1本ヒットが出て、『いったろう』みたいな感じになりました」。しかし、続かない。2回戦の羽島北戦(5-1)は5打数ノーヒット。「確かバントを2回ミスってて。ぜんぜんいいところがなかったです」。好調のチームに置いていかれ始めた。3回戦の岐阜第一戦(4-2)は4打数1安打、4回戦の多治見工業戦(10-7)は2打数ノーヒットで代走を出された。
そして迎えた準々決勝の岐阜総合学園戦。0-1とリードされた六回、2死満塁で町野。4番にとってはこれ以上ない見せどころだ。しかし、キャッチャーフライ。「バックネットのギリギリのところで捕られました。前にさえ飛ばせない、一番面白くない結果でした」。0-2となった九回の打席は、見逃し三振。「インコースのまっすぐに腰を引く感じで……。一番悔いが残る終わり方で」。そのまま負けて高校野球が終わり、町野は泣いた。ベスト8に進んだチームにあって、4番は20打数3安打1打点。バスで長良川球場から高校に戻る間もずっと泣いた。高校に着いて、また泣いた。
高校野球での悔しさを抱えたまま、受験勉強が始まった。最初は東大を志望していたが、模試の結果を見て11月に京大一本に絞った。センター試験は9割とれて成功だったが、京大は2次試験の配点が高い。2次の数学で1問も「完答」できず、不合格を確信。後期日程で出願した神戸大の受験に備えていた。「どうせ落ちてるだろうな」と思いながらネットで確認すると、工学部工業化学科に受かっていた。見逃し三振の号泣から7カ月半、町野はうれし涙に暮れた。
京大に現役合格、群がってきたギャングたち
身長190cm超の男を、「勧誘命」の京大アメフト部が放っておくはずがない。入学前に資料の入った「やったね袋」をもらうために京大へ行ったとき、ギャングスターズの勧誘軍団に取り囲まれた。京大には水野彌一元監督の時代から、「とにかく身長の高いヤツを最優先で勧誘しろ」との掟(おきて)がある。「身長さえあれば、あとからナンボでも食わせたらええんや」という訳だ。ただ、町野にアメフトをやる気はなかった。中学で3度、高校でも3度骨折した息子に、両親は「そんな危険なのはやめときなさい」と言った。
ギャングは切り札を出してきた。町野は当時の西村大介監督と食事に行くことになった。そこで話のうまい西村監督に言われた。「お前だったら、7割の可能性で大学日本代表になれる」と。「日本代表」というパワーワードに、「7割」という何とも現実的っぽい数字。町野は心をわしづかみにされた。「野球を続けようかと思ったんですけど、野球で日本代表なんて縁がないので、カッコいいなと思いました。自分の身長を生かすならアメフトかな、と考えて入部することにしました」
とはいえアメフトのことはほとんど知らない。始めて見た試合である京大-同志社戦で活躍した背の高いWR(ワイドレシーバー)の先輩にあこがれ、WRになりたいと思った。6月に1回生のポジションが決まるのを前に、第3希望までを書いて提出することになった。町野はTE(タイトエンド)、WR、OLの順で書いた。OLはただ、数合わせで書いた。そのOLになった。「嫌でしたね、正直(笑)。危なそうだし、そんなに太りたくなかったし。地味だし、ボールに触れないし」。町野のOL道がスタートした。
2回生からOLのスターターに
1回生のときはOLとしての出番はなかった。相手がフィールドゴールを狙う際、キックをブロックするためのジャンプ要員としてだけ、試合に出た。町野には秋のリーグ初戦の試合前が印象的だった。「いきなり立命戦だったんですけど、試合前に4回生がみんな泣いてて、その雰囲気がすごかった。4年間やってきた思いがにじみ出てたので、すごいと思いました」
2回生から左Tのスターターになった。体重は110kgぐらいまで増えていた。町野は1回生でOLになったときから、太るために1日4食か5食の生活をしていた。夜はアメフト部のクラブハウスで必ず米を1kg食べた。「秋のリーグ戦で本気の関学、立命、関大とやって、こわかったです。立命のDL(ディフェンスライン)だった松原健太朗さんにはボコボコにされました。でも、目指すレベルを肌で感じられたのはよかった」
3回生の春は交流戦や定期戦で活躍できた実感があった。チームも春は全勝だった。「そのころから、自分が引っ張っていかなあかんと思い始めたし、OLを楽しめるようになりました」。秋のシーズンは初戦で関大に6年ぶりに勝ち、続く龍谷大戦にも大勝して、3戦目で関学とぶつかった。2004年以来の関学戦勝利かと騒がれたが、10-31の完敗だった。「1対1の勝負でぜんぜん勝てませんでした」。立命にも負け、5勝2敗でシーズンを終えた。
4回生ばかり5人で組んだOLユニット
2018年、いよいよ学生ラストイヤーがやってきた。町野はOLのパートリーダーになった。前年までオフェンスを引っ張ってきた田中大輔、山本拓磨の両QB(クオーターバック)が抜けたが、OLのスターターには町野をはじめ4回生が5人そろった。「4回生5人で組めるのはうれしかったです。もともと仲がよくて四六時中一緒にいたので、この5人でランを進めて勝たせるしかない。やるしかないと思ってました」。町野の体重は高3から約40kg増えて122kgになった。6月には大学日本代表に選ばれ、中国での大学世界選手権に臨んだ。入部のきっかけになった「7割の可能性で大学日本代表になれる」という言葉は現実のものになった。しかし、最後の秋のシーズンは神戸、近大、関学、立命に負けて2勝4敗で関大との最終戦を迎えた。
