立命館大学のセンター永福大悟、オフェンスの真ん中に賢くて強い男がいる
アメリカンフットボールの関西学生リーグ1部は11月28日にトーナメント決勝があり、立命館大学が5年ぶりの甲子園ボウル出場をかけて関西学院大学に挑む。立命オフェンスを支える5人のOL(オフェンスライン)の真ん中にいるC(センター)を担うのが、永福(ながふく)大悟(4年、立命館宇治)だ。1年生からCのスターターとして試合に出てきたが、2、3年生のときは控えに甘んじた。ラストイヤーに再び立命オフェンスの起点となり、最後の関学戦に臨む。
11月8日の関西大学との準決勝の試合前、永福はスタートのQB(クオーターバック)を務める庭山大空(1年、立命館宇治)と何度もスナップを合わせた。大事な試合を任されたルーキーに、和やかな表情で声をかけていた。試合中はいつものように、プレー直前までディフェンスを見渡して情報収集。すばやく周りのOLと情報を共有した上で、体を張った。「より一層気を引き締めて、OLがQBを守らないと。毎年、関学に負けてるんで」。思わずこっちの表情も引き締まるような口調で言った。
「アメフト欲」で甲府から川崎通い
永福は京都の立命館宇治高出身だが、関西で生まれ育ってはいない。岡山で生まれた後、山梨、岡山、佐賀、山梨と移ってきた。小学2年生の時、佐賀でサッカーとラグビーを同時に始めた。父の信育(のぶやす)さんが岡山大学と社会人のクラブチームでアメフトをやっていて、家にはだ円形のボールがあった。だから永福は本来、アメフトをやりたかったが、佐賀にその環境はなかったという。友だちに連れられてサッカーを始め、「アメフト欲」を満たすためにラグビーも始めたのだった。
小学5年生のときに山梨に移り、スポーツ少年団で2年間ドッジボールに没頭した。中学生になるときに「アメフト欲」が抑えられなくなり、親に「アメフトがやりたい」とお願いした。父が神奈川で活動する「川崎ジュニアグリーンマシーン」というチームを探してくれた。専修大学アメフト部が結成した中学生のクラブチームで、毎週日曜日に活動している。ここに入ることにした。だから山梨の中学校の部活は極力週末に自由がきくようにと考えた。学校では卓球部に入った。当時すでに身長170cm、体重80kgあり、大きな卓球部員の誕生だった。
ようやく始められたアメフトは、日曜になると甲府市から川崎市まで片道2時間、父が車を運転して連れていってくれた。ジュニアグリーンマシーンではOLのG(ガード)かT(タックル)でプレーし、DL(ディフェンスライン)も兼任した。
足跡マークのヘルメット、立命館宇治高へ
英語の勉強は好きだった。最初に山梨にいた3歳のころから英会話教室に通った。アットホームな雰囲気で、遊びに行っている感覚だった。佐賀でも続け、山梨に戻っても続けた。中3で志望校を決める時期になり、アメフト部があって、英語に力を入れている学校を考えた。そうやってでてきたのが立命館宇治高だった。祖父母の家から通えることもあり、推薦で受験して入学した。高1の時には校内の英語スピーチ大会に出て学年トップになっている。
少し時間を戻すと、中3で立宇治アメフト部の練習体験会に参加した時、永福は「あっ、このチームか!」と驚いた。エンジ色のヘルメットに動物の足跡のマーク。鮮明な記憶があった。幼稚園のころ、父がパソコンで試合を見ていたチームだったのだ。思いがけず「再会」を果たしたヘルメットをかぶって、高1からRB(ランニングバック)の中でもブロッカーになることが多いFB(フルバック)とTE(タイトエンド)で試合に出た。
そして高2からCひとすじだ。高校日本一を決めるクリスマスボウル出場へ最も近づいたのが高1のとき。秋の全国選手権関西地区決勝で関西学院(兵庫)と対戦。17-24で負けた。高2のときは関西地区2回戦で啓明学院(兵庫)に20-31で敗れ、ラストチャンスはまた関学に関西地区2回戦で7-28と大敗した。打倒関学への思いが、積み重なり始めていた。
1年生からセンターに抜擢
高3のある日、当時、立命館大の監督だった米倉輝さんが立宇治へやってきた。自身もずっとOLだった米倉監督は永福に「来年から(レギュラーに)入れるからな」と告げた。「僕がですか!?」。永福は驚いた。もっとすごい人がいっぱいいるだろうに……。「レベルが高いんだろうな」という不安も持ちながら入学。5月にけがをして、北海道での夏合宿から本格的に1本目の練習に入るようになった。
