関学のエース奥野耕世が選手生活にピリオド QBを続けるため行き着いたサイドスロー
学生アメフト界を代表するQBだった関西学院大学の奥野耕世(4年、関西学院)が、16年間の選手生活に別れを告げた。1月3日にあった日本選手権プルデンシャル生命杯第74回ライスボウルで、学生代表の関学ファイターズは社会人Xリーグ王者のオービックシーガルズに18-35で敗れた。身長171cmの小さな体で2年生からエースとして戦ってきた奥野は、泣いた。彼の独特の投げ方は、肩の痛みを抱えつつQBとして生き残るために編み出したものだった。
試合残り5分12秒でタッチダウンを決めて以降、関学にオフェンスは回ってこなかった。ベンチで仲間たちとともにパイプ椅子に座って会場内のビジョンを見つめていた奥野だが、待ちきれずに何度か立ち上がってサイドライン際まで行った。残り2分を切ってオービックに攻撃権を更新されると、椅子に戻った。時計がゼロとなり、関学は3年連続のライスボウル敗戦。その瞬間、奥野の16年のフットボール生活が終わった。
日々の練習思い出し、勝手に涙が
試合後の記者会見で奥野は「小学1年生から16年間ずっとやってきたので、ついに終わってしまったという寂しさと、ここまで16年間何不自由なく、お金がかかるアメリカンフットボールをやらせてくれた両親に感謝したいです」と話した。泣くつもりはなかったが、試合が終わって整列すると、勝手に涙が出てきたそうだ。そのとき最初に思い出していたのは、日々の第3フィールドでの練習のことだという。会見でそのことに触れるとき、奥野は再び感極まった。「ほんとにみんなに助けられて。楽しかった思い出や、苦しかった思い出が一番によみがえりました」
最も心に残る試合としては、2年生だった2018年の西日本代表決定戦を挙げた。立命館大学を相手に奥野が三つのインターセプトを喫したこともあって苦しい展開となり、何とか「逆転サヨナラフィールドゴール」でものにした試合だ。「QBとして一番何がいいのかを教えてくれた試合でした」。関学ファイターズで得たものについては「それぞれが役割を理解して、その役割をまっとうすることで、組織として一つの結果につながるということを学びました」と話した。
「何らかの形で恩返しできたら」
在阪のテレビ局への就職が内定し、社会人Xリーグの強豪はどこもQBに外国人を起用していることから、奥野は大学限りで選手生活を終えることを決めた。「ファイターズで学んだものを社会人になってしっかり生かして、社会に出てからも何かしらで活躍したいなと思います。ほんとにアメフトで育ってきたようなもんなので、何らかの形で恩返しができたらいいなと思ってます」と言った。
ライスボウルでは少しでもオービックのオフェンスの時間を減らすため、関学はワイルドキャットフォーメーションからのランを多用。その分、奥野が投げるチャンスは減った。29回パスを投げて18回成功させ、153ydをゲイン。タッチダウン(TD)はなく、被インターセプトは1だった。何度かスクランブルに出たがQBサックも受け、6回のランでゲインはゼロだった。「自分に足りなかったのはスピードだと思いました。自分で走って相手をかわせる能力があれば、フィールドを広く使えたかなと思います」と振り返った。同学年のWRである鈴木海斗(横浜南陵)とのホットラインは、鈴木が試合中に負傷したこともあり、2回しかつながらなかった。そのことについて触れるとき、奥野は本当に悔しそうな表情になった。
今シーズンに入ってからのある日の取材で、彼は「いままで言ってなかったんですけど」と前置きして語り始めた。ライスボウルでも何度もあったが、奥野はロングパスを投げるとき以外は野球のサイドスローのように右腕を下げてパスを投げる。そのフォームに行き着いた経緯についての話だった。
2度の右肩脱臼で競技人生の危機
実は関西学院高等部3年の5月、大学1年の5月と、奥野は2度右肩を脱臼している。2度目の脱臼のあとに手術をするかどうかという話になった。QBとしての命でもある右肩にメスを入れることについて、奥野はいろんな人に相談した。小学生のときのチームのヘッドコーチは「手術したら終わるで。元通りに投げられへんで」と言った。奥野は「QBを続けたいので、手術しない方向でいかせてください」とチームに要望した。半年ほどして投げられるようになり、試行錯誤の日々が始まった。
肩への負担を考え、投げ方を試行錯誤
何よりテークバックが肩の負担になる。もともとリリースポイントは低めだったが、さらに低くした。「自分で探しながらやってたら、どんどんフォームが小さくなっていきました」。2年生になってスターターとなり、サイドスローとリリースの速さに注目が集まった。取材でもいろいろ聞かれたが、けがに関わることなので、本当のことは言わなかった。奥野が器用で遊び心もあったからサイドスローにしたのでは決してない。ひとえに右肩の負担軽減と、QBサックを食らって再び肩が抜けるのは避けたいという防衛本能から編み出したものだった。チーム内で「もうちょっとリリースポイントが高くならんか?」という話も出たが、実際に試合でパスを相手DLにブロックされることもなかったので、そのままやってきた。
サイドスローが生きたスイングパス
奥野がサイドスローで投げられるがゆえに精度の高まったプレーもある。昨年12月の甲子園ボウルでTDになったRB三宅昂輝(4年、関西学院)へのスイングパス(後ろパスなので記録上は三宅のラン)がその一つだ。プレーが始まると、三宅はRBの位置から少し下がり気味に右オープンへ駆け出す。OLも一気に右へ流れてブロック。右サイドのWRたちは相手DBをブロックに向かう。奥野はすばやくサイドスローで三宅へパス。5ydもないぐらいの短いパスだが、三宅が一切のロスなく加速に入れる絶妙のポイントへ投げる。味方のブロックと三宅が右オープンを駆け上がるタイミングが完璧に合って、TDまでいった。美しいとさえ感じるほどスムーズなプレー展開は、まるで腕が5ydぐらいあってボールを手渡しているがごとく、奥野が速く正確に投げられるからこそ生まれた。
2度目の脱臼をしてから、奥野はゆっくりと肩のウォーミングアップをしないと、力を入れて投げられない。もしXリーグの強豪チームでプレーして、外国人QBの控えになったとする。エースの負傷で急きょ奥野に出番が回ってきたとき、急に出て行ってバンバン投げることができない。それも社会人でのプレー続行をあきらめる理由の一つだった。試合中の痛みはなかったが、試合後は常に痛みに襲われた。それに慣れながら3年あまりやってきた。
「全部終わったら、(けがのことを)書いてもらってもいいです」。奥野は私に言った。そのとき、彼が選手をやめるという決断にブレがないことを改めて実感した。
けがだけでなく、いろんなことを乗り越えてきた4年間。青の背番号3は、アメフトが体格とパワー、スピードだけで争う競技でないことを、改めて教えてくれた。東京ドームで最後に撮ったファイターズの同期たちとの記念写真。奥野耕世は、これ以上ないほどいい笑顔をしていた。