ラグビー

特集:駆け抜けた4years.2021

「芦屋の暴れん坊将軍」が日本一のキャプテンになった 天理大学・松岡大和主将(下)

白川グラウンドで天理大学ラグビー部のスローガン「一手一つ」のポーズをとる松岡大和主将(撮影・篠原大輔)

天理大学ラグビー部は1月、1925年の創部以来初めて日本一となった。平坦(へいたん)な道のりではなかった。昨年8月に奈良県天理市内の部の寮で新型コロナウイルスのクラスター(感染者集団)が発生。約1カ月の活動休止期間には誹謗(ひぼう)中傷を受け、秋のリーグ戦に参加できるのかと疑心暗鬼にもなった。黒衣軍団はいろんな人たちの支えもあって立ち上がり、明治大学、早稲田大学に完勝して全国大学選手権を初めて制した。その真ん中で奮闘した松岡大和(やまと)主将(4年、甲南)のストーリー後編です。

「芦屋の暴れん坊将軍」が日本一のキャプテンになった 天理大学・松岡大和主将(上)

力み過ぎた船出

大学ラストイヤーに悲願の日本一を達成するため、松岡は立候補して主将になった。小松節夫監督からは「今年は厳しさを持ってやっていく」との話があった。それで松岡は力み過ぎてしまった。「自分が率先してやらないといけない、と思って前にいきすぎたり、理不尽なことを言ってしまって迷惑をかけたりしてしまった」。同期の仲間たちに悩みを打ち明けると、親身になって話を聞いてくれた。少し気が楽になった。

昨年4月、新型コロナウイルスの影響で全国的に最初の緊急事態宣言が出され、春のシーズンはなくなった。天理大は6月11日に練習を再開すると徐々に強度を上げ、順調に長野・菅平での夏合宿を迎えようとしていた。合宿直前の8月12日、白川グラウンドで練習が始まってすぐ「集合」がかかった。こんなことはめったにない。松岡は「サプライズで何かあるんかな?」と思った。すると小松監督が全員に告げた。「○○が陽性やった」

8月、まさかのクラスター発生

まさか……。チームメートが感染したという事実に誰もがショックを受けた。練習は打ち切られ、みんな呆然(ぼうぜん)としながら原付きバイクで寮に戻った。全部員168人が同じ寮で過ごしてきただけに、感染は広がる。4日後、奈良県は県内で3例目のクラスターが発生したと発表。最終的に62人の部員が陽性と診断された。

2020年8月、ラグビー部でのクラスター発生に関して会見をする天理大学副学長ら(撮影・朝日新聞社)

寮は閉鎖され、部員たちは病院やホテル、自宅へ。練習再開のめどは立たず、秋のシーズンがどうなるのかという不安が濃くなる。大学や天理市などには、彼らを誹謗(ひぼう)中傷する内容の電話やメール。松岡も「あの時期はヤバかった」と振り返る。部外の学生たちが教育実習の受け入れ先の学校やアルバイト先で不当な差別を受けた。すると天理市長と学長が記者会見して「それは違う」と訴えてくれた。小松監督はあちこちで頭を下げてくれた。

ほかの部の学生たちから、激励の動画が次々に届いた。ラグビースクールの子どもたちは励ましの手紙をくれた。一般の方からのあたたかい手紙も届いた。一つひとつの応援が心に染みた。「前向きにやっていく原動力になりました」と松岡。

大黒柱のCTBシオサイア・フィフィタ(4年、日本航空石川)がチーム内で有志を募り、オンラインでトレーニングを始めた。動画やメッセージをチームメートに共有する際、松岡は「これだけ応援してもらってるんやから、大会が開かれると信じて、俺らはやれることをやっていこう」との言葉を添えた。

練習再開、感謝の掃除

先の見えない約1カ月の日々を過ごし、9月10日から練習再開。当時、松岡は母校の甲南高で教育実習中で、1週間あまり経ってから合流した。「最っ高に楽しかったですね。練習があんなに楽しかったことはないです。うれしかった」。保健体育教員になるための実習では、大事な気づきがあった。「目の前の子だけを見てたら授業にならない。周りを見て、何をせなあかんか考えるようになりました。それにコミュニケーションの仕方も優しく接しないといけない。そういった考え方がだいぶ変わって、キャプテンとしてもまた変われたと思います」

9月になり練習を再開した(撮影・朝日新聞社)

