ラグビー

特集:第57回全国大学ラグビー選手権

「芦屋の暴れん坊将軍」が日本一のキャプテンになった 天理大学・松岡大和主将(上)

優勝インタビューで、天理大学の松岡大和主将の右ほほを涙が伝った(撮影・全て朝日新聞社)

「メンバー外のみんな、そして応援してくださった方々、本当にありがとうございました!」。まっすぐな言葉が、たくさんの人の心を震わせた。天理大学ラグビー部主将、フランカー松岡大和(やまと、4年、甲南)の「涙の優勝インタビュー」は記憶に新しい。昨年8月に奈良県天理市内の部の寮で新型コロナウイルスのクラスター(感染者集団)が発生。約1カ月の活動休止を経て、立ち上がった黒衣軍団が明治大学、早稲田大学に完勝し、全国大学選手権を初めて制した。誰よりも体を張り、声を出し、仲間を引っ張った松岡の4years.を2回に分けてお届けします。

「湧き上がるものがあった」涙の優勝インタビュー

早大との決勝(1月11日)。後半になると松岡は体のあちこちがつったそうだ。動きが悪くなり、32分で交代。この時点で涙が出て止まらなくなっていた。そして優勝インタビューは「めっちゃくちゃうれしいです!」という叫びで始まった。「それこそめっちゃうれしくて、そのあとも思ってたことを口にしただけです。キャプテンとしてやりきって、しゃきっとしてしゃべらなあかんと思ったんですけど、どうしても湧き上がってくるものがあって、涙してしまいましたね」。松岡が人なつっこい笑顔で振り返る。

表彰式でも足がつり、立っていられなかった

57回目の全国大学選手権の歴史で、関東勢以外が大学日本一になったのは1980、82~84年度の同志社大学だけだった。花園(全国高校大会)を沸かせた関西の高校生も関東の大学へ進むケースが多く、天理大は高校時代に「無印」だった選手が大半だ。松岡もその一人。兵庫県芦屋市にあり「世界に通用する紳士たれ」を建学の精神とする中高一貫の男子校、甲南中学校・高校の出身だ。甲南は花園に出たことがなく、松岡が主将を務めた高3のときは兵庫県予選の準決勝で報徳学園に10-57で負けた。でもいま、松岡は言う。「報徳やからヤバいんちゃうんとか、そんなん思わんといてほしい。どんな相手に対しても食らいつくぞ、と。同じ人間やし、ひたむきにハードワークして頑張り続ければ勝てるっていうのを、今回の優勝で伝えられたと思います」

タックルバックにバコーン、だ円球の虜に

松岡は神戸市北区で生まれ育った。5歳か6歳でサッカーを始め、地元のクラブチームに入っていた。最初はFWだったが、パスを出さずにトーキックでシュートばかりしていたら、どんどんポジションが下がってきた。「最後にキーパーで花開いたって感じです」と笑う。小4から3年間はGKだった。6学年上の兄・健人さんと同じ甲南中に進んだ。

入学すると、ラグビー部だった兄の後輩たちに囲まれた。「おお、松岡ジュニア待ってたぞ」。か細かった12歳の大和少年は愛想笑いを振りまいて「こんにちは」と言うしかなく、部室へ連れて行かれて、体操服に着替えさせられた。「はい、入部な」と言われてグラウンドへ。そこで初めてラグビーボールに触れた。これが楽しかった。「こんなボールなんや、すげえと思いました。パスできるし、当たれるし、蹴れるし、タックルもできる。コーチが持ってるタックルバックにバコーンといったら、めっちゃ気持ちよくて。このスポーツ最高やなと思って、そこから虜(とりこ)になりましたね」。兄のおかげでラグビー人生が始まった。

兵庫では高校と同じで中学も関西学院と報徳学園が強かった。しかし松岡が中3のとき、甲南はこの両校に勝って久々に県で優勝した。「いやあ、達成感ありましたね。人生で優勝なんてしたことなかったんで、うれしかったです。最高でした。優勝っていう余韻に浸って、ちょっと天狗(てんぐ)になってたとこありますね。みんな。俺らの代で甲南が久々に優勝してんから、高校でもいけるやろって」

NZで学んだひたむきさ

ラグビー大国との出会いも大きかった。ニュージーランド(NZ)のクライストチャーチ在住で、スポットで甲南のコーチに入ってくれる樫塚安武さんが「来てみるか?」とNZへの短期留学に誘ってくれた。両親にお願いして、中3から高1になる春休みに初めてNZへ。緑の芝の上で大好きなラグビーに没頭した。試合にも出させてもらった。その後、夏休みと春休みを使って現地の学校へ短期留学し、授業を受けてラグビーに打ち込んだ。大学2年まで計10回も行かせてもらった。

