陸上・駅伝

福岡大の仲間とコーチに助けられて強くなり、いま世界を目指す 兒玉芽生(下)

今年9月の日本インカレ100mで優勝し、仲間に笑顔で手を振る兒玉(撮影・藤井みさ)

福岡大学3年の兒玉芽生(大分雄城台)は昨年の日本選手権200mで優勝、今年9月の日本インカレでは100m、200m、4×100mリレーの3冠を達成。10月の日本選手権でも100mで優勝するなど、日本の女子陸上短距離界のニューヒロインとして注目が集まっています。福岡大に入学し、信岡沙希重コーチの指導と対話で成長していった過程を取材。後編は苦手としていた200mで躍進したきっかけ、そして世界を目指す意識に変わっていったことについてです。

福岡大に入学、信岡沙希重コーチとの信頼関係が飛躍のきっかけに 兒玉芽生(上)

躍進のきっかけは信岡コーチ直伝、コーナーの技術

2年時(19年)の前半シーズン、兒玉は快進撃を見せた。1年時に整えた基礎を応用し、やること全てが結果につながり日本のトップレベルに成長していった。

4月の出雲陸上100mで11秒76(+0.8)と高校時代の自己記録に並び、5月に横浜で開催される世界リレー選手権の4×200mリレー代表に選ばれた。4×100mリレーは冬の間の陸連プロジェクトチームの合宿ですでに代表が決まっていたのである。この代表選抜は100mを中心に戦うつもりだった兒玉が、200mに真剣に取り組むきっかけになった。

「それまでは苦手意識が大きかった種目ですが、シニアで初めての代表でしたから、苦手でも何でも走りたい」。身近に日本選手権200m5回優勝の信岡コーチがいる。ピッチを速くする、ストライドを大きくする、といった基本的な取り組みは1年時から継続している。では、それを200mに生かすにはどうすればいいのか。

日本選手権200mで5度優勝している信岡コーチからコーナーの技術を伝授された(撮影・寺田辰朗)

兒玉は福岡大のトラックの4コーナー付近で、信岡コーチから技術的に細かい話を聞いた。「それまでは何となく走って、遠心力で外にふくらむ力が働いて、スピードに乗っていませんでした。(視界に入る)外のレーンの選手ばかり気にしていた影響もあったと思います。コーナーのトップ(50m付近)までは左隣のレーンの内側を見るくらいに左側を意識して、直線に抜けるところではゴール脇のタイマーを見ます。そうすることで、左から右に働く遠心力をコントロールして、前に行く力にもできます。聞いてすぐにわかったかというと、そうでもなかったのですが」

練習で試してみても、試合のスピードと緊張感のなかでの走りとは感覚が違う。だがラッキーなことに、すぐにレースで試す機会が訪れた。4月末の大分県選手権が予定に入っていたのだ。そこで24秒04(+1.2)の自己新で優勝することができた。「まだ完全に理解できたわけではありませんが、走りやすさは感じられて、大幅な自己新も出せたので、信岡先生から言われた走りに自信をもってやっていけました」

5月の世界リレーは3走を務め1分34秒57で4位。通常はほとんど行われない種目のため日本新になったが、世界トップレベルの外国人選手と一緒に走った影響もあり、走りの感覚は良くなかった。

憧れだったシェリー・アン・フレイザー・プライス(ジャマイカ。五輪&世界陸上の100m・200mで金メダル7個。100m自己記録は10秒70の世界歴代4位)とも同じ走順を走った。「すごく刺激になりました。応援もすごくて、日の丸を付けて走ることの素晴らしさを実感しました。ただ、日本の女子短距離は男子に比べて低迷しています。もっと頑張らないといけないと思いましたし、まずは4×100mリレーで代表メンバー入りしたい。その気持ちを強く持ちました」

大分県選手権で感じたコーナー部分の技術も、明確にできたかわからない。だが、日本代表を経験したことで国内試合では「負けられない」と思うようになり、トレーニングへのモチベーションがさらに大きくなっていった。