立命ではたまにオフェンスとディフェンスの1本目同士が試合形式で対戦することがある。これはまいった。当時の永福にとって木保慎太郎や島野純三といった4年生のDLは強すぎた。ただ身長188cmで体重が120kg以上あった木保より大きな相手はいない。「木保さんに押されなければ試合では大丈夫」と、自信にもなっていった。
秋のシーズン初戦の桃山学院大学戦からCのスターターとして出場。どんなチームであれOLを1年生に任せるのは珍しいが、ミスが大きな痛手につながりやすいCはとくに珍しい。私が当時の米倉監督に1年生をCで起用している理由を尋ねると「アイツは賢いんです」と返ってきた。OLのほかの4人は4年生が3人で3年生が1人だった。上級生に助けられながら、永福は必死で自分の役割をまっとうしようとした。
ボールをスナップする相手のQBは関西を代表する選手になっていた4年生の西山雄斗で、永福の言葉を借りると「ど緊張」した。ショットガンのスナップをプレーによって左右にずらすのも高校時代ではあり得ないテクニック。授業の空きコマの時間を使って、ネットに向かってスナップを出し続けた。1年生のシーズンは関学にリーグ戦で勝ち、甲子園ボウルの西日本代表決定戦で完敗した。
2年の途中からレギュラーを外れる
春のけがが完治しないまま、だましだまし乗りきった。だから2年生の春は練習に入らず、しっかり治すための時間に使った。夏合宿の最終日にようやく練習に合流。練習ができない間、4年生OLで主将の安東純一を中心にチームができあがっていく過程を目の当たりにした。高校からの2学年先輩である安東を「すごいな」と思った。
2年生の秋のリーグ戦も初戦と2戦目はCとして出た。だがその後は1学年上の先輩にレギュラーの座を奪われた。2戦2敗の関学戦も出られなかった。3年生の秋のシーズンも先輩より下の評価のままで、大差で勝っている試合の途中から出るだけの立場になってしまった。関学にリーグ戦で勝ち、西日本代表決定戦で負けた、甲子園ボウルに出られないまま、3年生も終わった。「1回生ですぐ試合に出たときは『4年間突っ走ろう』と思ってたんですけどね」。永福が苦笑いで言う。
テクニックとスピードはあっても、自分にはCに必須のパワーが足りない。自覚していたから、ラストイヤーを迎えるにあたって下半身の筋トレに励んだ。そんな中、かつて立命の名WR(ワイドレシーバー)で、この春にコーチに就任した長谷川昌泳さんに金言をもらった。練習後に雑談をしている中で、こう言われた。「やっぱりフットボールはOLやねん。戦術的なことに走りがちやけど、低く、速く、強くが一番やで」と。大事なことを思い起こさせてくれた言葉に、永福は感謝している。
CはOLの中でも特殊なポジションだ。QBにボールを渡すという大仕事があった上で、相手をブロックするなりパスプロテクションしないといけない。永福は言う。「センターは力強いプレーとクレバーなプレーをしないといけないんです。OLの司令塔だから、力強くて賢くないとダメです」。その理想像に向かって、高2からずっとOLの真ん中でやってきた。
OLとしての喜びを永福に尋ねた。すると、聞いてもいないのに反対の感情にまで言及した。「OLのおかげで走れた、ってほめられることでモチベーションが上がります。悔しいのは試合に負けること。その次にチーム内での信頼を失うことです」
準決勝に向けた練習でOLにミスが重なった時、チーム内で「OL、勝つ気あるんか?」という声が上がった。立命のOLはそれ以来、「誰にもそんなことは言わせない」との思いで日々の練習に取り組む。
5学年下の弟・大修(たいしゅう)は立命館宇治高2年生のOLで、今年から右Tのスターターだ。弟もクリスマスボウル出場への戦いが続いている。兄について「偉大で身近な目標で、ステップとか技術を教えてくれます」と話した。最後の関学戦に向けた激励のメッセージをお願いすると、「頑張ってほしいです」と短く答えた。
初の甲子園、日本一へ
いざ、人生最後の関学戦。永福は言う。
「DLが強いので、彼らを押し返す強さが大事になってきます。それと、やっぱりクレバーさが必要です。ここで負けたら、中学時代に甲府から川崎まで毎週送ってくれた親や、お世話になった先輩たちに恩返しができない。勝って初めて甲子園に行って日本一になります」
強く、賢く。フットボールファンのみなさんには、ぜひ立命の51番を見ていてほしい。