「ほんとに両親には感謝してます。向こうの選手は練習になるとスイッチが入って、サボる人は誰もいなかった。ひたむきさの部分を学ばせてもらいました。練習に120%の力で取り組んでました。こんなプレーあるんやとか、こんな練習方法あるんやとか。ボールの奪い方やしっかり押し出すパスを教えてもらって、またラグビーが面白くなってきました。新しい技術は、練習し続けないとうまくならない。それがまた面白くて。また虜になりましたね」。高校時代はNZ式の練習を自主練習で取り入れ、大学時代は全体での練習に採用されたものもあった。

甲南高2年のころ。怖いもの知らずだった(中矢忠成さん提供)

ただ、高2まではやんちゃなだけの選手だった。甲南高で松岡の1学年上の主将だった中矢健太さんが言う。「まさに暴れん坊将軍でした。先輩の言うことは何も聞かない。プレースタイルも『俺が、俺が』でした。彼が日本一になったあと、僕の同期の仲間内で『俺らが大和を押さえつけんと自由にさせてたおかげもあるな』って言って笑い合いました」

ある大学生ラガーマンの思い「アイツは体現してる。4年生としての生きざまを」(執筆・中矢健太)

先輩の言葉を受けて、本人も苦笑いで振り返った。「手に負えないヤツやったと思います。僕は。最低な後輩やったと思ってます。大暴れしてたんで。高1のときも二つ上のキャプテンとけんかになって。くそ生意気な後輩やったんで、『あいつを縛るのは無理や』ってなったんでしょうね。高2まではほんとにそんな感じでした」。そんな松岡が最上級生になると、南屋大監督から主将に指名された。

天理大学からの思わぬ誘い

進路については高2の11月ごろから考え始めた。もちろんラグビー無名校のNo.8にスポーツ推薦の声がかかるとは考えてもいない。一般入試で関東の強豪の帝京大学か東海大学に進んで勝負をかけようと思っていた。そんな松岡に対して思いがけない誘いがあった。年が明け、初めて主将として迎えた新人戦がボロ負けで終わったあと、2月ごろのことだ。南屋監督から「天理から声かかってんぞ」と告げられた。「ビックリしました。甲南に声をかけてくれるなんて。ちょっと待ってください、って言いました」。母親は猛反対したが、松岡の心は決まっていた。「こういうチャンスを逃したらあかん」

それに天理大はまったく知らないチームではなかった。関西大学Aリーグで35年ぶりの優勝を決めた2010年の関西学院大学との試合中継を、兄が録画していた。「それをずっと見てて、センターの両外国人がカッコええなあと思ってました。黒いジャージーが僕の好きなオールブラックスに見えたし、プレーもカッコええし、大胆やし。まねしたいなあと思って見てました。強いのは知ってたし、ぜひとも入りたいと」。天理大サイドとの話し合いや施設の見学に母親を連れていくとややこしいことになると考え、兄についてきてもらった。自分を勧誘したいと言い出したのは元日本代表の八ツ橋修身(おさみ)コーチと聞いてはいるが、実はまだ「なんで僕やったんですか?」という話を八ツ橋コーチとしたことがなく、2月の卒部式のときに聞いてみようと思っているそうだ。

想定外の展開で進路が決まった。主将として日々の練習に取り組む中で、最後に花園へ行くという気持ちの温度差に苦しんだ時期もあった。プレーの面では高2までよりは大人になった。「相手のペナルティーのあと、すぐにタップして突っ込んでいってたのをグッと我慢してました。自分をコントロールせなあかんと思って」。花園出場をかけた戦いは前述のように、県予選の準決勝で報徳学園に大敗して終わった。

常に全力。決勝でナイスタックルを決めたCTB市川(手前)に大きな声をかける

2017年の春、少し精神的に成長した「暴れん坊将軍」が天理へやってきた。「先輩も同期も関係なく食らいついていったろうという気持ちでした。その結果どのカテゴリーに入っても、楽しんでラグビーをやろうと思ってました。もちろん黒ジャーを着て試合に出たいという思いはありましたけど、そこだけになってしまったら、そもそもラグビーが楽しめなくなるんで。自分の場所を気にしてしまうから。尊敬する先輩もたくさんいたので、遠慮せずいろいろ聞いて、吸収して自分自身のレベルを上げていこうとしました」。合流してすぐの練習から、とにかく体を張ってハードワークした。