翌週の九州インカレでは個人2種目を制し、100m予選で11秒65(+1.1)、200m決勝で23秒96(+1.4)と両種目で自己新をマークした。6月の日本学生個人選手権100mでも優勝し、準決勝で11秒69(+0.9)と2試合続けて11秒6台で走った。

6月の日本選手権は昇り調子で迎えていた。「世界リレーで4×200mリレーの日本代表として走らせていただいたので、200mは勝たなきゃいけない、という気持ちで臨みました」。自身初めて日本一を決める場に立った。

日本選手権優勝の4カ月後、休部も考えるほど落ち込んだ

2年時の日本選手権は100mが4位(11秒74・+0.6)、200mが優勝(23秒80・-0.4=自己新)で、考えられる最高ともいうべき結果を残した。100mの加速局面は今年に比べれば稚拙だったが、200mでは「疲労もありましたが、気持ちを強く持って走ったことが勝ちにつながりましたし、技術的にもコーナーを上手く走ることができました」と内容もよかった。日本インカレに勝つ前に日本一の称号を獲得してしまった。

2019年の日本選手権200m。インカレより先に日本一の称号を手にした(撮影・藤井みさ)

“してしまった”と記述したのは覚悟や心構えなど、勝つためのメンタル的な準備ができていなかったからだ。「今だから言えることですが、2年生の日本選手権は心の底から優勝を目指せていませんでした。出場資格を得たのはその年4月の大分県選手権のタイムです。気持ちの準備が十分できていたとは言えません。優勝してもちろんうれしかったのですが、戸惑いの方が大きかった。勝った現実を受け容れられないというか、思わず日本一になって、次に何を目指して行ったらいいのか、イメージが明確にできなかったんです」

日本選手権後に兒玉の成績は下降線をたどる。8月の九州選手権、9月の富士北麓ワールドトライアルと日本インカレは、100mは12秒が切れなかった。200mも富士北麓の24秒65(+0.1)が最高で、日本選手権優勝者の片鱗は見えなかった。

ケガ(足の中指が疲労骨折か、それに近い状態だった)が引き金だったが、メンタル面が原因だったようだ。7月から信岡コーチが産休に入り、相談する相手がいなくなっていたことも不運だった。

信岡コーチの目には、兒玉が「孤立している」ように見えた。「周りが彼女のことを別格扱いした、というわけではありません。兒玉が自分で、他の部員と距離をとってしまっていました。厳しい練習をして結果も出したことで、落ち込んでいる姿や、悩んでいる様子を見せたくなかったのだと思います」

日本選手権で優勝「してしまった」あと、何を目指せばいいのかイメージを描けなかった(撮影・藤井みさ)

1年時のシーズン前半がそうだったように、兒玉は不調に陥ると1人で何とかしようとしてしまう。誰にも助けを求めず、結果として八方塞がりの状況に自身を追い込んでしまった。9月の日本インカレも10月の国体も、決勝にすら進めなかった。産休中の信岡コーチから電話が来たとき、兒玉の口から「休部したい」という言葉が漏れた。

信岡コーチと話し合い、チームメートにも支えられての立ち直り

そこから立ち直れたのは、1年のときと同じように信岡コーチとの話し合いがきっかけだった。そして、これも1年時と同様にチームメートの存在も大きかった。国体後に信岡コーチが、兒玉を食事に招待した。「色々話し合って、兒玉はいっぱい泣きました。私がフォローできず、彼女を孤独にしてしまったんです」

一方の兒玉は、信岡コーチに「救われた」という。「もっと頑張れ、と言われると思っていたんです。入学するときに信岡先生から『世界で戦おう』と言われていましたから。でも違いました。日本選手権優勝の戸惑いをわかってもらえて、(10月末の)日本選手権リレーも無理に走らなくていいから、と言っていただいて。『芽生らしく頑張ればいいから』とも言っていただきました。私のペースで一緒に戦ってくれるんだ、ってわかりました」

メンタル面が上向いた兒玉は、国体2週間後の田島記念に11秒86で優勝した。向かい風1.1mを考えれば、11秒7台に相当するタイムである。

日本選手権リレーの福岡大4×100mリレーチームは、兒玉が走らない場合と、2走に入るケースの両方を想定して準備をしていた。バトンミスがあって予選落ちしてしまったが、兒玉は4×100mリレーの2走を走り、苦手とする4×400mリレーでも3走を走った。結果は伴わなかったが、気持ちが前向きになっていたのは間違いない。

