日本大学のWR大通広志、Y校で目指した甲子園で輝く 13日に関西学院大学と決戦
アメリカンフットボールの第75回甲子園ボウル(12月13日、阪神甲子園球場)に日本大学が3年ぶりに出場し関西学院大学と対戦する。日大のWR(ワイドレシーバー)大通(おおみち)広志(4年、横浜商)は高校野球で目指した夢の舞台を、主力選手として踏むことになった。
大通は、日大のフォーメーションで4人いるWRのスターティングメンバーのひとり。新型コロナウイルスの影響で関東大学リーグが縮小開催された今年、1部上位TOP8全4試合でのレシービング記録は11回と決して多くはない。そのうちの5回を第2節の東京大学戦で決め、1TD・75ydを稼いだ。背番号6は、この試合でチームのレシービングリーダーとなる活躍だった。勝負所でパスをキャッチし、小さい体でタックルを振りほどきながらボールを抱えて走る姿が印象的だった。
平塚学園の高田孝一に抑えられ夢散る
高校野球の伝統校、横浜商では主将を務めた。「Y校」で親しまれる同校は、春夏合わせて16回の全国大会出場を誇るが、1997年の第69回選抜大会を最後に甲子園から遠ざかっている。大通主将の最後の夏は、第98回全国高校野球選手権神奈川大会(2016年)の4回戦で平塚学園に2-3で敗れた。3番サードで先発したが、プロ野球楽天にドラフト2位で入団する高田孝一(法政大学)に4打数無安打と抑えられた。
身長164cm。突出した足の速さや身体能力もなく、野球を続ける気はなかったという。ただ、何かスポーツを続けたく、大学ではアメフトに挑戦すると決めた。横浜商では新設されたスポーツマネジメント科で学んだ。きっかけは2年生の修学旅行だった。最先端でもあるアメリカのメジャースポーツを見学するためにロサンゼルスへ行き、アイスホッケーやバスケットボールに野球、そしてアメフトの試合を見学した。中でもスピード、パワー、技術、戦略、メンタルなど全てのレベルが異次元に思えたアメフトに魅了された。この時の興奮を思い出したら、アメフトを始めることに対する迷いはなかったという。
野球で鍛えた強い気持ち
野球部を引退してすぐ、父親に大学ではアメフトをやりたいと話した。すると、父の勤める会社には、たまたま息子が元アメフト選手の方がいて紹介してもらうことになった。明治大学から富士通に進んで活躍した芹沢隆文さんだった。芹沢さんは、富士通のチームメートのつてで、日大フェニックスのトライアウトを紹介してくれた。大通はトライアウトで好結果を残し日大でのアメフト生活がはじまった。
日大には、全国から有名選手が集まってくる。アメフト未経験の大通はそれでも、野球部の厳しい練習で培った強い気持ちがあったから、やっていく自信はあったという。練習後には、毎日のように先輩をつかまえて教えてもらった。ステップやキャッチといった基礎練習を繰り返した。
真面目に取り組む姿勢は、コーチや仲間の目に留まった。当時の長谷川昌泳WRコーチ(現・立命大)に、「お前は小さいのに、いつも必死にやっているな」とほめられたことが心の宝だという。長谷川コーチは、1年生で既にエースQBだった林大希(たいき、4年、大正)にもこう言ったそうだ。「アイツ(大通)は、いつか必ずお前を助けてくれる存在になるから。大事にしろよ」。林大も大通のやる気と取り組みは見ていて、野球仕込みの飛び込んでのキャッチなど執着心とガッツに一目置いていた。3年経った今、前コーチの言葉は現実になった。
未経験者が3年からレギュラーに
徹底して鍛えた基礎練習が身につき、大通は3年からレギュラーに定着した。WRには同学年に林裕嗣(ひろつぐ、佼成学園)という絶対的なエースがいたこともあり、目立つ選手ではなかった。前述の東大戦での大通のパフォーマンスをQB林大は、「教育実習で(試合の)準備不足だった裕嗣の分も、カバーしようとしてる風に見えました。まさに『仕事人』という感じで。頼もしかったです」と振り返る。
日大は3年前に関学を破って27年ぶりの大学日本一になった。1年生だった大通は雰囲気は味わえたが、出場はできなかった。「当然うれしかったですが、何もしてないので。自分たちの代では、必ず(自分が)貢献して出るって決めてました」。2年生春の悪質反則問題を受けての活動停止や下位リーグからの再出発などいくつも壁を乗り越えてきた。甲子園でどんなゲームをしたいか尋ねると、「目の前のことを一つひとつ確実にやって、いつも通りの力を発揮するだけです」。冷静なこの人らしい言葉が返ってきた。