陸上・駅伝

特集:東京オリンピック・パラリンピック

福岡大に入学、信岡沙希重コーチとの信頼関係が飛躍のきっかけに 兒玉芽生(上)

日本選手権100mは11秒36(+0.5)で優勝。しかしその後の200mでは涙ぐむ場面もあったという(撮影・朝日新聞社)

日本選手権(10月1~3日・新潟デンカビッグスワン)は福岡大学3年生の兒玉芽生(大分雄城台)が“等身大”で現れた大会だった。

大会2日目の100mは11秒36(+0.5)で優勝し「ほぼ完璧なレース」と高く自己評価できた。ところが翌日は、2連勝を狙う200m決勝を前に涙ぐむシーンもあったという。23秒44(-0.1)と自己記録は更新したが、23秒17(日本歴代3位)の鶴田玲美(南九州ファミリーマート)に敗れる結果になった。女子短距離界の期待ナンバーワン選手に躍り出た勢いと、世界を目指して間もない大学3年生の若さ。“等身大”の兒玉を、信岡沙希重コーチとの関係性に触れながら紹介する。前編は福岡大学に入学した1年目、飛躍へのヒントをつかんだことについて。

日本選手権200mの決勝前、涙ぐんだ理由

日本選手権100mの兒玉は強かった。スタートで前に出ると中盤までに隣のレーンの鶴田を1m強リードし、終盤もそのまま、迫られることなく逃げ切った。3週間前の日本インカレでマークした11秒35(-0.2。日本歴代3位タイ)には100分の1秒及ばなかったが、過去10年間の日本選手権では最速の優勝タイムだった。

「今まで出場してきた100mで一番良いレースができたと思います。スタートから50~60mまでの加速を今季の課題として取り組んできたのですが、60mまではほぼ完璧なレースができました。内容では自己記録の日本インカレよりも良かったと感じています」

10月の日本選手権100m、今までで一番いいレースができたと振り返る(撮影・朝日新聞社)

信岡コーチによれば加速局面のスピード向上は3年間、ずっと追い求めてきた部分だという。どの練習が良かったというより、全ての練習はそこに結びつくように行ってきた。ただ、「どれか1つを挙げるとすれば、裸足の練習ですね」と信岡コーチ。その練習の狙いや具体的な方法などは後述する。

兒玉は100mの翌日、200mに臨んでいた。前年の日本選手権で優勝し、兒玉がシニアで初めて全国タイトルを取った種目である。前日の100mの走りから兒玉の2連勝を誰もが予想した。

だがウォーミングアップの途中で、兒玉は涙目になっていた。右脚のハムストリング(大腿裏の筋肉)に痛みが出ていたのだ。日本インカレで11秒6台から11秒3台へと走りのレベルが上がり、200m、4×100mリレーと合わせて3冠を達成したが、疲労が蓄積したことは否定できない。そこから2週間半で日本選手権というスケジュールで、前年とは比べものにならない負荷が体にかかっていた。

「2連覇したい思いも、そのプレッシャーもありました。100mとの2冠を達成したい思いも、もちろんありました。その精神状態の中で痛みも気になって、棄権すべきか信岡先生とぎりぎりまで話し合っていたんです。結局気持ちの整理がつかないまま走ってしまって、去年みたいにコーナーの出口の良い感覚もつかめませんでした」

コーナーの出口の走りは兒玉が前年春に、200mで日本選手権5回優勝の信岡コーチからテクニックを授かった部分である。シニアでの躍進につながった要因の1つだったが、今年はそこの力を発揮できなかった。それでも23秒44の自己新、日本歴代7位のタイムで走った。前年の優勝タイムは23秒80(-0.4)である。地力は間違いなく上がっていたが、力を出せずに敗れたことが悔しくて仕方なかった。

ただ、兒玉と信岡コーチの協同作業とでも言うべき部分で、1つ進歩があった。100m予選終了後に修正したいポイントが食い違っていたのだが、決勝前のウォーミングアップで兒玉が、「あっ、これです」と気づいた。信岡コーチも「私もそれを言っていたよ」と2人は顔を見合わせた。

