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三河・長野誠史 日本一練習が厳しい東海大九州で磨かれたシュート力でチームに勝利を

シーホース三河のシックスマンとして、長野はチームに勢いをもたらしている(写真提供・B.LEAGUE)

2月7日に2020-21 B1リーグレギュラーシーズン第20節を終え、シーホース三河は琉球ゴールデンキングスに西地区トップを明け渡したものの、今シーズン、チームには常勝軍団復活への気力が満ちあふれている。ハードなディフェンスと果敢なリングアタックで、流れを変えるアクセントとして三河の勢いを加速させているのが、在籍2年目の長野誠史(25)だ。

「PGが若いから勝てない」そこから大きな成長曲線へ シーホース三河・熊谷航(上)

シックスマンとして、好調・三河の起爆剤に

90-70で快勝した昨年12月27日の宇都宮ブレックス戦では、得点源である金丸晃輔、ダバンテ・ガードナーが徹底マークを受ける中、長野は攻守にアグレッシブなプレーでキャリアハイとなる20得点、5アシスト4スティールをマーク。後半1点差まで追い上げられた場面では、得意のフローターで連続得点をあげて悪い流れを断ち切り、勝利の立役者となった。

今季の飛躍の要因について、長野は39歳のベテランポイントガード(PG)・柏木真介の加入が大きいと話す。「チームを常勝軍団に戻すことを使命」に三河に復帰した百戦錬磨の司令塔は、昨シーズン、正解を探しながらプレーしていた若きPGにブレイクスルーをもたらした。

「今シーズンは分からないことがあっても柏木さんに聞けるので、迷いなくプレーできています。柏木さんからは自分の持ち味をどんどん出すようにと言われています。大学でもパスを回して空いたらシュートを打つというバスケをしていたので、今シーズンのチームのスタイルと自分のプレーがフィットしているのもあると思います」

恩師である東海大学九州の元炳善(ウオン・ビヨンソン)監督兼部長も、映像やスタッツを通して長野の成長を感じていた。「柏木、熊谷(航)、(カイル・)コリンズワースというPGがいる中で、自分が出た時にはスピードを生かして速攻に持っていくとか、自分の強みを明確にしたプレーが多く出るようになった。それがチームにうまくフィットして、プレータイムを得ているという印象です。彼が活躍することで他のPGも刺激を受けるだろうし、それがチームが上向く要因となり、結果にも表れているのだと思います」

東海大九州での日々が今の長野のベースになっている(写真提供・東海大学九州)

プロへの道を開くため、東海大九州へ

石川県出身の長野は、父がバスケットボール経験者で、10歳と9歳上の2人の兄がともにバスケをしていたことから「小さい頃からボールに触れる環境にいました。実家がパン屋なので、パン屋かバスケ選手かどちらかになれたらいいなと思っていました」と振り返る。小学3年生になる春休みに地元のミニバスチームに入り、中学時代は石川県内で1、2位を争う強豪校でプレー。「バスケを続けるなら強いところでやりたい」と金沢高校(石川)に進学する。

金沢高校の大舘慶徳監督と東海大学九州の元監督は旧知の仲で、練習試合や遠征で東海大学九州を毎年訪れていた。そこで長野は「バスケのセンスがある」と元監督の目に止った。関東の3部リーグに所属する大学からも誘いがあったが、「プロを目指すなら、元さんのところに行った方が道が開けるよ」と勧められ、東海大九州の門をたたいた。

毎日シュート1000本、休みの日もずっと

「ある記事に日本一練習が厳しいと書かれてから、そういうイメージがついてしまったのですが、そんなことはないんですよ」

事前に取材をした元監督がそう話していたと長野に伝えると、「いやいや、違うんです。本当にキツかったですよ。基本2部練で、走るかシューティングするかのイメージしかないです」と普段はおっとりとした口調の長野がめずらしく畳みかけるように反論した。

「高校も走る練習が多くて、体力には自信があったので、走りに関しては大丈夫だったんですけど、『シュート毎日1000本』がキツかったです。最初の頃は腱鞘炎(けんしょうえん)になりましたもん。(元)部長に『休みの日もずっとシュート打っとけ』って言われるんですよ。休みは休ませてくれよと」

しかしこの厳しい練習がプロへの道を開くことは、長野をはじめ、小澤智将(愛媛オレンジバイキングス)、林翔太郎(新潟アルビレックスBB)ら多くのBリーガーを輩出していることが証明している。長野も「大学時代には二度と戻りたくない」と苦笑いを浮かべながらも、「色々な経験をして成長できた4年間」があってこそ、今の自分があると感謝している。

