アメフト歴16年の関学QB奥野耕世と日大QB林大希、最後の甲子園ボウルで激突
アメリカンフットボールの第75回甲子園ボウルは12月13日、阪神甲子園球場でキックオフを迎える。関西代表の関西学院大学と関東代表の日本大学が甲子園で30回目の勝負に臨む。両チームのカギを握るエースQB(クオーターバック)である関学の奥野耕世(4年、関西学院)と日大の林大希(たいき、4年、大阪府立大正)は、ともに大阪で小学1年生から競技を始め、アメフト歴16年。それぞれに平たんではない道を歩み、学生ラストイヤーに最高の舞台でぶつかる。
ともに大阪生まれ、小学1年生から親しむ
奥野は大阪府池田市で生まれ、小1で池田ワイルドボアーズに。林は大阪市住之江区に生まれ、住吉川86スコーピオンに入った。ともに父がフットボール経験者だった。奥野は1年生から、林は3年生からQBになった。奥野は幼稚園の年長のころから小学校を卒業するまで、毎朝父と小学校のグラウンドで走ったりキャッチボールをしたり。いま、どんな体勢からでも投げられるのを可能にしている強い下半身は、この時期に土台ができたのかもしれない。林は近所の歩道橋のスロープを駆け上がった。嫌がる姉2人を連れ出し、路上でディフェンス役をさせてランを磨いた。家の駐車場に張ったネットにパスを投げこんだ。この二人のもう一つの共通点は女きょうだいばかりの中で育ったところ。奥野には2人の姉と2人の妹、林には前述のように2人の姉がいる。
奥野は小学校高学年のある日、試合会場で林が発した言葉をよく覚えている。
「お前は俺のライバルやから覚えとけよ」
そんなに意識されてるんや、と奥野は驚いた。林は「奥野君をQBとして認識したのは小4ぐらいだと思いますけど、そんなこと言ったのはぜんぜん覚えてないです」と言う。奥野はやんちゃな林のプレーぶりをよく覚えている。「僕と違って、林君は試合中にガッツあふれるタイプでした。気持ちでくるタイプでした。だから、とくに今年はめちゃめちゃ落ち着いてプレーしてて、変わったなあと思ってます」
中学生になると林は大阪ベンガルズというチームに入った。「中学は池田が強くて、勝てませんでした」と林。池田ワイルドボアーズは奥野が中3の1月に開かれた第1回日本中学選手権で優勝した。ここから奥野はフットボール界の王道を歩み、林は対照的な道を行くことになる。
王道を進む奥野と対照的な林
奥野は関西学院高等部へ、林はスポーツ推薦で関西大学第一高へ進んだ。奥野は王者関学仕込みのフットボールを学び、身につけ、2年生からQBとして試合に出場し始めた。一方の林は1年生の秋からエースQBとなったが、成績が足りずに2年生に進級できず、大阪府立大正高に編入した。大正高のアメフト部は部員が10人と少し。勝てなかったが、林は自分を鍛えることに目を向けた。1日10食をとり、ベンチプレスは高校生のQBとしては規格外の160kgを支えるまでになった。
大学でフットボールを続けることも考えていなかった林だが、高2の冬のオールスター戦に大阪府選抜で出場して活躍。日大から熱心に誘われ、小学校のチームの先輩が4人いたフェニックスで競技を続けることにした。
高3の6月、プリンスボウルというオールスター戦で奥野と林は久々に対戦した。奥野は兵庫県選抜のQB、林は大阪府選抜にディフェンスのLB(ラインバッカー)として入っていた。「林君がめちゃくちゃデカくなっててビックリしました。あの試合のあと、ちょろっとしゃべって一緒に写真を撮った気がします」と奥野。林は「試合中に『あれ、見たことある』と思ったら奥野君でした」と振り返る。
奥野は3年生の秋には関学高等部のエースQBとなり、3連覇のかかるクリスマスボウルに出た。関西地区準決勝の試合中に親友の武内彰吾さんが相手のヒットに倒れ、亡くなった。絶対に勝ちたい一戦だったが、奥野が佼成学園(東京)に三つのインターセプトを喫したこともあって、負けた。林はこの試合をスタンドで観戦していた。
日大フェニックスに入った林を待ち受けていたのは、久々に復活した猛練習だった。練習前に10ydから100ydまでのシャトルランを繰り返し、最低でも2500yd以上走る。あとはひたすら試合形式の練習だ。体重は10kg減った。泣きながらも食らいついた。秋には先発の座をつかみ、リーグ3戦目からは代々のエースQBがつけてきた10番を託された。奥野はディフェンスの練習台として、敵のQB役に徹する日々を過ごしていた。ただ、この練習の中で奥野は相手に追いかけられても逃げながら投げる術(すべ)を身につけた。
林が史上初めて1年生でW受賞、奥野はサイドライン
そして迎えた3年前の甲子園ボウル。今度は林の大活躍を、奥野がサイドラインから見ていた。「うわ、すごいなと思いました。1年なのにあれだけできて、すごいなって」。林はチームを27年ぶりの大学日本一に導き、史上初めて1年生で年間最優秀選手(ミルズ杯)と甲子園ボウル最優秀選手をダブル受賞。「あのときは、ただがむしゃらにやってました」と林。
