初の甲子園ボウル目指す桜美林大学、「伝説の1000ydラッシャー」からのエール
関東大学アメリカンフットボールリーグ1部TOP8は11月29日、甲子園ボウル出場をかけて桜美林大学と日本大学が対戦する。1968年創部の桜美林は今年初めてTOP8に昇格し、初の甲子園を目指す。前身の「さつきリーグ」時代に伝説のランナーとして活躍したOBの山本浩且(ひろかず)さん(60)に、35回目の甲子園を目指す名門・日大に挑む後輩たちへのエールをもらった。
29日、35回目の出場目指す日本大学に挑戦
古豪の東京・聖学院高アメフト部で活躍していた山本さんは「先輩もいて、『楽しいよ』と声をかけてもらった」と桜美林大へ進むことを決めた。高校2年の夏、第58回全国高校野球選手権(1976年)では桜美林(西東京)が初出場初優勝した。くしくも桜美林の名が、一風変わった校歌とともに全国に知れ渡っていた。
当時、関東の大学は東京七大学や関東八大学など複数のリーグが並列していた。1972年からさつきリーグに加わった桜美林はやや低迷しており、立て直しに1期生だった名取保監督が就任し復活を目指していた。「よくある話ですけど、入ると『全然、違うじゃない』と。走ってばかりで陸上部か、なんて言われました」と山本さん。練習は厳しかった。2年でチームが復活優勝すると、連覇した3年の時に、とてつもない記録を打ち立てた。
ディフェンスも出場し、7試合で1233yd獲得
リーグ7試合で通算獲得距離が1233ydとなり、「1000ydラッシャー」となった。関東学連によると現行制になった1981年以降、計9人が記録しているという。レベルも試合数も違うが、1999年の明大・瀬畑圭介がマークした歴代トップの1260ydに次ぐ記録に相当するという。明治学院大学戦では360yd走りまくったと記憶している。
桜美林の部員は30人ほど。オフェンスでもディフェンスでも出場し続けての到達だった。
「それは当たり前ですね。ランニングバックでテールバックという位置で走る役でした。それをやって、ディフェンスはローバー、今で言うラインバッカーみたいな役。それから、キックリターンにパントリターン。全部です。4年の時、やっとパントリターンだけ交代できるようになりました」
身長164cm。ずば抜けて足が速いわけではなく、相手に触られないで走りきることを考え続けた。自分の前で相手をブロックしてくれるアップバック(UB)に高校からの後輩の赤田浩義さんがいて、進路を開けてくれたのも大きかった。「2人は兄弟みたいなものでした。コース取りが命だった」
獲得した距離より、ファンブルをした記憶がないことの方が誇りだという。1年の時、練習で落球したことがあった。ナイター設備がない中、だ円球に白い石灰をつけて、グランド端の街灯を頼りに、自分に合うランニング姿勢を求め続けた。「一人ひとりボールの持ち方には個人差がある。手の大きさも違う。その部分を見つけ出す努力はしました」
116失点、黄金期の日大に歯が立たず
当時、日大は黄金期だった。甲子園ボウル出場をかけて各リーグの上位校がトーナメントで戦う関東大学選手権があった。山本さんが2年の時の1979年、さつきリーグ覇者で臨んだ桜美林は1回戦で東京七大学リーグを制した日大と対戦した。0-116と記録的大敗だった。キックオフリターンとパントリターンからの5TDを含む18TDを浴びた。4年の時にリーグが統一され1部Aブロックで再び対戦する機会があったが、この時は6-90だった。日大は1978年から83年の甲子園ボウルで京都大学に敗れるまで公式戦50連勝を続けた。
桜美林は81年から10年間1部で戦い続けたが、その後2部も経験した。次第に弱体化し3部となった2012年、特別強化クラブに指定された。学園創立100周年の2021年までに甲子園ボウル制覇という大きな目標を掲げ、ここまでやってきた。
「耐えて、耐えて、頑張れ」
相手の日大は、悪質反則問題を受けて降格し3年ぶりに復帰してきた。特別な思いを背負うシーズンだ。昨年は一つ下のBIG8で対戦し、27-48で日大に振り切られた。山本さんは「昔でいえば、関東大学選手権の決勝で日大とやらせて頂くようなもので、光栄。今年の桜美林はディフェンスがいい。フロントが耐えて、耐えて、頑張ってくれれば」と期待をかけている。