立教大・竹葉章人 粘り強く試行錯誤、ラストシーズンでつかんだ六大学の首位打者
「あぁ、おれの野球人生これで終わったな」。そう思う日もあった。昨秋、東京六大学野球・立教大学の正捕手として大学野球を引退した竹葉章人(あきひと)。打率.429で自身初の首位打者に輝いた。タイトルを獲得したのはこの秋が初めてだった。3年生までは控え選手だった竹葉。我慢強く駆け抜けた4年間について取材した。
立教大に入りぶつかった、先輩捕手の「高い壁」
竹葉は高校時代、龍谷大平安の捕手として活躍。2016年の第88回選抜高校野球大会ではベスト4入りに大きく貢献した。進路相談の際に「立教大学に行きたいです」と平安・原田英彦監督に志願。1992年の監督就任以来、原田監督が立教大に教え子を送り出すのは初めてのことだった。
「当時、笠松悠哉さん(大阪桐蔭-立教大-ヤマハ)が活躍されていて。高校時代から憧れていたんです。『六大学に自分なんか行けるわけない』と思い込んでいましたが、選抜でベスト4に入ったので思い切って監督さんに言ってみました」。と当時を振り返る。そして立教大の監督が平安のグラウンドに来訪。最初から入部が決まっていたわけではない。実際にプレーを見てもらい立教大への進学が決まった。「正直諦めていたのでうれしかったですね。通用するのか不安でしたが、東京六大学野球で、神宮球場で野球ができる。いろんな人に見てもらえる。ワクワク感はありました」
入部当初はレベルの高さを痛感した。「打撃は自信がなくなりましたね。『あ、このままじゃ無理だ』と思いました。でも捕手としての送球の面では『いけるな』と思いました」。まずは自分のできることから。先輩からいろんなものを吸収しながら技術練習に打ち込んだ。
3学年上に髙田涼太(浦和学院-立教大-JFE西日本)、そして1学年上に藤野隼大(川越東-立教大-Honda)。絶対的な先輩捕手の存在は壁のように大きかった。「4年生になるまで絶対試合に出られない。それくらいすごかったんです。もし出られても試合の終盤。リーグ戦の数少ない出番でミスは許されません。先輩を見ながら勉強して、基本的な練習を繰り返しました」
自分の出番をつかむその日まで我慢強く歯を食いしばる。竹葉は「試合に出る」ことよりも「試合に出たときのために」という意識で練習に取り組んだ。そして1年の秋季リーグ戦終了後、オープン戦で出番をもらえるようになった。「投手を引っ張ることも配球も相手打者を見ることもできなくて。自分のプレーで精一杯。頭を使うことが大切になると痛感しました」。先輩と自分の差は何なのか。試行錯誤を繰り返した。
そして2年生になった2018年の秋季リーグ戦。2試合でマスクをかぶる。初めての試合出場は法政大との1戦目で、2試合目の出場は慶應大との1戦目。慶應戦ではスタメンマスクをかぶった。「緊張はあまりしませんでした。とにかくチームが勝てるように。明日に繋がるような試合にするために。それだけを考えていましたね」。試合に出られないことを覚悟していたが、考えていた通り出番は少なからずあった。出場の機会は限られていたが、試合に出ることで確実に経験を得られた。「試合に出たことは大きかったですね。その後にも繋(つな)がりました。バッターの様子を感じながら、考えてリードできるようになった手応えを得たんです。キャッチングにも余裕が出てきました。野球が徐々にわかるようになってきた感覚がありました」
メンバーから外され、目が覚めた
そして最上級生になった。学生野球、最後のシーズンだ。「4年の春に懸けていた」。竹葉が本気でそう思えたのは、3年の秋季リーグ戦でメンバーから外れた経験が大きかった。「練習中に監督に反抗するような態度を取ってしまったんです。間違ったことはしてません。言われたことに対してムッとして態度を出してしまって。すごく後悔しましたね。やさぐれてしまいました(笑)」。その日をきっかけに竹葉を心配した先輩が気晴らしに飲み会に誘った。それは先輩の優しさだ。でも竹葉はそこで目が覚めた。
「誘ってくれた先輩には申し訳ないんですけど『おれは何してるんやろ』と思ったんです。試合に出られる保証がある立場でもない。上で野球ができるかどうかもわからない。飲んだり遊んだりするために立教に来たわけじゃない」。その日からまた靴ひもを固く結び直した。