トップ選手同士でも細かい技術や感覚を言葉にするとき、同じ内容でも言葉が違ってしまうことがある。指導者は日頃から、選手がどういう言葉にするかに気を配る必要があるのだが、簡単にできることではない。だが意思疎通ができればできるほど、コーチと選手の協同作業は大きな力となって結果に結びついていく。

低迷していた1年時の夏、初めてコーチと思いをぶつけあった

兒玉と信岡コーチの関係は毎年深まり、それが兒玉の成長にも現れてきた。

最初に2人が胸襟を開いて話し合ったのは、1年時(18年)の8月だった。九州選手権100mで12秒46(+1.5)もかかり、決勝に進むことすらできなかった。そのときも兒玉は悔し涙を抑えられなかった。

前年の高校3年時にはインターハイと国体少年Aの2冠を達成し、11秒76の記録を出していた。大学入学後の低迷は、指導者の交替や生活環境の変化、選手自身の体型の変化などでよくあることだが、「悪くても11秒7~8台は出る。練習はしているのだから」という思いが兒玉にはあった。「あんなに記録が出ないことは初めてで、理由もわからず悩んでいました」

大学入学当初の兒玉は、なかなか結果が出ず悩んでいた。信岡コーチ(右)としっかり話せたことが転機となった(撮影・寺田辰朗)

信岡コーチの話していることも「受け入れられなかった」と言う。選手と指導者には合う、合わない、つまり相性の良し悪しもあるが、当時の兒玉は高校チャンピオンだったことが、悪い意味でプライドになっていたのかもしれない。

3週間後には、1年時の一番の目標としていた日本インカレが迫っていた。信岡コーチは「ここが重要」と、研究室で話し合いをセッティングした。信岡コーチは「高校時代の実績もありましたからなかなか踏み込んで話ができませんでしたが、私が感じていること、考えている今後の方針などをぶつけてみようと思いました」と最初の話し合いを振り返る。

練習内容も含め多くのことを話し合ったが、日本インカレに向けて、考え方を整理する必要があった。高校チャンピオンとして注目されるなか、予選落ちする可能性が高かったからだ。その状況で何を目標に、どんな心構えで走ればいいのか。

信岡コーチは「今回は意地を張らず、目標設定を下げてもいいのでは」と持ちかけた。九州選手権が12秒4台なら、12秒2台を確実に出すにはどうすればいいかを考える。そのときの兒玉は、土台ができていないのに応用的な部分で解決ができると思って頑張っていたが、空回りしている状態だった。

兒玉は「結論を出すというより、お互いの気持ちを伝え合った」と言う。「初めて信岡先生と本音で話し合えたと感じました。先生は70人の部員を指導されていますし、私も先生のことをはっきりわかっていませんでした。2人とも思っていることをぶつけ合ったんです」

兒玉は1人で抱え込んでしまうタイプで、その傾向はその後も続くのだが、信岡コーチと話し合うことで気持ちが楽になった。日本インカレでは100m、200mとも予選落ちしたが、兒玉は「やるべきことだけを考えられた」という。

日本選手権リレー「経験していなかったらやめていたかも」

兒玉は日本インカレ翌月のU20日本選手権100mに出場し、11秒83(+1.8)で5位に入賞した。自己記録には届かなかったし、前年の実績を考えれば着順も良いとは言えない。だが日本インカレ後に練習が充実し始め、それがシーズンベストという形になって現れた。

同じ10月に行われた日本選手権リレーに向けて、意識が変わったことが大きかったという。「日本インカレの4×100mリレーは4走の私が抜かれて3位でした。日本選手権リレーでは自分さえ速くなれば優勝できる。高校は全国的な強豪校ではなかったので、リレーで日本一になることがぼんやりとしか見えていませんでした。それが日本インカレで、負けましたが日本一が明確に見え始めたんです。『日本一になる』と口にすることで練習の質を上げられましたし、日本一になるための行動もできるようになりました」

日本一になるために。ぼんやりと頂点が見えたことが兒玉の意識を変えた(撮影・寺田辰朗)