鍛えられた「シュートにいく感覚」

フローター、3Pシュートと要所で高確率にシュートを決める印象のある長野だが、高校までアシストを得意としており、「シュートはそれほどうまい選手ではなかった」と元監督は言う。長野も3Pシュートは大学時代の財産だという。

「フローターは小さい頃から打っていたんですけど、3Pシュートはそれほど得意ではなかったですね。大学2年か3年の時に鼻を骨折して、フェイスガードをしてプレーしていた時期があって。理由は分からないんですけど、その時にめちゃくちゃ3Pシュートが入るようになりました。不思議なんですけど、それ以来、フェイスガードなしでも、急にシュートタッチが良くなりましたね」

因果関係は不明だが、おそらく1日1000本の積み重ねが、フェイスガードをトリガーに一気に花開いたのだろう。

東海大九州で長野は来る日も来る日もシュートを打ち続けた(写真提供・東海大学九州)

シュートの技術に加えて、「シュートにいく感覚」も大学時代に大きく変わったと長野は続ける。「『空いたらシュートを思い切り狙え』と部長からいつも言われていました。自分はパスを狙いすぎるところがあるので、『狙うな、自分で点を取ってこい』と。それが今の強気な姿勢につながっていると思います」。元監督は厳しい叱咤(しった)の裏には次のような意図があったと明かす。

「誠史は高校の頃からバスケットのセンスがあり、特にチェンジ・オブ・ペースに優れていたので、大学では自分で得点を取りにいくという部分を強化したいと考えていました。だから彼には『点を取れないガードはいらないよ』と耳痛く言い続けましたね。練習でいくらノーマークで1日1000本練習しても、試合で打たなかったらシュート力は上がらないんです。だから空いているのに打たないことに対しては、すごく怒りましたね」

けが明けの西日本インカレで大爆発、初優勝に貢献

磨いたシュート力が結実したのは、初優勝を果たした4年生の時の西日本インカレだ。長野は4年生の春に右足首を骨折。西日本インカレはけが明け最初の大会だった。そのため、当初は準決勝からの出場を予定していたが、その2つ前の京都産業大学戦で前半を27-37の二桁ビハインドで終え、元監督は「誠史を出さずに負けて後悔をしたくない」と急きょ長野をコートに送り出す。

ベンチで「乗り越えてくれ、勝ってくれ」と独り言を繰り返していた元監督の祈りが通じたのか、長野は後半からの出場で3Pシュート7本を含む33得点の大爆発。最終スコア80-69で逆転勝利し、次に駒を進めた。

「あの時はマジで神がかっていました。打てば入るという感じでしたね。リハビリ中にシュート練習をずっとしていたのがよかったんですかね。勝負強いというか、どんな大会でも普通にいつも通りにプレーしているので、小さい頃から緊張とかプレッシャーとかはほとんどないです。あの時は、部長が『こんなけが人をずっと出してどうするんだ』ってずっとみんなに怒っていたのが面白かったんですよ」

長野はそう言いながら、他人事のように無邪気に笑った。

準決勝では大阪学院大学に94-78、決勝では名古屋学院大学に88-68で圧勝して初優勝。京産大戦での活躍が評価され、長野は最優秀選手、アシスト王を獲得した。

2017年、東海大九州は初めて西日本インカレを制した(前列左端が長野、写真提供・東海大学九州)

インカレで熊谷率いる大東大に敗北

西日本チャンピオンの称号を自信に、満を持して臨む全日本インカレだったが、2回戦で現在のチームメート、熊谷が司令塔を務める大東文化大学に71-89で敗れ、ベスト8の壁を破れなかった。一方、勝った大東大はインカレ初制覇を果たしている。

「クマコー(熊谷)に負けました。あの試合に勝っていたら、もしかしたら優勝できていたんじゃないですかね。関東には、僕たちのような常に動いているバスケスタイルのチームはないので研究しづらいと思うし、自分たちのバスケをすれば勝てるという自信はありました。練習量も自分たちの方が上だし、『これで負けたら、ただキツかっただけやん!』みたいな。そう思いたくないという気持ちはありましたね」

インカレでは日本一には届かなかったが、長野の4年間は「ただキツかっただけ」ではなかった。大学卒業後は大阪エヴェッサに入団、プロになるという目標を果たした。

大学4年間で築いた得点力に磨きをかけ、プロの世界で勝負する(写真提供・B.LEAGUE)

最後に、理想のポイントガード像を長野に聞くと、「得点を取れるポイントガード」と答えた。「得点力のあるガードは魅力的だと思うし、それは大学の頃から部長に言われてきたことなので、追求し続けていきたいです」

元々備えていたアシスト能力に、大学時代に築いた得点力、さらに柏木の経験やゲームコントロール力を加えて、日々ステップアップしている長野。その成長は、常勝軍団・三河復活の大きなエネルギーとなる。

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