練習が再開すると、部員たちは支えてくれた人たちへの感謝を込めて、週1回、朝に天理駅周辺と前栽駅周辺に分かれて掃除をした。寮では18畳の3人部屋を2人にし、3人以上の滞在は禁止。特別な用事がなければ天理市外には出ず、手洗い・消毒・マスクの着用もより徹底した。

ラグビーができる喜びをかみしめる一方で、1カ月のブランクは大きなものだった。10月の交流試合はもちろん、11月に関西大学Aリーグが開幕してからも天理大の選手たちに手応えはなかった。「セットプレーもアタック、ディフェンスも全然かみ合わないところがありました」と松岡。例年は春の交流戦と夏合宿での練習試合で関東勢の強さを肌で知る。そのチャンスがコロナに奪われたことも大きかった。「僕自身、少し焦りはあったんですけど、試合ごとにどれだけレベルアップしていくかが大事だと言い合ってやってました」。ようやく関西5連覇を決めた同志社大学戦で光が見えた。狙い通りに押せたスクラムが、チームとしての自信になった。

関西大学Aリーグ5連覇。同志社大戦の快勝は自信に(撮影・篠原大輔)

関西での戦いが終わると、また地元のラグビースクールの子どもたちが激励のメッセージ動画を送ってくれた。その中に「僕は天理大学のFWが大好きで、テレビの前でいつも『たにぐち(プロップ谷口祐一郎=4年、東海大仰星)、さとう(フッカー佐藤康=3年、天理)、こっかじー(プロップ小鍛治悠太=4年、大阪産大附)』と応援しています」という言葉があった。試合中のスクラムが組まれる前、スタンドの仲間がFW第一列の3人の名前を叫んで鼓舞するコールは天理大が始め、関西のチームに広がったという。今シーズンは声を出す応援が禁じられ、恒例のコールはなかった。「あれを聞けなかったのは寂しかったです。僕らはAチームの試合だけじゃなく、どのカテゴリーの試合でも絶対やってるんで。僕も言いたかったですよ」。松岡がそう言った瞬間、彼が楽しそうにコールする姿が頭に浮かんだ。

関西5連覇、打倒関東勢へ

いよいよ全国大学選手権。天理大にとって初戦となる準々決勝の流通経済大学戦までの約3週間、毎日が試合のつもりで練習した。大舞台で悔しさばかりを積み上げてきた面々は、ただ勝ちきるという目標に向かって一つの塊になっていった。松岡はことあるごとに、こう言った。「つらいときにお世話になった人たちに、感謝の気持ちだけでは足りない。必ず日本一という結果で恩返しします」。黒衣軍団の真価を問われる戦いが幕を開けた。

松岡組にとって初めての関東勢との戦いとなる12月19日の流経大戦は78-17と圧勝。松岡自身も素早いリスタートからトライをもぎ取った。チームとしての完成度の高まりを実感できた試合だった。12月に入って同志社にクラスターが発生。3回戦から出場するはずだった大学選手権に出られなくなっていた。「聞いたとき、悲しかったです。夏の時点の僕らより、同志社大学さんのメンバーはキツかったと思います。とくに4年生はラストの大会がなくなったんで。彼らの思いも背負って戦いました」。松岡は神妙な顔つきで、そう言った。

大学選手権では先頭に立って関東勢を次々に圧倒、後ろは同期の中鹿駿(撮影・朝日新聞社)

準決勝の相手は2大会前の決勝で悔しい思いをさせられた明大だ。あらゆる準備を尽くした。分析担当は明大のセットプレーを徹底的に調べあげた。Bチームのメンバーはそれぞれが明大の選手になりきり、最高の仮想敵としてAチームの23人を鍛えてくれた。流経大戦のあとにアタック面での意識を変えた。「無理やりフラット(のパス)でいくっていうよりも、余裕を持ってアタックしようと。余裕を持って、かつ、自分たちから相手にプレッシャーを与えにいく。大きく変えたのはそこですね」

ふたを開けてみると、序盤からずっと接点に天理の黒いジャージーが押し寄せる。主導権を握り続け、41-15の完勝だった。「リアクションのところで、必ず相手より速くセットする。それが天理の先輩たちが培ってきた強みっていうところがあるので、そこは練習からめちゃめちゃ意識しました」。フィフィタをはじめ、勝って涙を流す選手たちの姿が印象的だった。

