法政大学のPR石母田健太 震災半年後、「体を動かせ楽しかった」ラグビーで恩返し
東日本大震災からまもなく10年を迎える。宮城県女川町で小学校4年の終わりに被災した法政大学ラグビー部のプロップ(PR)石母田(いしもだ)健太(2年、國學院栃木)は、多くの支えがあり震災半年後に楕円球(だえんきゅう)に触れ、体を動かせたことが忘れられない。「自分が一番できる恩返しはラグビー。地元の人が自分のプレーを見て元気になったり、頑張る気持ちを持ったりしてくれたら」と心の片隅で持ちながら競技を続けてきた。
スクラムを最前線から支える
2020年度、関東大学リーグ戦の名門・法大でスクラムを最前線から支えチームに貢献した選手が、2年生の学年リーダーも務めた石母田である。「1年の時はスクラムを組み込むことができましたが、今年は(コロナ禍で)あまり組めず感覚を取り戻すまで時間がかかった」と悔しそうに今季を振り返った。
身長177cm、体重108kgの堂々とした体格。ラグビーを始めた頃から「スクールでは体が大きかった」ためFW一筋で、スクラムには自信がある。それでも「もっと体を大きくしたいし、フィールドプレーも磨きたい」とシーズン終了後は、来季に向けて実家のある宮城県女川町でトレーニングを重ねていた。
父の洋和さん(52)は、宮城県の強豪の一つである石巻工高出身で、花園(全国高校大会)にも出場したフッカー(HO)だった。息子と同じようにスクラム第一列で戦った。健太が6歳の頃、女川に隣接する石巻に新たにラグビースクール(石巻ライノス)が創設され、父の勧めもあり、2つ上の兄、洋平さんとともにラグビーを始めた。
石母田少年は「一人ひとりで勝てなくてもみんなで練習して協力すれば勝てる」というラグビーの魅力に徐々にひかれていった。ラグビーを始めて5年、小学校4年も終わろうとしていた2011年3月11日、大震災が起きた。牡鹿半島頸部でリアス式海岸や日本でも有数の漁港のある女川町は、津波による甚大な被害が出た。
小学4年生で被災
小学校にいた石母田兄弟は校庭に避難したことで難を逃れることができた。しかし、実家は海岸から離れた場所にあったにも関わらず津波ですべて流された。当時、実家にいた祖母はいまも見つかっていない。ラグビースクールの同級生は亡くなった。「全部(津波で)流されてしまったし、祖母もいなくなってしまって不安でした。同級生もいなくなってしまい、信じられない感じでした……」
父は運送業を経営しており、トラックもすべて流されてしまった。家族で11年6月までは町内の体育館で避難暮らしを余儀なくされた。その後、仮設住宅に入ることができた。石母田は「自分と兄が小さかったからギリギリでしたけど、今思えば狭かったですね」と振り返った。
ラグビーを再開できたのは、震災から半年ほど経った秋口だった。ボールもジャージーも津波で流されてなくなったが、日本やニュージーランドのチームで活躍した西山淳哉選手が中心となって支援してくれたという。同級生が亡くなるという現実はなかなか受け入ることはできなかったが、「久しぶりにチームメートと会えたときはうれしかったですし、ほとんど体を動かせていなかったのでラグビーができて楽しかった」。現在、法大でFWコーチを務める作田敏哉さんも一緒に指導にきてくれたことがあった。
「他県との交流をして外に目を向けることができるようになったのはいい経験でした。ラグビーならではの助け合う精神を感じましたし、自分一人では何もできないと思いました。行動力がないとできないですし、西山さんは自ら動いて(震災時に)支援して下さり、今でも石巻ライノスまで月1回くらい来て指導してくれています。尊敬しています」(石母田)
「うまくなりたい」國學院栃木で花園出場
スクールの同級生の大半は小学生まででラグビーをやめてしまったが、石母田は中学生になってもラグビーを続けた。学校では部活で柔道をやりながら、土、日は宮城県のスクール選抜で熱心に取り組んだ。3年生の時はキャプテンを務めたが、なかなか東京や神奈川の強豪チームには勝てなかった。それでもラグビーがうまくなりたいという気持ちは揺らぐことはなかった。
「花園に出場したい。できれば、出場するだけでなく勝ちたい」。そう強く思うようになっていた石母田は兄が桐蔭学園(神奈川)に、そして宮城県選抜の1つ上のWTB/FB千葉誠矢(専修大学3年)、CTB萱場啓太(山梨学院大学3年)が國學院栃木に進学した影響もあり、先輩たちの後を追うように親元を離れた。また「仮設住宅から出たかったという気持ちも少しはありましね」とも吐露した。石母田が中学卒業時はまだ仮設住まいで、以前とは違う場所に現在の自宅ができたのは、高校2年になってからだった。
関東の強豪高校の一つ國學院栃木では、1年生の時は下のチームにいて試合に出ることはかなわなかった。しかし、吉岡肇監督、浅野良太コーチ(現NECヘッドコーチ)、長山時盛スクラムコーチの下、めきめきとFWの第一列として実力をつけていく。そして2年生になってPR、3年生の時はHOとして、石母田は小さい頃からの夢でもあった花園出場を果たした。2年生の時は第97回全国高校大会(17年度)で2回戦、第98回大会では3回戦まで進んだ。
兄は高校の途中でラグビーをやめて薬学部のある大学に進学したが、石母田は「大学でもラグビーを続けたいし、将来のことを考えると勉強もしっかりしたい」と法大の門をたたいた。1年生の時はあまり試合にでることはかなわなかったが、2年生になるとスクラムの強さを武器に控えメンバーとして公式戦に出場するまでに成長した。
「ラグビーが一番、自分が頑張れる」
3月11日で、東日本大震災から10年となる。
石母田は「普段は(震災のことを)思い出すことはないですし、節目のときしか意識しません。ただ10年だからとかではなく、自分が被災して、いろんな体験をしたからこそ、感謝の気持ちが人一倍あります。環境が整っていなかった中で、ラグビーを続けてこられたのも、支援して下さった方のおかげです。何で恩返しをするかと言えばラグビーです。ラグビーが一番伝わるし、一番自分が頑張れる」と自らに言い聞かせるように言った。
4月から上級生になる石母田は将来、トップリーグが発展する新リーグでプレーしたい意向も持っている。「年々、良くなっていますし、なるべく上のチームでラグビー続けたい気持ちがあります。まずプロップなのでスクラム、ラインアウトの軸になる。そしてもっとフィールドプレーでボールに絡んでいきたい」。先輩とのポジション争いに勝ち、先発の座を射止めて全国大学選手権出場に貢献すれば、大きなアピールとなるはずだ。
小学校4年で被災し、高校から親元を離れた。困難な状況でもラグビーを続けてきた自負がある。石母田は「自分にしかできないこと、伝えられないことがあるはず。地元の人が自分のプレーを見て元気になったり、頑張る気持ちを持ったりしてくれたら」という思いを胸に、法政の「橙青ジャージー」をまとい、最前線で体を張り続ける。