2大会連続五輪出場の市川良子さん、現役引退後は大学へ 「学び続けること」の意味
今回の「M高史の駅伝まるかじり」は市川良子さん(44)にお話をうかがいました。アトランタオリンピック、シドニーオリンピックと2大会連続で5000m日本代表。釜山アジア大会では1500m銅メダルを獲得されました。
中学生ながら日本選手権3位の快挙!
山口県出身の市川さん。「父が中・長距離、母が100mハードルの選手、姉も陸上部だったので、こどもの時から走るのが自然と身についていました。初日の出を見に家族みんなで山の上まで走っていったり、遊ぶ場所も山が近くにあったり、何かあったら走るという環境でした」という陸上一家で育ちました。
小学校ではバレーボールをしていたものの、中学からは陸上部に。「1年生の時は短距離、ハードル、走幅跳びなどをしていました。将来のスピードにつながったと思います。当時、顧問の先生が『将来的に中・長距離のスピードやラスト勝負に活かせるように』とご指導していただきました」。市川さんのスピード感あふれる走り、切れ味鋭いラストスパートはこういった中学時代の取り組みも土台となっているのでしょう。
その後、徐々に距離を伸ばしていき、当時中学女子の種目としては最長距離であった800mをメインに取り組んでいきました。「当時、全国大会に出場するような男子の先輩たちと一緒に練習していました。力の差はあったのですが、いま思えばかなりレベルの高い練習をしていましたね。女子だけのレースになったら心に余裕がありました(笑)」
男子にまじって質の高い練習を積み重ねていった結果、中学3年生の時には、なんと中学生ながら日本選手権に出場し、2分07秒81(当時中学日本新)をマークし3位!
「表彰式では、中学校教員とアナウンスされたんですよ(笑)。まさか中学生が日本選手権で表彰台に上がるとは思われなかったみたいです(笑)」と表彰プレゼンターの方も驚きの快挙を成し遂げました!
東京ランナーズ倶楽部でオリンピックを目指す
中学での大活躍により多くの高校からお誘いがあったものの、市川さんが選んだ道は東京ランナーズ倶楽部での競技生活でした。「当時、日本陸連が、高校から長期的な一貫指導でオリンピック代表選手を育てようという目的でできたクラブチームです」。市川さんは東京ランナーズ倶楽部の1期生となりました。
浜田安則コーチに「オリンピック・日本代表を目指して競技をしませんか?」とお誘いを受けました。「東京へ行くことも陸上をすることも、すべてのことを自分の意志で考えて自分で選択して決めることができるなら僕は指導します。そのためのサポートや助言は全力でします」と言われたのが一番の決め手となったそうです。
「もしかしたらオリンピック・日本代表に行けるかもという目標を明確にしてくれたのが浜田コーチでした。自分がオリンピックを目指して競技するんだというのが自分の中でスッと入ったんです。自分の意志でという言葉にも惹かれました」
オリンピックを目指したいと決意し上京。高校は練習拠点にも近い洗足学園大学附属高校。競技生活に関しては東京ランナーズ倶楽部。所属はJALとなりました。
学校が終わって帰宅してから浜田コーチのご指導のもと織田フィールド、駒沢公園、世田谷区大蔵の陸上競技場、砧公園などを拠点にトレーニングを行う日々でした。
1年目は1人で寂しかったこともあったそうですが、2年目には1つ年下の市橋有里さんがチームに加入しました。また、学校生活では学校行事にあまり参加できなかったものの、同じクラスに水泳の全国チャンピオンがいて、競技は違えど、共通した目標を持つ仲間から刺激も受けました。
「国立競技場で試合があるときはクラスのお友達もみんなで応援に来てくれたり、うれしかったですね!」。クラスメイトからも応援される市川さんのお人柄がうかがえるエピソードですね。
アトランタ、シドニー2大会連続オリンピック出場
オリンピックを目標に一貫指導を行なってきた東京ランナーズ倶楽部。市川さんにとって最初のオリンピックとなったのは20歳で迎えた1996年のアトランタオリンピックでした。
5000mに出場したものの、15分58秒90で予選落ち。「自分との力の差がありすぎて舞い上がっていましたね。走ったのに、レースを走ったという実感が記憶に残っていないんですよ」。オリンピック独特のプレッシャーもあって力を発揮できず、悔しい結果となりました。
5000mでオリンピックに出場した市川さんですが、その後は1500mからマラソンまでオールラウンドに挑戦。ただ市川さんによると「トレーニングでも長い距離を走り続けるよりは、スピード系の練習が好きでしたね。特に得意だったのは5000m。最後までいければ勝てるという自信がありました」。日本選手権でも1500mで1度、5000mで3度優勝を果たすスピードが武器でした。
アトランタオリンピック後にマラソンに挑戦したものの、2000年のシドニーオリンピックでは再び得意の5000mで日本代表となりました。「練習もしっかりできていて楽しみにしていました。コンディションによっては15分を切れる練習はできていました」
しかし迎えた本番ではまたしても世界の強豪選手たちの前に力を発揮できませんでした。「本番ではペースの上げ下げ、駆け引きが凄かったですね。本番を想定してペースの上げ下げも練習して、自分の中でも行けると思っていましたが。練習した成果を全部は出しきれなかったです」。15分23秒41で決勝には進めず。世界の壁を痛感しました。
ちなみに、シドニーオリンピック女子マラソンにはチームメイトの市橋有里さんも出場。金メダルを獲得した高橋尚子さん、銀メダルを獲得したリディア・シモンさん(ルーマニア)に途中までついていく走りをみせますが、後半順位を落とし市橋さんは15位。「(市橋さんは)とにかく真面目ですごく練習を頑張っていました」。浜田コーチ、市川さん、市橋さんと「まるで家族のようなチーム」だったと振り返ります。
「(市橋さんには)普段の生活も含めて助けられました。彼女は料理が得意で栄養バランスを考えて作ってくれましたし、彼女が作る時の方が美味しかったし、盛り付けも綺麗(笑)。練習から帰ってきて元気が出るような食事、気配りもできる子なので助けられた部分が大きいです。練習でも彼女は長い距離が得意なので、長距離の練習の時は彼女に練習させてもらっていた感じですね(笑)」。市橋さんの存在は刺激にもなり支え合う部分も大きかったそうです。
スパイクが脱げても銅メダル!