胸を張って「おれはやり切った」と言えるように。捕手としてチームを勝たせる。投手の能力をしっかりと引き出す。それが捕手の使命だ。「そんな捕手にずっとなりたかった」、大切なことを思い出した。
「野球人生終わった」からの再起
そんな竹葉に災難が起こる。2月に行われたオープン戦。打席でファールを打った瞬間、左手に強烈な痛みが走る。有鈎骨(ゆうこうこつ)の骨折だった。「野球人生終わったと思いましたね。焦りました」。4年春に懸けていた。リーグ戦に間に合わない。試合に出ることもできない。上で野球を続けるためのアピールもできない。心は折れそうになった。でも下を向くわけにはいかない。すぐに手術を受けて、今できる練習を繰り返した。手術をした左手を使わずに送球練習をしたり、下半身の強化に着手した。少しでも感覚を落とさないように。
結果的に春季リーグ戦の開幕に間に合った。コロナウイルスの流行により、春季リーグ戦の開催が大幅に遅れたからだ。「こんなことを言うのは良くないかもしれませんが、8月開催だから間に合った。これが本当に大きかった。コロナに助けられたと言ってもおかしくないです」。申し訳なさそうに振り返る竹葉だが、これは本音だ。コロナをきっかけに人生が好転する人は世の中にもいる。竹葉もそのひとりだった。
そして春季リーグ戦、正捕手としてマスクをかぶり続けた。学生最後のリーグ戦となる秋季リーグ戦では打率.429で首位打者を獲得。「打撃は無理やな」。入学当初はそう思っていた。「四球でいいから塁に出る。三振してもいいから少しでも投手に多く投げさせる。そんなことを考えているレベルでした。そこからスタートしたので、首位打者を取れたのはうれしかったですね」
竹葉は自身の打撃の成長と手応えをたしかに実感していた。3年生から東京・青山にあるトレーニング施設「テコセンター」に通い始めた。トレーナーの方に指導を仰ぐと、下半身がうまく使えてないという課題が見つかる。それから徐々に下半身の使い方が身に付いたことで打撃に変化が生まれた。そして六大学の好投手を打つべく、練習から対策を練った。スピードボールに対して開かずに身体(からだ)の中で打つ。その取り組みを継続していき、秋季リーグ戦前のオープン戦では確信に変わっていた。手応えを持って挑んだ最後のリーグ戦。今まで自分で「無理だ」と思っていた打撃でチームに貢献し、無縁と感じていた大きなタイトルをつかんだ。打てないままの自分が悔しかった。だから打撃から目を背けずに練習し続けた。
しかし竹葉はこの首位打者を「有終の美」というような扱いにはしていない。心に残ったのは自身に対する物足りなさ、悔しさだ。「捕手としてチームを勝たせられなかった」。東京六大学野球で勝つことの難しさを痛感した。でもそれだけじゃない。誇りにしている財産もある。「凄(すご)い打者、凄い投手がたくさんいて。そういう環境で野球ができて試合に出られて自信になりました」
勝てない悔しさがあったから頑張れる
そして大切なことを学んだ。それは「割り切ること」だ。「人それぞれ自分の苦手なこと、得意なことがある。調子が良い時も悪い時もある。けがをすることもある。すぐに良くなる方法やうまくいく方法なんてない。変化球が打てないならストレートを打てばいいし、ランナーに走られてもバッターを打ち取ればいい。けがをしたら他のメニューをすればいい。悲観しても仕方ない。代替えはいくらでもある。そう思えるような準備を常にしておく」。改めて自分に言い聞かすように話した。
卒業後は社会人野球チーム・Honda熊本で野球を続ける。「これが最後の練習会参加になる、これで採ってもらえなかったら野球は大学で終わり」。覚悟を持って練習参加に挑み、最後の最後に社会人野球への扉を開けた。
「高校野球で最後に夏の甲子園に出て勝っていたら満足していました。強い気持ちを持って大学野球を頑張ってなかったかもしれません。大学でもリーグ戦で優勝して全日本選手権や神宮大会に出ていたら、満足して野球を卒業してたかもしれません。悔しさがあるから頑張れてきました。僕はまだ1番の喜びを知らないんです。だから最後に社会人野球で1番になりたい。そのために頑張ります」
勝てない苦しさは人を育てる。人を強くする。
紆余曲折(うよきょくせつ)の4年間を誇りに、竹葉は最後の日本一を目指す。