福岡大にはもちろん、リレーのノウハウがある。信岡コーチは世界陸上の4×100mリレーを05年、07年と2度走り(4×400mリレーも一度出場)、日本チームの練習方法は熟知している。信岡コーチは自身の経験から応用し、距離を細かく特定してスピードを計測する練習を取り入れていた。バトンの受け手のスピードが鈍らないようなトレーニングを考案し、光電管やビデオを駆使して簡易的に正確なタイムが測定できるシステムも構築している。

そういった練習は日本インカレ前から行っていたが、日本選手権リレーに向けて気持ちを入れて練習することで、兒玉の個々のメニューへの理解度も高くなったのだろう。器具の使い方も、習熟度が増せば練習が楽しくもなる。人間関係の部分でも進展があったようだ。「先輩にフォームを見てもらったり、信岡先生とささいなことでも相談したりして、日本一になるために何をすべきか毎日考えていました」

その年の4×100mリレーメンバーは4年生2人と大学院生1人、そして1年生の兒玉という構成だった。いい加減な取り組みでは疑問が生じても気にならないが、全力で取り組んで疑問が生じれば周りに質問するのが当たり前になる。周りも兒玉の頑張りを認めて声をかけてくる。信岡コーチとも8月の話し合いを経て、コミュニケーションをとりやすくなっていた。

「今思えば当たり前のことばかりなんですが、当たり前のことを継続したことで結果に結びつくことがわかってきました。あのときの過程を経験していなかったら、陸上をやめていたかもしれません」

日本選手権リレーで福岡大は優勝し、日本インカレで敗れた日本体育大学、立命館大学の2チームに雪辱することに成功した。タイムも予選で44秒95のチーム最高を出している。大学に入って初めて、自分が一生懸命に考えて取り組んだことが結果に現れた。

学生競技者としてやっていく手応えを感じて、兒玉は福岡大での最初の冬期トレーニングに入っていくことができた。

裸足のトレーニングをしたから「今の自分がいる」

福岡大では兒玉が入学する数年前から裸足で行うメニューに取り組んできた。ミニハードルのドリルを芝生の上で行うことが多いが、トラックでタイムも測定した。兒玉も1年時の冬からそのメニューを開始した。信岡コーチが卒論を指導する学生が、ピッチやストライドなどのデータも収集した。

兒玉はその計測で、裸足の方がスパイク着用時より秒速で0.5m程度速かった。シーズンオフなので最高速度の95%ではあったが、ピッチとストライド、接地時間と滞空時間の関係も裸足の方が目標数値に近かったという。スパイクの着用が減っている時期でスパイク本来の機能が生かせなかったからかもしれないが、「改善すべき課題のヒントが裸足にあると感じた」(信岡コーチ)ことから積極的に取り入れた。2年時の4月の測定ではスパイク着用時のタイムがよくなったが、それでも裸足の方が秒速0.15m速かった。

裸足のトレーニングが加速局面に役立ったと信岡コーチはみている(撮影・寺田辰朗)

「まだ仮説段階ですが」と断った上で、信岡コーチは次のように説明してくれた。「裸足の方が接地に行くときに準備をするのだと思います。女子は足関節周りのケガが多いのですが、そこで足底のアーチを保って接地ができれば、接地の瞬間に足首がつぶれず地面のキャッチがしっかりできる。接地でつぶれないで、地面からの反発がもらえるようにしっかりと乗り込んでいけます。兒玉はその走り方ができるから裸足の方が速いのだと考えられます」

信岡コーチは日本選手権の加速局面での走りに、この練習が役立ったと見ている。兒玉本人は、アーチを作って接地するなど細かい部分は意識していないが、「自然に感覚が良くなる」と言う。「最初は効果があるのか半信半疑でしたが、今は裸足の練習があったから今の自分がいる、くらい重要な練習だと思っています」

信岡コーチとのコミュニケーションを深め、日本選手権リレーへ向かう過程で競技に取り組む気持ちが変わり、シーズン後には技術的に大きく前進できる練習にも出合った。兒玉は福岡大最初のシーズンで、学生選手として飛躍していくための要素をいくつも手に入れていた。

福岡大の仲間とコーチに助けられて強くなり、いま世界を目指す 兒玉芽生(下)

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