釜山で開催された2002年のアジア大会。市川さんは1500mで銅メダルを獲得します。しかし、レース中に両方のスパイクが脱げてしまうアクシデントが!
「1位と2位の選手は少し離れて前方を走っていました。3位集団が5人くらいで接戦だったのですが、ラスト300m付近でちょうど後ろの選手にかかとを踏まれたんです。踏まれたと思ったら反対の足も踏まれて、気がついたら両方のスパイクが脱げました(笑)」。なんとメダル争い真っ只中、両足ともスパイクが脱げてしまった市川さん。しかし、次の瞬間。「ラストの直線勝負になったらスパイクを履いている方が強いと瞬時に判断して、スパイクが脱げた途端にスパートしました(笑)」
咄嗟の判断で靴下のまま意表をつくスパート。そのまま3位争いを制して銅メダルを獲得したのでした。レース後は銅メダルの喜びかと思いきや「まだ5000mのレースもひかえていたので、レース後はメダルよりも脱げたスパイクをすぐに探しにいきました(笑)」というエピソードまで教えていただきました(笑)。
また、世界クロカンでも3度、日本代表に選出されました。「クロカンは普段からよく取り入れていました。トラックシーズンもクロカンをやっていました。不整地も得意で練習に登山も取り入れていました。世界のトップレベルと一緒に走れたのは楽しかったですね」。トラック、マラソン、クロカンとオールラウンドにご活躍されました。
常に学び続ける姿勢
現役引退後は一橋大学で長距離コーチも経験。
「みんな向上心もあり、練習の目的を言うとしっかり理解してくれました。練習のプロセスを大切にして、考えて取り組んでくれました。競技レベルも差がある中、みんないろんな目標を持って走っていました」
「走るのに対して純粋で、競技に向き合う気持ちが伝わってきました。自分がしていた陸上競技とは違う魅力も学ばせていただきましたし、指導する機会をもらったことで、その後につながっています」。指導を通じて学生の皆さんから改めて陸上競技の魅力を教えてもらったそうです。
その後、結婚を機に兵庫県へ引っ越します。ゲストランナー、イベント出演、講演などの活動をしていましたが、今まで陸上競技に完全燃焼していた市川さんは新たな生きがいを模索していました。そんなとき旦那さんから「オリンピックにも行って実績も残しているんだから、それを伝える手段を学んだら」という提案を受けます。
早稲田大学人間科学部に入学。eスクールという制度で学部生と同じ勉強。スクーリングもあり、ゼミや実験など多忙な毎日となりました。妊娠、出産もあり、5年で卒業。
「スクーリングの時は兵庫県から埼玉県の小手指まで通っていました。赤ちゃんを連れて(笑)。すごく大変でしたけど、得るものは大きかったです!」。市川さんの環境を言い訳にしないでやりとげる力、本当にすばらしいですね!
大学で勉強したことで「学んだ知識は教えるときに役立ちますし、新しいこともどんどん変わっていくと感じました。何歳になってもずっと学び続けなきゃいけないって言うのを一番学びましたね! 現状打破ですね!」と常にアップデートし続ける姿勢を何より学ばれたそうです。
現在は3人の子育てをしながら、兵庫県でIRC市川塾の代表をされています。
「幼稚園くらいから小学生までのこどもたちに指導しています。今は指導者の資格を取ろうと思って勉強しているところです。まだ子育てがバタバタなので、落ち着いたら陸上競技にもう少し深く関わっていきたいと思います」
2度のオリンピックを経験し、指導者となり、結婚、出産、大学卒業、育児、そして再び指導の道を見据えて、常に学び新しいチャレンジを続ける市川良子さん。現役時代とはまた違った輝きを放たれていますね!