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連載:野球応援団長・笠川真一朗コラム

日本生命の阿部翔太、オリックス入りのオールドルーキーが挑む最後の都市対抗

都市対抗野球に挑む日本生命の阿部翔太(日生野球部提供)

4years.野球応援団長の笠川真一朗さんのコラムです。都市対抗野球大会に挑む選手から、オリックスバファローズに6位指名された日本生命硬式野球部の阿部翔太投手(28)に迫ります。

最速150kmの直球とフォークボールを中心とした多彩な変化球で打者を翻弄(ほんろう)する阿部投手。魅力はマウンドでの強気な姿勢だ。試合を見ていて「何だこの人!めちゃくちゃかっこいいな!」と感じたので取材をお願いした。セールスポイントを「僕は技術じゃない。絶対に気持ち」と言い切る。6年間の社会人野球生活で培った経験値が、プロ入りに結びついた。

酒田南高3年で投手へ転向

大阪市大正区生まれ。野球好きの父親の影響で野球を始めた。「父は中学生までしか野球ができなかった。だからこそ僕には野球を長く続けてほしいという気持ちはあったと思う」。しかし、阿部は「中学まではちょっとヤンチャで。正直まだそこまで野球に真剣に取り組む姿勢はなかった」と振り返る。

酒田南高時代に父と。3年生の春まで捕手だった(本人提供)

山形の酒田南高3年生の春まで捕手だった。2学年下に現・楽天イーグルスの下妻貴寛が入ってきた。「すぐに抜かれて。ものすごい実力があった。もともと自分たちの代に投手がいなかったのと僕は地肩が強かったので、監督に『1回、投手やってみ』と言われて投手になった」。阿部の初めての公式戦マウンドは最後の夏の大会だった。

卒業後は京都の福知山にある京滋大学野球連盟の成美大学(現・福知山公立大学)に進んだ。他にも進学先はあったが、成美大を選択したのには理由があった。

「もともと酒田南に呼んでくれた当時のコーチの峰地良和さんが成美大学のコーチになり、 また、峰地さんが僕を呼んでくれた。中学まで真面目に野球をやってなかった僕を変えてく れた恩人。峰地さんに人生を救われたと言っても過言じゃない。峰地さんと出会ってなかったら今も野球をしているかわからない。僕にとって恩師だからふたつ返事で『はい!行きます!』と成美大に行くことにした。野球でもグラウンドでも大切なことは峰地さんに教わっ た」 父子家庭だった阿部は実家の大阪を離れて酒田南で寮生活を送っていた。慣れない野球漬けの生活で峰地さんの支えは大きかった。

京都・福知山の成美大へ

成美大はプロ野球に進むには容易な環境ではなかった。しかし阿部は当時の環境を良いものとして捉えている。「投手として実戦経験が少ない中で1年春から試合で投げさせてもらえて勉強になった。確かにチームの力は無かったけど試合になったら絶対に自分の方が上だと思っている。負けず嫌いなんで(笑)。それは昔も今も同じ」と1年時から強気の投球で相手に挑んだ。

成美大学で力投する(本人提供)

在学時はアルバイトも率先して取り組んだ。週4日はスーパのレジやコンビニで働き、オフシーズンには短期のバイトも。福知山は冬になると雪が降る。高速道路を利用する自動車がスノータイヤを利用しているか確認するバイトもした。阿部はそんな環境で野球をやることを嫌がったり、言い訳にしたりしなかった。「野球をしてアルバイトをするのが当然だと思っていた。バイトは練習後の夜に入っていたから野球をおろそかにはしてないし、苦にもならなかった」

1年時から投げ続けた影響で肩、ひじのけがも経験した。走ったり、ウェートトレーニングをしたりやれるだけの練習には取り組んだが、関節の柔らかさなどがなかった。けがが治ったのは4年生の春。プロに行くことしか考えてなかった阿部はがむしゃらに投げ続けて結果を出した。「社会人はみんな野球の強い大学から進む。二流、三流の大学からだとプロに引っかかる可能性の方がまだ高いというイメージがあった。だから社会人に行くことは考えていなかった」

日本生命の練習に参加、運命変わる

ある縁で、「日本生命に行って練習だけでも経験しておいで」という声がかけられた。しかし阿部は「嫌です。成美大みたいなところから行っても恥かくだけです」と断った。リーグ戦で抑えたといってもレベルは知れている。優勝をしたなど実績もない。通用しないと思っていた。

それでも半ば無理やり、練習に行くことに。ブルペンでピッチングをすると調子が良かった。ストレートが走る。それを見た日本生命のスタッフは急遽、シートバッティングで投げさせることに。そこで阿部は「自分でもビックリした」と語るほど一線級の打者をほぼ完璧 に抑えた。そしてその日のうちに正式に声をかけられる。異例のことだった。プロ入りを目指していた阿部は少し迷ったが「日本生命に呼ばれるなんてすごく光栄なこと」と社会人野球の世界へと進むことを決意。その話を大学のチームメートにすると「うそやろ?そんなことあんの?」と信じてもらえなかった。

日本生命6年目で念願のプロ入りをつかんだ(日生野球部提供)

日生入りした阿部は大学時代の投球過多が影響し、肩を痛めていた。これが逆に良い経験になった。「大学時代は自分でひたすら考えて練習できたのが良かった。でも知らないことはたくさんあった。けがの対処とかも。そういうことを社会人野球で一気に学べた。それに僕は弱い大学からやってきた。だから自信もそんなになかったし、すぐに投げられるとも思ってなかった。変なプライドを持ってなかったのも大きい。自然と色んなことを吸収できた」