日本選手権リレーは、兒玉が1年時からリレーチームを引っ張ってきた大学院生の重永乃理子の、現役最後の大会だった。先輩の最後を頑張って送り出したかったし、ちょうどその頃に、同学年の渡邊輝(今年の日本インカレ100m6位、200m7位)と気持ちが通じ合ったことも大きかった。

「兒玉は人見知りする性格だったのに対し、渡邊は人前でも明るく積極的に話せる性格です。最初は合わなかったのですが、周りと距離をとっていた時期の兒玉のことも、渡邊は認めて力になろうとしていました。それで兒玉の気持ちが少しずつ楽になったようです」

大学1年のときと同じように、兒玉はシーズン終盤に立ち直りの手応えを得て、福岡大での2度目の冬期練習に入っていった。

桐生の動画で理解できた、信岡コーチの言い続けた動き

2度目の冬期練習は順調に進んでいた。ピッチとストライドは走りのスピードを決める重要因子で、その組み合わせ方が、選手のそのときどきの体力や技術に応じて変化していく。

高校3年時の兒玉は100mを53歩弱で走っていた。大学1年時にはストライドを大きくすることを課題とし、平均ストライドを190cmから198cmまで広げることに成功した。しかし自己記録は出なかった。つまりピッチを犠牲にしたストライドだった。一度は大きなストライドの走りを経験させておく必要がある、と信岡コーチは考えたのだ。

2年時には195cmとストライドは若干狭くなったが、ピッチが速くなり100mの自己記録を更新した。大学3年時はピッチとストライドをどうする、というプランよりも、「50~60mまでしっかり加速し続ける」ことに重きを置いていた。

しかし新型コロナ感染拡大の影響で、シーズン前半の試合は全て中止になってしまった。試合が再開されたのは7月。兒玉は8月には100mで11秒64(+1.1)と自己新をマークし、8月に新国立競技場で開催されたゴールデングランプリは100mを11秒62(-0.9)で優勝した。

それでも兒玉は「重心がすぐに高くなって顔が上がっていました」と、自身の走りに納得できていなかった。高いレベルに挑戦する下地ができていたから、好成績にも課題を感じとれた。

日本インカレ100mは11秒35(-0.2)。本人も驚くタイムだった(撮影・藤井みさ)

そこを9月の日本インカレではかなり修正できた。11秒35(-0.2)の日本歴代3位と一気に記録を伸ばし、2位に0.30秒差をつけて圧勝した。「信じられない記録」と本人も驚くタイムだった。

ヒントとなったのは男子100m前日本記録保持者、桐生祥秀(日本生命)の走りだった。今季好調の桐生が8月1日に10秒04(+1.4)で走ったときの動画を、信岡コーチが送ってきた。桐生を指導する東洋大・土江寛裕コーチは信岡コーチの早稲田大学時代の先輩で、現役時代にアドバイスを受けていたこともある間柄だ。

兒玉は「今でもその動画を見たときの衝撃を鮮明に覚えています」と説明する。「このイメージで走ろう、と見た瞬間に思いました。ストライドが特に大きいわけではないのに、一歩ずつがものすごく進む感じなんです。分析的に見れば重心移動や接地の強さ、遊脚(蹴った後の脚)が後れないことなどですが、信岡先生が3年間言われていたことがこれなんだ、ってすぐにわかりました。それまでは先生がどういう動きを言っているのかイメージして実践できなかったんです。私の理解度が浅かったのだと思います。その動画を見て、私はこう解釈していますって話したら、先生も『私もずっとそれを言ってきたのよ』と、2人が一致しました」

それに至るには伏線があった、と兒玉は言う。コロナで練習がグラウンドでできなかった期間に、2人はお互いの認識を整理するための話し合いをしていたのだ。

「1年時と2年時と今で、意識してきたこと、できるようになったこと、意識したけどできなかったことなどを言葉にして話し合ったんです。2人の間でズレがある部分もあって、全ての言葉が一致したわけではありませんでした。イメージする動きは一緒でも、言葉が違うケースもあったのです。練習ができない時期だからこそやれたことかもしれません」