そして二人が2年生になってすぐの2018年5月6日。関学と日大の定期戦前に二人は言葉を交わした。林はけがで欠場。先発を任された奥野はオフェンスの最初のプレーで日大のDLにひどい反則を受けた。社会問題化した「悪質タックル問題」。奥野はけがを負っただけでなく、精神的に追い込まれた。「なんでこんなことになってしまったんやろう、と。家の近くにマスコミの人がいて妹がこわい思いをしたり、ネットに家族情報が出たりして。申し訳なくて、アメフトをやめた方がええんちゃうかとも考えました」
先輩に救われた奥野
奥野を救ってくれたのは高校からの2学年先輩であるDLの齋藤圭吾さんだった。高校時代からかわいがってくれていた齋藤さんは、落ち込む奥野をラーメン屋やスーパー銭湯に連れ出してくれた。マスコミが多くて家に帰りたくないときは齋藤さんが下宿に泊めてくれた。やめよう、という奥野の思いをとどまらせてくれたのは齋藤さんだった。けがが治ってプレーできるようになると、奥野の心はどんどん前向きになっていった。「自分が元気にプレーする姿を見せることが、いろんな人への恩返しになる。活躍したろうと思いました」
1年生で花咲いた林のフットボール人生は暗転した。2年生の秋のシーズンはなくなり、3年生は1部下位のBIG8からの出直し。この2年間は甲子園ボウルを目指すことすらできない。ただただ、4年生のシーズンで甲子園に戻る。それだけが心の支えだった。奥野はけがから復帰し、先発QBとして秋の本番を迎えた。甲子園ボウルの西日本代表決定戦で立命館大学に三つのインターセプトを許した。甲子園ボウル出場は決めたが、大きな課題が残った。当時オフェンスコーディネーターだった現監督の大村和輝さんに呼ばれ、「波が激しすぎる」「いまのままやったら、ただのアメフトが好きな少年や」と言われた。そこから安定感を強く意識するようになり、いまでは大村監督から「ベテランのピッチャーみたいなもんで、悪いときもそれなりにやってくれる」と信頼を寄せられるようになった。
監督と腹を割ってぶつかり、新たなスタート
林が2年生の夏から日大の指導体制が一新した。公募で決まった新監督は立命館大学OBの橋詰功さん。自主性を重視してくれるのはよかったが、極端に短くなった練習時間と軽い練習内容に、不安を覚えた。何しろ1年生のときに猛練習で日本一になっている。「フェニックスのことがまったく分かってない」と、誰よりも橋詰監督に反発したのが林だった。それでも何とか折り合いをつけて、新しい方針についていった。フットボール人生で初めて、しっかりオフェンスについて教えてくれたのが橋詰監督だった。そして3年生の秋に関東1部下位BIG8で優勝。TOP8に昇格して、ラストイヤーに甲子園ボウルを目指せることになった。
しかし、最上級生になった林には煮え切らないものがあった。「フットボールを突き詰めて楽しくやるっていうんじゃなくて、ただ楽しくやりたいヤツが多かった。そんな状態なら、僕はこの1年情熱を注ぐ自信がなかった」。今年1月のミーティングで、林は「このままならやめる」と言いきった。すると普段は飄々(ひょうひょう)としている橋詰監督が言った。「お前がおらんかったら日本一になられへんから、それでは意味がない。俺もやめる。俺のやり方を信じてついてきてくれ。絶対に何とかしたる」。初めて腹を割ってぶつかり合い、監督も選手たちも泣いていた。新生フェニックスが本当の意味でスタートした日かもしれない。「橋詰さんを日本一の監督にする」。林の心は決まった。コロナ禍で全体練習ができない間、寮のそばにある坂道でダッシュを繰り返した。そのうち仲間たちも一緒に走り始めた。寮からグラウンドまでも走った。夏もずっと走った。
ともに苦しんだ最後の甲子園への道
最後の秋。関西1部も関東1部TOP8も変則的な方式で開催された。関学はトーナメントで同志社大学、神戸大学と危なげなく下し、ライバル立命との決勝に臨んだ。常にリードを奪われる展開となったが、最後に奥野がパスを通し、逆転サヨナラのフィールドゴール成功につなげた。日大も初の甲子園ボウル出場を狙う桜美林大学との1位決定戦で苦しんだ。林が負傷退場したあと、仲間たちが逆転してくれた。甲子園ボウル出場を決めた瞬間、奥野も林も泣いた。勝手に涙が出てきた。林は母から「あんたには自分一人でやるイメージしかなかったけど、今回で素晴らしいものを得られたんちゃう?」と言われた。母には「絶対に甲子園に戻るから、それまでは見に来んな」と言ってある。その約束は果たした。
青と赤の決戦を前に、奥野は言う。「高校のときみたいに負けて引退するのは嫌です。小学生からずっと続けてきたので、すべて出しきって、強い日大に全力で勝ちにいきます」。そして林は「人生を全部かけてつかんだ甲子園だと思ってます。あきらめなかったから、たどり着けた。そこで関学と戦うのは運命でしかない。お互いにバチバチやっていきたいと思います」と話す。
王道を歩んだ奥野にも苦しみが待っていた。やんちゃな林は大人になった。競技を始めて16年、アメフトがいろんなことを教えてくれた。さあ、二人の集大成を見よう。