ここで、「自分の成長のために、人にベクトルを向けること」を学んだ。けがをしていた阿部はチームメートがグラウンドで練習をする日でも、他の球場に一人で出向き、対戦相手の偵察やデータ収集に奔走した。そこで他チームのエースの姿を見て自分との違いを学んだ。「球自体は僕とそんなに大差がなかった。でもこの人たちはなぜエースな のか。なぜ抑えられるのか。そういう目で見てみると自分との違いがわかった」変化球のコントロール、打者との間合いや駆け引き、同じ球を同じフォームで投げる、ストライクゾーンで勝負ができる、そしてエースとしての姿勢。目に映る他チームのエースの1球、1球が自分の成長に変わっていく気がした。

社会人3年目の試練

けがが治るまで時間は要したが、今までとは違う練習を積み重ねた。そして迎えた3年目の都市対抗予選初戦。新日鐵広畑との試合で10回を1失点完投勝利。奪った三振は10個。本選出場に大きく貢献する活躍を見せた。そして都市対抗では初戦の先発マウンドを託される。 しかし三回途中で降板。チームは敗退した。阿部は「まったく良い投球ができなかった。課 題は技術じゃなくて精神的な部分。ハッキリとそれがわかった。試合で打者を抑えることよ り『プロに行ったる!』ということを考え、実力以上を出そうとした。相手を抑えて勝った 先に自分の目標があるのに、気持ちが先走っていた」。 

その年、ドラフトで阿部を指名する球団はなかった。都市対抗で明確になった精神的な課題もどうすることもできず、もがいていた。プロに行きたい気持ちも徐々に薄れ、日本選手権を迎える。1、2回戦、準々決勝と先発マウンドに立たせてもらえなかった。「なんで投げさせへんねん」と愚痴が出た。そして、先発を告げられた準決勝の日本新薬戦。「投げたすぎて、ウズウズしていた。余計なこと考えずマウンドに立てた。それがよかったと思う」と完封勝利で、13三振を奪った。

「試合に投げて当たり前じゃない。初心を忘れてるんじゃないか?それは絶対に忘れたらあかん」

試合後、十河監督に告げられハッとした。「調子が悪くても投げさせてもらえることがあった。試合に投げて当然。それを当たり前だと思っていた」。そして入社した頃を思い出した。「ヤンチャなのは知ってる。ただ、野球だけはしっかりやろう。もちろんマウンドでもヤンチャで全然オッケー。人として間違ってることをしたら、その時は俺がちゃんと言ってやるから」とコーチの竹間さんに声をかけられた。変に着飾らなくていい。そのままの自分でいい。気が楽になったのは竹間コーチのおかげだ。3年目の失敗と気付きを糧に、「自分の投球で日本生命を勝たせたい」とそれだけを思って投げるようになった。チームに救われてきた阿部は少しづつ変わった。

恩返しの都市対抗野球になる(撮影・笠川真一朗)

もちろん根底にはプロへの気持ちがある。でもそれだけがすべてじゃない。「ネット裏と勝負をしない、意識しない、プロに行けたらラッキー」そう思うようになってからは徐々に安定感を増して6年目に好成績を残した。ネット裏にスカウトが来てももう意識しない。そし て迎えたドラフトで、オリックスから指名された。「3年目にプロに行けていたら、大事なことがわからないままだった」と紆余曲折は無駄ではなかった。「6年目でプロに行けるのは絶対に自分だけの力じゃない。色んな方々の後押しがあってこそ。すごく感謝している」

阿部には妻子がいる。「日本生命にいれば安泰。それはわかっているし、みんなそう言う。でもプロは誰でも行ける世界じゃない。上の世界があるから向上心を持って取り組んできた。だからこそ、この目で見てみたい。嫁はそれを言わなくても理解してくれた。『絶対止めることはない。もしクビになって職がなくなっても私が稼ぐから大丈夫』と言ってくれて。だから僕も指名されたら行くという決意を持って日々野球に打ち込めた」

6年目のプロ入りは、遅くはない

社会人野球の選手の思いも背負っている。「6年目でプロに行くのは遅いと言われる。でも僕はそうは思わない。プロ野球選手でも一線で活躍してる投手は30歳から32歳が多い。そう思えば驚きも自分自身にとってはそんなにない。僕がちゃんと活躍すれば、それが当たり前になるかもしれないし、社会人野球に良い影響を与えることができる」

その言葉には力強さを感じた。

エリートに負けたくない。打たれた悔しさは忘れない。もし打たれても次はその打たれた球で抑える。常に上を見る姿勢で向き合ってきた野球人生。阿部は言う。「『これでいいや』は野球にはない。僕はまだまだ成長できる」

学生に伝えたいことがある。「何か一つのことに打ち込めるのも才能だと思う。極める努力をしてほしい。でも、それは簡単なことじゃない。誘惑もいっぱいある。僕はそれでも野球だけはやり通した。だから今があるし、これからもそうする」

阿部は一度も野球から逃げずに、正面から向き合い続けた。だからこそ言葉に重みがあった。そして迎える最後の都市対抗。阿部にとって恩返しの都市対抗だ。

「人に恵まれてここまで来た。お世話になった色んな人たちのために投げ勝ちたい」

自分のことだけを考える阿部はもうどこにもいない。大事な人たちのために気合一頂で腕を振る。

野球応援団長・笠川真一朗コラム

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