関大との最終戦を前に、京大のRB(ランニングバック)佐藤航生(現IBM)がラン獲得距離で2位の選手に55ydの差をつけてトップに立っていた。4回生のOLたちは自分たちのブロックで佐藤をリーディングラッシャーにして、関大に勝つという目標を掲げた。京大オフェンスは57プレー中47プレーがラン。町野ら5人のOLは粘り強いブロックを繰り返し、佐藤は30回ボールを託され、気迫の走りで224ydを獲得して三つのタッチダウンを決めた。30-21での快勝。まさにランでの勝利。佐藤はリーディングラッシャーに輝いた。試合後、京大の選手ほとんどが号泣していた。もちろん町野も。「悔しさとうれしさがありました。日本一になれなかったというのがどうしても残ったんですけど、4年間必死でやりきれた感じはあって、そこはよかったのかなと思いました」
単位が足りずに留年して「5回生コーチ」となることは決まっていたが、町野には社会人になってもアメフトを続ける気はなく、2019年になって一般的な就活を始めた。しかしインターンを経験するうち、フットボールに心がひかれた。そのうち2024年か28年のオリンピックでアメフトが競技に入る可能性があるというニュースに接した。それならオリンピックを目指すのも面白いと感じ始め、アメフトに打ち込む方向に突き抜けるのもいいんじゃないかと思った。海外のプロリーグに挑戦することを考え始め、いろんな人に相談した。京大野球部から2014年のドラフト2巡目で千葉ロッテに入った経験のある田中英祐さんにも会いに行った。誰もが「面白いと思う」と背中を押してくれた。5月には海外挑戦の腹を決めた。そして企業チームのある富士通に就職が決まった。
周囲の協力で、たて続けに海外挑戦
周囲の人たちが力を貸してくれたこともあり、昨年7月にアメリカでXFLのトライアウトを受けられた。10月にはドイツでNFLのインターナショナルコンバインに参戦、今年1月にはプロを目指すアメリカの大学生たちが集まるトライアウトに特別に参加させてもらった。2月にはカナダのプロリーグCFLのジャパントライアウトにパスし、3月末にグローバルコンバインを受けるはずだったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期となり、いまもリーグ自体が開催されるのかどうか不透明な状況だ。町野は5月から英語学習のコンサルタントを受け、1日3時間の勉強を続けている。
社会人になってからも体重を増やし続け、いま136kgまできた。最終的に140kgまで増やしたいと考えている。高校時代は野球部で最も足が遅かったが、OLの世界では俊敏性に長(た)けた選手として通っている。
アメフトは何か一つ「武器」があればいい
アメフトという競技の持つ可能性について、町野に尋ねた。
「高校まではほんとに活躍できなくて、チームメイトからも『そんなにデカいのに何でしょぼいん?』みたいにイジられてました。それがほんとに悔しくて、それならいっそ、このサイズじゃない方がよかったなとまで思ってました。でもアメフトをやっていく中で、この身長があるからこそ活躍できたのもあるし、いまこうやって海外挑戦ができてるのもある。この体が『うらやましい』と言われることもいっぱいあって、両親には大きく生み育ててもらってほんとにありがたいと感じられるようになりました」
「僕はたまたま身長だったけど、アメフトには自分の特長を生かせる場所が必ずあると思うんです。京大の1学年上だったRB入山(鼓)さんみたいに小さくても、クイックネスがあればランナーとして活躍できるし、体が弱かったとしても頭を使ってアナライジングスタッフとして活躍できる。誰でも活躍できる可能性があるスポーツってなかなかないと思います。野球は最低限打って守れないと活躍できないけど、アメフトは何か一つ『武器』があれば、そこをとがらせて、僕みたいに大学から始めても日本代表になれて海外挑戦もできる。すごく魅力的なスポーツじゃないかと思います」
町野にOLとしての喜びを尋ねた。
「ほぼ格闘技の世界で、体一つで勝負できる面白さがあります。自分の鍛えた体と技術で相手を倒す。そこに偶然の要素ってあんまりなくて。OLとDLの勝負は、力の差があれば、それが顕著に出るというか。ごまかしが効かないんですよね。そこで自分が積み上げてきたものを全部ぶつけて、その結果で白黒がはっきりつく。これが個人的にすごく面白い。男の勝負って感じですね。WRだったらQBがいいところに投げてくれるかどうかという外的要因がある。でもOLとDLの勝負にはそれがない。言い訳できないところが、OLの面白さだと思います」
このスポーツがあってくれてよかった
この世にアメフトというスポーツがあってよかったですか?
「アメフトに出会えて人生が変わりましたから、ほんとにそう思います。なかったら、ただ背が高いだけのサラリーマンになってたと思います」
見逃し三振で終わって泣いた町野は、もういない。ひたすらに挑戦を続ける。