決勝前夜、動画に涙

いよいよ天理大にとって3度目となる決勝だ。前夜、都内の宿舎で恒例の「ジャージー渡し」があった。23人のメンバーが小松監督から黒いジャージーを受け取り、決意表明をしていく。「みんなで必ず勝とう」。フィフィタがそう言って感極まると、みんな涙を抑えられなかったという。松岡はホテルの自室でも泣いた。甲南高ラグビー部の監督、コーチや先輩、同期、後輩や行きつけだった定食屋のおばさんまで、応援の動画がまとめて届いたからだ。「まさか、送ってくれると思ってなかった。一生の宝です」

決戦の日、国立競技場へやってきた松岡はこう思った。「これが最後ということよりも、やってきたことをしっかり出そうと。こんなに素晴らしい環境で試合ができるねんな、と思って。緊張はありましたけど、ワクワクが勝ってました。みんなそんな感じでしたね。雰囲気がめちゃくちゃよかったんで」

工夫したラインアウトでは身長177cmの松岡もジャンパーに(撮影・朝日新聞社)

決勝の相手である早大には、前回大会の準決勝でラインアウトを分析しつくされ、それが完敗につながった。その差を埋める手を打ってあった。昨年の夏からラインアウトを専門に分析するため、4年生の寺尾雄博(たけひろ、石見智翠館)と福岡拓歩(富士河口湖)が裏方に回った。決勝を前に改めてこの二人を中心にラインアウトを立て直した。「自分らがあんまりやったことないラインアウトでいきました。でもそんなに小細工したわけでもがらっと変えたわけでもなくて、シンプルなものを選んで練習で精度を上げて決勝に臨みました」と松岡。その結果、マイボールのラインアウトをほとんど失わなかった。誰もがそれぞれの立場で戦い抜いた天理大が初の大学日本一になった。

苦闘153日、「節っちゃん、やったで」

後半32分で退いていた松岡は試合終了後、スタンドから降りてきた小松監督を探し、痛い足で走って抱きつきにいった。思わず「節っちゃん、やったで」と叫んだ。最初に陽性者が出てから153日間。コロナと闘い、ライバルと戦い、最高の結果を手にした。

天理大を初の日本一に導いた小松節夫監督(撮影・朝日新聞社)

同期の言葉にまた、涙

決勝のあと、東京から天理へ帰る途中、松岡は同期でLOとして活躍した中鹿駿(なかしか・しゅん、光泉)としゃべった。後輩とも垣根なくコミュニケーションをとるタイプの中鹿からは、この一年ことあるごとにアドバイスをもらっていた。「後輩は大和のこと、こんな風に思ってるみたいやで」と。その中鹿がすべてが終わったあとに教えてくれた。

「大和のこと嫌ってたヤツが、『あの人がキャプテンでよかった』って言うてたで」

大和は泣き崩れた。「芦屋の暴れん坊将軍」は確かに日本一のキャプテンになった。小松監督は「みんなを鼓舞して、盛り上げて。松岡のチームだったな、と思いますね」。最大級の賛辞を送る。決勝の数日後、サプライズで神戸市北区の自宅に戻ると、母親が「やまちゃーーん」と叫んで泣きながら抱きついてきた。父親とも抱き合った。

日本代表、先生へと続く夢

春からはトップリーグのNTTドコモレッドハリケーンズに加わる。天理大の同期と日本代表で一緒にプレーしたい。そしていつか、選手生活を終えたら母校の甲南高校で教員となり、後輩たちにラグビーを教えたいそうだ。「とりあえずは体がつぶれるまでラグビーをして、そのあとは自分たちがたどり着けなかった花園に後輩たちを連れていくっていう目標があります」

日本一の主将から、天理大の後輩へのメッセージをもらった。

「日本一という経験ができたのはものすごく大きいと思いますし、そこへの過程でどういった雰囲気だったのかを知れたのは大きいと思います。その経験を生かして、どう頑張っていくか。天理のカラーである『ひたむきにハードワークして頑張り続ける』ってところを最後まで、悔いのないようにやり通してほしいですね」

「一手一つ」を説明してくれたあと、後ろで練習していた後輩を大声で励ました。最後まで全力だった(撮影・篠原大輔)

最後に、この一年を振り返ってもらおう。

「あっちゅう間でした。いろいろありすぎて分からないですね。ほんまに。いろんな意味で、意味のある一年やったと思います」

選手として何かが突出している訳ではない。ただラグビーが大好きで、勝つために誰よりも体を張り、声を張り上げて戦った。そんな松岡大和の4years.が終わった。

in Additionあわせて読みたい