たとえば今年度の天理はAチームからIチームまで九つのカテゴリーがあり、折に触れてメンバーの入れ替えがあった。松岡は1年生の5月に、いきなりAチームの試合に出るチャンスをもらった。「平日に試合があったんですけど、たまたま僕は授業の空きコマがあって『大和を入れてみよか』ってなって。1回生の春はそこからずっと出てました。夏合宿でリザーブになって、関西リーグが始まって2試合目までは出たんですけど、3試合目からNo.8のレギュラーの先輩が復帰してきたので、(Bチーム同士で戦う)ジュニアリーグに出てました」。プレーぶりは高校時代と様変わりした。ボールを持っていないところでどんな動きができるかを考え、実行した。「周りにすごい人がいっぱいいたから、目立たないところでどれだけ仕事をするかがラグビーの一番大事なところやと学べました」

明大、早大に黒星、忘れまいと寮に写真

2年生の秋のシーズンはリザーブで、先輩の状況によってスタートに入るという立ち位置だった。大学選手権もリザーブで、17-22と惜敗した明大との決勝も出番はなかった。中1からのラグビー人生で一番の悔しさを味わった。明大の喜ぶ姿を目に焼き付け、オフの期間中からグラウンドに出て、一人で練習した。

2年生の全国大学選手権はチーム2度目の決勝進出で明大に惜敗した

3年生でフランカーのレギュラーに定着。今年こそ、と臨んだ大学選手権では準決勝で早大に完敗した。「試合後に向こうのコーチが小松さんに『(ラインアウトを)相当研究しました』って言ってて。準備のところで負けるという悔しさを味わいました」。決勝で明大に負け、準決勝で早大に負けた。チームとしてこれらの悔しさを一日も忘れないよう、この2試合の写真を寮内の最も目につく場所に貼った。

立候補して主将に

自分たちの代の主将が誰になるかは、3年生の後半から同期の間で話題になっていた。「大和か松永(拓朗=SO、大阪産大附)ちゃう?」という空気があった。高校のときは監督から主将に指名されて「まさか」と思った松岡だが、今回は違った。同期のリーダー格6、7人で学生サイドとしての主将候補を決める話し合いをしたとき、立候補した。「3回生のときにキャプテンのノブさん(岡山仙治=ひさのぶ、現クボタスピアーズ)の隣にずっといたし、ほんとに悔しかった。今年こそ日本一という目標を達成するために、みんなを引っ張っていきたいという思いをめっちゃ伝えて、俺がやりたいって言いました」。学生サイドは松岡主将、松永副将で固まった。小松節夫監督は大黒柱のCTBシオサイア・フィフィタ(日本航空石川)を主将にという考えも持っていたが、学生との話し合いの末に松岡主将、フィフィタ副将という体制に決まった。

天理大学のCTBシオサイア・フィフィタ、勇気与えるプレーで初の頂点へ

2020年度のチーム始動に際して松岡には「このチームで負けたらもったいない」という思いが強かったという。同期ではフィフィタとSH藤原忍(日本航空石川)、松永の3人が1年生からずっとレギュラー。2年生、3年生のシーズンは日本一が見えたところで関東勢の壁を崩せなかった。前年度、早大に敗れた試合の先発メンバーのうち10人が残っていた。経験値と日本一達成への思いの強さでは、どこにも負けない集団になっていたからだ。

【続きはこちら】クラスター発生などを乗り越えて 天理大学・松岡大和主将(下)

松岡主将優勝インタビュー(天理大55-28早大 1月11日@国立競技場)

ありがとうございます!
(スタンドの仲間からの声に、右腕でガッツポーズ)
めっちゃくちゃうれしいです!
本当に、メンバー23人が体を張って臨んだんですけど、今日まで(目頭を押さえる)本当にメンバー外のみんなが協力して、今日までいい準備をしてこれたので、今日の優勝は、天理ラグビー部員全員と、この4年間サポートしてくださったみなさんと、今まで先輩たちが培ってきたものを……
(右ほほを涙が伝う)
全員がいい準備をしてくれた結果、今日、優勝できたと思ってます。
本当にこの一年間はいろいろあった年なんですけど、部員全員が、本当に我慢して、その中で、いろんな方々がサポートしてくれたお陰で、ここまで乗り越えてこれたと思っています。
本当に大会があるかどうかがわからない状況で、不安な選手もたくさんいたんですが、その中で大会があることを信じて、日本一目指して全員で頑張っていこうと、全員が頑張ってこれたお陰で、ここまでこれたと思っています。
メンバー外のみんな、そして応援してくださった方々、本当にありがとうございました!

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