信岡コーチとの認識が一致してきたことで、さらに飛躍できるきっかけをつかんだ(撮影・藤井みさ)

信岡コーチとの3年間のコミュニケーションの積み重ねと、コロナ禍による自粛期間中の話し合い。どちらかが欠けていても、桐生の動画に「何も感じられなかったかもしれません」と兒玉は言う。

福岡から世界へアプローチ

記録的な次の目標は11秒2台になるが、まずは「11秒3台を安定して出すことでそこが見えてくる」と兒玉は感じている。そのステップをクリアできれば11秒21の日本記録更新、さらには五輪や世界陸上の標準記録(東京五輪は11秒15)を目指して行く。

今シーズンの結果を受けて、どんな走りを目指し、どんなトレーニングを積んでいくか。信岡コーチは以下の方向で考えている。「シーズン後半に100mの記録が出たことで、11秒2台を視野にトレーニングするべきかもしれませんが、来年に向けては今シーズン獲得できた速度を200mにつなげることを主に考えています。日本選手権で2位になったレースは脚の状態が良くなかったので仕方ありませんが、陸連科学班のデータからも速度が低く良いレースができていませんでした。まずは11秒3台の速度をそのまま200mに活かすことで、次の100mも見えてくると思います。11秒2台のコンセプトはピッチの強化になるのですが、この強化が半年ですぐに現れるものではないということもあります。ですから、ここまでの3年間の取り組みのように今後はピッチ獲得の方向でトレーニングを計画しつつ、土台を広げる意味で200mに取り組もうと考えています」

もちろん自身の経験、特に失敗した経験も指導に生かしているが、信岡コーチはデータを元に選手個々に合った走りを組み立てる。兒玉も最近は、科学的なデータをもとに自身の走りを考えることへの興味が大きくなってきた。

「陸連科学班の測定したデータが届くと、『先生、これはどういうことを意味していますか? 私はこう思うんですけど、先生はどう思いますか?』と質問してくる回数が増えています。彼女も楽しめているのでしょう」

キャプテンとして、福岡大を強くしていきたい。その思いは大きい(撮影・寺田辰朗)

競技結果だけを追求する選手は、不調に陥ったときに情熱を失ってしまいがちだ。それに対して強化の過程が面白いと感じている選手は、情熱が長続きする。自身が考え、自身の体を使って試し、その結果を検証していく。その作業の充実感は何ものにも代えがたい。

福岡大は10月に4年生が部の役職から退き、兒玉がキャプテンに就任した。1年少し前にはチームの中にどう身を置くべきか苦しんでいた選手が、「やる気満々だった」(信岡コーチ)という。

兒玉はキャプテンを引き受けた理由、意気込みを次のように話した。「シンプルに、福岡大を強くしたい気持ちからです。私が1年生のとき、久保山(晴菜)先輩が私たちを引っ張ってくれました。競技も、競技以外の面もすごく頼れる存在でした。木南記念の100mに優勝した渡邊は、私が1人で苦しんでいたときに声をかけて助けてくれました。気持ちが通じたことで2人とも強くなっていると思います。みんな一緒に頑張ることで、みんなが一緒に強くなる。そんなチームになりたいと思っています」

兒玉自身がここまで、信岡コーチやチームメートに助けられて強くなってきた。その思いが強いから、キャプテンとしてできることがあると考えられた。

自粛期間中の信岡コーチとの話し合いで兒玉は、世界を目指す気持ちが強くなった。「あのときの話し合いで私は、本当に世界を目指せていなかったんだとわかりました。日本選手権を5連覇して、その上の世界を目指し続けた人との違いなのかな、と。信岡先生の言っていることを私も理解して、自分も世界を目指したい。本気でそう思いました。選手とコーチが同じ方向を向いて競技をすることで、より大きな力を出せると思っています」

兒玉は福岡大での3度目の冬期練習に入っている。まだ3年間だが、福岡大でつながった人たちと一緒に進む力は、3年分よりはるかに大きい。その力で世界へと走り続ける。

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